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No.510

企画展示室2

市美×市博 黒田資料名品展Ⅶ 黒田如水の文芸

平成30年3月6日(火)~4月30日(月・祝)

1、はじめに
黒田如水像(部分)

1 黒田如水像(部分)

 福岡市美術館と当館がそれぞれ所蔵する、福岡藩主ゆかりの「黒田資料」を併せて活用するシリーズ展示の7回目は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)(1537~1598)の参謀として活躍した福岡藩祖・黒田如水(くろだじょすい)(孝高≪よしたか≫、官兵衛≪かんびょうえ≫、1546~1604)の文芸がテーマです。※黒田孝高が剃髪(ていはつ)して「如水」と号すのは文禄(ぶんろく)2(1593)年以降ですが、混乱を避けるため、本展では全て「如水」で統一します。





2、若い頃は和歌の道を志していた
黒田如水墓所(崇福寺)

黒田如水墓所(崇福寺)

 福岡市博多(はかた)区千代(ちよ)にある黒田家の菩提所(ぼたいしょ)・崇福寺(そうふくじ)の裏手には黒田家歴代の墓所があります。その中でもひときわ目立つのが黒田如水のお墓です。ぎっしりと刻まれた文字は外交僧として活躍した景轍玄蘇(けいてつげんそ)(1537~1611)によるもので、如水の経歴が詳しく書かれています(資料2)。その中に17・8歳の頃のこととして「専愛和歌之道(もっぱらわかのみちをあいし)、上自三代集(かみはさんだいしゅうより)、下至八代集(しもははちだいしゅうにいたる)、此外更及源氏物語(このほかさらにげんじものがたり)、伊勢物語(いせものがたり)、諸家歌集等(しょかかしゅうなどにおよびて)、有欲通習之志(つうしゅうせんとほっするのこころざしあり)」という記述が出てきます。大まかな意味としては、若い頃に如水は和歌の道を愛し、勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)(天皇や上皇≪じょうこう≫の命令で編まれた和歌集)を学び、さらに源氏物語などの古典をも学んでいこうという志があったという内容になります。しかし、戦乱の時代に兵書(へいしょ)ではなく歌を学ぶことが果たして世の中の役に立つことなのかと圓満坊(えんまんぼう)という僧に諭され、道半ばにして、和歌の道をあきらめたと墓碑の記述は続きます。

 また、江戸時代中期に成立した黒田家の歴史書「黒田家譜(くろだかふ)」(資料3)にも、墓碑と同じく如水が若い頃から風雅の道に心を寄せていたことが記されており、さらに、当代随一の文化人である細川藤孝(ほそかわふじたか)(幽斎≪ゆうさい≫、1534~1610)から「新古今集聞書(しんこきんしゅうききがき)」(資料10)を贈られたこと、晩年には連歌の神として崇敬を集めた天神(てんじん)を祀(まつ)る太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)で連歌(れんが)興行を行なったことなどが記されており、文雅の道にも通じていた人物として知られていたことが分かります。

3、如水の文芸活動

豊前国中津(ぶせんのくになかつ)(大分県中津市)の領主であった如水が家督(かとく)を息子の長政(ながまさ)(1568~1623)に譲るのは天正(てんしょう)17(1589)年の四四歳の時です。しかし、その後も小田原(おだわら)攻めや朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)に従軍しており、忙しい日々を過ごしています。如水の文芸活動が具体的に見えてくるのは慶長(けいちょう)3(1598)年、53歳以降のことで、特に上方(かみがた)などで連歌会に参加していることが各地に残る連歌資料から明らかになっています。如水は主に京都において、桃山(ももやま)時代の連歌の第一人者である里村紹巴(さとむらじょうは)(1525~1602)や「寛永(かんえい)の三筆(さんぴつ)」の一人に数えられる近衛信尹(このえのぶただ)(1565~1614)ら公家衆(くげしゅう)と交流し、連歌の腕を磨いていきました。ちなみに、近衛信尹は黒田家が筑前国(ちくぜんのくに)の領主となった際に如水に宛てた書状(太宰府天満宮所蔵)で「宰府之天神(さいふのてんじん)よき仕合(しあわせ)にあはれ候(そうら)はんと珍重候(ちんちょうにそうろう)」として、連歌の神にゆかりのある地を領したことを祝福しています。

休館日

開館時間
午前9時30分~午後5時30分
(入館は午後5時まで)
休館日
毎週月曜日
※ただし月曜日が祝休日の場合、翌平日休館
pressrelease

Facata(博物館だより)

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