展示・企画展示室3

No.493

企画展示室3

野間吉夫と九州の民芸

平成29年6月6日(火)~8月6日(日)

1 民芸運動の広まり
三彩流釉酒甕(高取焼)

三彩流釉酒甕(高取焼)

山茶家(苗代川焼)

山茶家(苗代川焼)

 民衆的工芸、あるいは民間の工芸。これが民芸という言葉の本来の意味だといいます。

 それまでほとんど美の対象と考えられることのなかった名もなき工人たちの手仕事に、優れた造形性を見いだした民芸の思想は、今を生きる私たちが知らず知らずのあいだに身につけた美的感性にも少なからぬ影響を与えています。

 その思想を世に伝え、実践に繋げることを目指した民芸運動は、宗教哲学者・柳宗悦(やなぎむねよし)(1889-1961)の主導によって展開していきます。彼は天才的な作家による作品のみならず、平凡な民衆が生みだす日常のものを注視することで、そもそも美しさとは何であるかを問うたのです。

 大正時代末に打ち出されたこの主張は、多くの人々に衝撃を与えました。そして昭和に入ると、民芸への関心は全国的に高まり、各地でその賛同者が集結し活動するようになりました。

 福岡にあってその運動の前線で活躍した人物に野間吉夫(のまよしお)(1908-83)がいます。彼は新聞社に勤務する傍ら、戦後すぐに九州民芸協会(現・福岡民芸協会)を組織し、柳宗悦をはじめ、陶芸家の河井寛次郎(かわいかんじろう)、濱田庄司(はまだしょうじ)、バーナード・リーチなどと交流を重ねつつ、九州各地にひっそりと息づいてきた日用雑器の探索・紹介に意を注いできました。まさに九州民芸界のまとめ役、オーガナイザーを務めた人物といえるでしょう。

2 民芸探題・野間吉夫
飛鉋文飯鉢(小石原焼)

飛鉋文飯鉢(小石原焼)

鉄釉緑差松文捏鉢(弓野焼)

鉄釉緑差松文捏鉢(弓野焼)

 野間吉夫は明治41(1908)年、鹿児島市に生まれました。九州帝国大学農学部で村落社会学を学んだ後、鹿児島朝日新聞社(現・南日本新聞社)を経て、昭和15(1940)年に福岡日日新聞社(現・西日本新聞社)に入社。戦後は夕刊フクニチ新聞社に移り、昭和46年に退職するまで、工務局長や監査役などを歴任しています。

 彼が民芸と出会ったのは、大学在学中のことでした。柳宗悦『美と工芸』(昭和9年、建設社)で柳のことを知り、当時の寄寓(きぐう)先にあった日本民芸協会の雑誌「工藝」(昭和6年創刊、聚楽社)をめくりながら、しだいに民芸の世界に魅せられていったようです。

 昭和21年、野間が手掛けた夕刊フクニチの特集「九州の民芸」を契機に、福岡市の百貨店・岩田屋で九州民芸展が開催されました。その主催団体として組織されたのが九州民芸協会です。昭和30年には会誌「九州民藝」が創刊されます(昭和40年、第45号まで刊行)。その中で野間は「私どもは力を合せて民芸理論の普及、九州のまだ知られていない民芸品の発見展示、残存民芸の保存育成、新しい民芸品の生産配分といつた仕事にまで活動しなければならない」と述べ、事務局を自宅に置き、記事の多くを自身で執筆するなど、精力的な活動を続けていきました。

 日本の民芸運動の中核にあった巨匠たちにとっても、野間吉夫の存在は大切なものでした。濱田庄司は野間の著書『苗代川(なえしろがわ)』(昭和49年、東峰書房)に寄せた一文に「野間吉夫さんは全九州の民芸探題として古くから私達仲間の厚い信頼をうけてこられた」と書いています。鎌倉幕府が九州を統括するために置いた鎮西探題(ちんぜいたんだい)になぞらえた民芸探題は、民芸運動における野間吉夫の立ち位置を象徴するような絶妙の名付けでした。

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休館日

開館時間
9時30分〜17時30分
(入館は17時まで)
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休館日
毎週月曜日
(月曜が祝休日にあたる場合は翌平日)
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