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No.305

美術・工芸展示室、考古・民俗展示室

博多を掘る

平成19年9月4日(火)~平成20年1月14日(月祝)

考古・民俗展示室
博多を掘る(4)―博多のはじまりをさぐる―


 博多遺跡群は、大量出土の輸入陶磁器や、日本最初のチャイナタウンなど、中世の国際都市博多として多くの注目を集めてきました。
 では博多のはじまりはいつなのでしょうか? 中世の国際都市博多の成立は古代に貿易の窓口を担った鴻臚館の衰退とともに、博多に住み着いた宋商人が博多を拠点に盛んに貿易を行うようになったという説が有力です。しかし、博多遺跡群は宋商人が住み着く以前、あるいは鴻臚館の時代以前は無人の地であったわけではありません。発掘の結果、弥生時代や古墳時代の遺構が数多く発見され、実に二千年以上の長きにわたって人が住み続けてきた土地であったことが明らかになっています。
 ここでは発掘の成果によって明らかになった弥生時代~古墳時代の博多遺跡群を紹介しながら、博多のはじまりをさぐります。



甕棺列

1.博多誕生

 博多遺跡群の発掘資料の中で最古の遺物として縄文土器の破片がありますが、住居址などのその時代の明確な人間の活動痕跡は現在までのところ見つかっていません。はっきりとした人の居住した痕跡の残る最古のものは弥生時代前期のお墓です。現在の博多警察署の北側付近で見つかりました。弥生時代中期頃には、祇園町交差点付近で甕棺墓が多数発見されました。甕棺は規則正しく列をなすように埋葬されていました。このような甕棺の並び方は、北部九州では他の弥生時代遺跡でも見られるものです。
 その他の弥生時代の遺物として石包丁の製作途中の未製品や製作時に出た石のくず(剥片)が見つかっています。博多遺跡群に住んでいた弥生時代の人たちが水田稲作をしていた証拠といえるでしょう。
 弥生時代の遺構は、現在の地下鉄祇園駅周辺で多く見つかっています。祇園町付近は博多の誕生時から集落の中心であり、その後も栄え続けた場所でした。


2.貿易の港

 博多といえば現在でも世界中から物資の集まる貿易港です。博多遺跡群に朝鮮半島、あるいは日本全国各地からいろいろなものが集ってくるようになったのは、弥生時代終わりから古墳時代はじめにかけてのことです。
 この頃の博多遺跡群からは東海・近畿・中国・四国地方の土器や、海を越えた朝鮮半島の百済や楽浪郡の土器が出土しています。博多湾沿岸には遠方で作られた土器が出土する遺跡が数多く発見されており、このことから弥生時代末から古墳時代初め頃、この博多湾を日本の窓口として、中国や朝鮮半島の物資が輸入され、ここから日本各地へと運ばれたという説があります。

最先端技術がやってきた
 博多には各地の物品だけでなく、最先端の技術もやってきました。
 鉄器を作るには鉄鉱石から鉄塊を作る「製鉄」という工程と、鉄の塊を精製し、加工して製品にする「鍛冶」という2つの工程が必要です。「製鉄」には技術的に難しく、また中国王朝がその技術を国外に持ち出すことのないように、厳重に管理したためか日本列島にはその技術が伝わりませんでした。一方、「鍛冶」は中国・朝鮮半島経由で弥生時代には日本に伝わっていましたが、地面に穴を掘って木炭を敷き詰めるという簡単な炉を使っていたので、炉内の温度も低く、生産性は低かったと考えられます。
 しかし古墳時代初め頃になると、博多遺跡群の住居址から多数の鉄器未製品とともに断面が台形をした土管が出土しています。これは「羽口」といわれるもので強制的に炉の中に空気を送り込む装置で、炉内を弥生時代の炉より高温にすることが可能になりました。この羽口を用いた炉のおかげでたくさんの鉄器を作れるようになったのです。こうした鍛冶技術は朝鮮半島から直接もたらされたもので、当時の日本では最新の技術でした。

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