展示・企画展示室2

No.525

企画展示室2 黒田記念室

福岡藩・武家の医家の人々

平成30年11月6日(火)~平成31年1月6日(日)

図1 塚本家資料_初代塚本道庵像

図1 初代塚本道庵像

はじめに

 医学や医療(いりょう)は、現代の我々の大きな関心事のひとつです。この展示では、本館が収蔵する福岡藩の医師の家(医家(いか))に残された資料を中心に、藩医(はんい)から見た藩主と藩の歴史・文化を紹介し、当時の人々と医療の関わりを見ていきます。

初代黒田長政・2代忠之時代の医家登用

 天下統一の時代、京・上方では曲直瀬道三(まなせどうさん)など、日本古来の古医方(こいほう)の名医が豊臣秀吉(とよとみひでよし)や諸大名の医療(いりょう)に関わり、江戸時代に入り曲直瀬家2代玄朔(げんさく)が徳川将軍の御典医(ごてんい)になりました。彼は後に黒田家建立の江戸・祥雲寺(しょううんじ)に葬られました。

 筑前(ちくぜん)ほぼ一国の大名となった初代福岡藩主黒田長政(くろだながまさ)は、医学の心得のある人物を召し抱えましたが、そのうち鷹取(たかとり)家は、初代が戦場での苦しい体験から医学の道を選び、仕えていた岡山の大名宇喜多(うきた)氏没落(ぼつらく)後は、長政の招きにも武士として仕えることは辞退し、代わりに二人の息子を医師として仕えさせました。

3代光之・4代綱政時代の登用と侍医たち

 江戸時代も太平となった一七世紀後半には、医師が職業として社会的に認められ、医学も実際的な分野で発展し、普通の医師のほか、外科や金瘡(きんそう)、針灸、小児科(「児」)、歯科(「歯」)などの医師が見られます。金瘡は本来戦場での傷を治す術を継いだもので、まだまだ乱世の余韻を感じさせます。

 この時代は長い戦乱の中で没落したり、武家を捨てた人々の子孫で、医師として身を立てようとする人々が見られます。そのひとり筑前国那珂(なか)郡出身の青木道琢(あおきどうたく)は、家の再興をめざして長崎で阿蘭陀(おらんだ)外科医術を学び、在野(ざいや)ながら江戸で名声(めいせい)をあげました。3代藩主光之(みつゆき)は道琢を300石の知行で召し抱えました。同じく阿蘭陀外科を学んで、光之時代に登用された初代塚本道庵(つかもとどうあん)の家は、仕えていた柳川(やながわ)の大名立花氏のもとを離れ福岡職人町に移住し、道庵は長崎で外科を修めました。このように福岡藩の江戸前期の医家、特に外科を考える時、藩が幕府の命令で勤める長崎警備(ながさきけいび)の存在は大きく、長崎で解剖学(かいぼうがく)など阿蘭陀外科術を習得して免状をもらい、福岡藩に仕えた原三信(はらさんしん)などもいました。さらに武家でも後継(あとつぎ)の男子以外で、医師として身を立てようとする人もおり、福岡藩の儒学者(じゅがくしゃ)貝原益軒(かいばらえきけん)も若い時には、一時医師をめざして長崎を訪れています。光之の時代には、このように医学関係の人材が様々に筑前に集められました。

 藩に登用された医師たちは、侍医(じい)として藩主の身近に仕える御納戸組(おなんどぐみ)に所属し、藩主の側に詰めるため高い身分の格を与えられました。4代綱政(つなまさ)時代にも引き続き彼らやその子が侍医として活躍し、福岡城内や江戸屋敷で、藩主の日常の健康管理から治療まで任せられ、参勤交代や、長崎警備にも随行(ずいこう)します。他の大名の病気見舞いに派遣されることもありました。また藩主と侍医は茶や和歌といった文化の面でも深い絆(きずな)ができました。藩主の世子(せいし)や夫人、家族にも、同様にお付の医師たちがいました。

江戸時代中後期の藩医組織とその勤め

 江戸の中期以降、6代継高(つぐたか)の時代には、藩の医家の家督相続(かとくそうぞく)に関わる触達(ふたつ)が多く出されます。内容は藩医が得た知行(ちぎょう)や俸禄(ほうろく)・扶持(ふち)は、その人一代限りのものであり、実子や養子がきちんと医術を習得した場合のみ、例外を除き、相続を許可し藩医とする、というもので、以後の基本法になりました。

 侍医の科別の種類と、それに対応した知行高や俸禄(ほうろく)・扶持(ふち)高、勤務に対する諸手当(てあて)についても触達が出され、陣容と職務が窺えます。本道(漢方内科)の侍医は「御匙(おさじ)」、外科、針科、眼科、歯科などは「御療治」勤めの医師といわれます。藩主の侍医は、世襲の高禄知行の医師や、俸禄・扶持を受けた藩医のうちベテランや良医が抜擢(ばってき)され、全部で10人程の医師団でした。御匙医は知行で100石、俸禄・扶持で20石6人扶持の手当を受けます。次いで藩主の家族付の医師がおり、さらに城中や藩邸内に詰める御番医(ごばんい)や御構(おかまえ)付医師が配置されました。

 それ以外の医師たちは、「平勤(へいぎん)」とされ、最低6石3人扶持を与えられて城代組に属し、藩医(官医)として登録され、普段は在宅しています。彼らのうち藩の御用を何度も勤め、技術的に優れた医師は、侍医の「助」(本道では御匙助)に任じられ、最後は侍医に任じられるのが昇進のコースとなりました。

 幕末には藩医の総数は、約120人で、医術も専門の分化が進みました。約5割は本道で、外療(外科)や針療科、小児科(一部は産科兼任)各20人程度、眼科、歯科などは3~5人程いました。また在野(ざいや)の医師でも優れた人物は、藩に招かれて短期間で昇進し侍医になっています。これら人事は、侍医の一席(藩医のトップ)に任じられた医師が中心となって行われました。

医家(いか)の城下町(じょうかまち)での暮らしと医療・修業(しゅうぎょう)

 高位の医師は城下町の中に武家と同じく屋敷が与えられ、なかには鷹取氏の養巴(ようは)町、鶴原氏の鴈林(がんりん)町と、町の名前にもなっています。幕末の博多には藩医たちがまとまって居住する場所も見られました。城下や博多で、藩医は10人程の組にまとめられ、一般の武士と同様、知行米や、扶持米で生活しました。

 福岡・博多に住む藩医は武士だけでなく町人などにも医術を施(ほどこ)し、藩もそれを人道や、医学技術向上のために認め、昇進の条件にもしました。また治療による収入もありました。藩の国(こく)学者・青柳種信(あおやぎたねのぶ)の夫人の病気治療では、藩医が自宅に訪れました。城下周辺村々や郡部に住む医師もおり、糟屋(かすや)郡の眼科の侍医・田原氏は、名医として西日本の各地から患者を受け入れたことで有名です。

藩医は自宅内に弟子を抱えますが、大がかりな塾を開き、藩医の子弟や新たな医師希望者を教育する指導者もいました。若い医師が修業のため他国に遊学(ゆうがく)し、医術の研鑽(けんさん)に励むこともありました。

近世後期~幕末の藩主と藩医たち

 近世後期に登用された医家がどのように藩や藩主に仕え、活躍したのか、その一端を紹介します。金印発見で有名な儒学者亀井南冥(かめいなんめい)も、初め亀井主水(もんど)として7代治之(はるゆき)に藩医としても登用され、病気の治之の最後も診察します。後に小児科の侍医となる上村尚庵(しょうあん)は南冥に漢学(かんがく)を学びました。

 8代斉隆(なりたか)は家臣の医療に必要な薬草栽培を城内で計画し、特に朝鮮人参の栽培に力を入れています。その子で10代斉清(なりきよ)は、父の急死でわずか1歳で藩主となり、奥向(おくむ)きでは彼の健康管理のため、守役(もりやく)が奥女中(おくじょちゅう)や上村尚庵などの医師を中心に万全の体制をとります。19世紀前半の斉清の治世時代、尚庵の子・米山(べいさん)(2代尚庵)は領内の郡浦町の窮民御救の御病受持などの役目を勤め、小児科に産婦人科を兼任し、御番医や斉清奥向きの医療も務め、最後は侍医となりました。

 幕末の11代長溥(ながひろ)は西洋医学に詳しく、当時恐れられた天然痘を、領内に種痘を普及させて防せごうとしました。在野でオランダ医学を学んだ武谷祐之(たけやゆうし)を藩医に登用し、後に侍医の一席に任命して、医療行政や西洋の科学技術吸収に当たらせました。外科の塚本氏も藩に西洋医学への建策を出すなど、新しい医学振興(しんこう)の機運は高まり、長溥は古医方と西洋医学の両方を教える医学館(賛生館(さんせいかん))を福岡土手町(どてまち)に造りました。維新後、医学館は博多中洲へ移され県営の福岡医学校になり、近代医療の発展に大きな役割を果たしました。          (又野誠)

休館日

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