展示・企画展示室1

No.517

企画展示室1

博多祇園山笠展18−藩主と家族の山笠上覧−

平成30年4月24日(火)~6月24日(日)

九代藩主斉隆の山笠上覧

 九代藩主斉隆(なりたか)は治之の従兄弟にあたり、幼くして一橋家から養子に入った人物で、初入国は寛政(かんせい)五(一七九三)年の一七歳の時で、六月一四日に上覧しています。彼の場合は、新藩主としての新しい領内の視察も兼ねていたようで、その道順は、前日に福岡の荒戸の波奈(はな)の港から乗船し箱崎(はこざき)に上陸、お茶屋(ちゃや)で一泊し、翌日は石堂橋から御供揃えで堂々と博多に入り、櫛田神社に至るものでした。現在、黒田資料に残る福岡図巻には、享和(きょうわ)元(一八〇一)年以前の、福博(ふくはく)両市中(りょうしちゅう)の様子が描かれ、彼が通った博多湾と城下を、一目でながめられますが、くしくも博多には六本の山笠が立っています。

一〇代斉清、一一代長溥の山笠上覧

 一〇代斉清(なりきよ)は国元(くにもと)生まれで、父の斉隆の急死でわずか一歳で藩主になり、六歳で江戸に移る寛政一二(一八〇〇)年まで、三度も上覧しました。成人して初帰国した文化(ぶんか)八(一八一一)年にも上覧しています。彼の生きた時代は庶民文化も華やかで、山笠も豪華でした。

 一一代長溥(ながひろ)は薩摩(さつま)(鹿児島)藩主島津(しまづ)家から斉清の養子となり、世継として帰国した文政(ぶんせい)一二(一八二九)年に上覧し、その様子は側近(そっきん)の御納戸頭(なんどがしら)・杉山文左衛門(すぎやまぶんざえもん)(尚行<なおゆき>)の日記や櫛田神社の記録に残されています。上覧は六月一五日舁山(かきやま)の四日前の一一日に行なわれ、福岡城から供揃えの行列で中島橋を渡って櫛田神社神職の祝部氏宅に着き、衣冠束帯(いかんそくたい)で参拝した後、祝部氏宅に戻って着かえ、設(しつら)えられた桟敷(さじき)からじっくりと見物しました。

 江戸時代後期の藩主や世継の上覧は、博多の祭りの組織を総動員した、大がかりな儀式でした。上覧の手順は、大乗寺前町に待機させられた各流の六本の山笠が、合図で順番に櫛田神社の鳥居の前に据えられ、舁き手が祝唄を唄いながら向けた山笠の表をまず見ます。次に向き直って見せる山の見送りを見ます。この後今度は櫛田神社から川端を回り大乗寺(だいじょうじ)前町の北の土居町(どいまち)に揃った六本の山笠が、合図で神社と祝部氏宅の前を舁かれて勢いよく駆(か)け抜けるのも見物しました。

 長溥が藩主就任後初めて帰国した天保(てんぽう)六(一八三五)年には、六月九日に呉服(ごふく)町の町人大賀(おおが)氏宅で舁山(かきやま)を上覧しましましたが、その後の据山(すえやま)見物は雨で中止になりました。一二日は博多を訪れる甥の島津斉興(しまづなりおき)に見物させる予定でしたが、斉興の博多到着が遅れて中止になりました。上覧用意のための莫大な費用や人足が無駄になったという風評があったと、福岡町人の記録にあります。

一二代長知と若御前様の上覧

 長知は伊勢(いせ)国(現三重県)の藤堂家(とうどうけ)から養子に入った人物で、嘉永(かえい)六(一八五三)年に世継ぎの若殿として初入国、山笠を上覧しました。この年は櫛田宮の遷宮で博多自体が盛り上がった年でした。上覧の次第は養父長溥の文政一二年を前例としたと記録に残っています。

 その後幕府は参勤交代制度を緩め、江戸藩邸にいた大名の家族が国元への帰国するのを認めました。長知夫人(若御前様(おまえさま))の豊子(とよこ)は、帰国の翌文久(ぶんきゅう)三(一八六三)年に山笠を上覧しています。藩政初期の如水、長政の奥方については不明ですが、二代忠之以降の藩主正室が山笠を見たのは、唯一(ゆいいつ)この豊子だけです。

 彼女が見た六本の山笠は絵図で完全に揃っており今回展示で見ることができます。
(又野誠)

休館日

開館時間
午前9時30分~午後5時30分
(入館は午後5時まで)
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毎週月曜日
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