金印は江戸時代、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)で農作業中に偶然発見されました。その後、筑前藩主である黒田家に代々伝わり、1978年に福岡市に寄贈されました。
 異民族の王にも官位と印綬を与えることによって皇帝を頂点とする秩序に組み入れようとした印章制度は、漢代の外交政策を反映しています。鈕のかたちは賜られた民族の領土によって異なります。北の匈奴(きょうど)など北方諸民族の侯王には駱駝や羊の鈕、漢の中原地帯の皇太子や高官には亀の鈕の印が下賜されました。蛇の鈕をもつ金印としては中国雲南省の石寨山の6号墓で出土した「てん王之印」が知られています。
 金印が偽物ではないかという説は近年までありましたが、1981年、中国江蘇省の甘泉2号墳で出土した「廣陵王爾(こうりょうおうじ)」の金印は、58年に光武帝の子「劉荊(りゅうけい)」に下賜されたものでした。この印は亀の鈕ですが、円い鏨の表現や字体が奴国王の金印と似通っていることから、同じ工房で製作された可能性がたかいものです。この兄弟印の発見によって金印贋作説に終止符が打たれ、中国の史書『後漢書』倭伝にある、建武中元2年(57)光武帝が奴国の王に与えた「印綬」に相当することは確実になりました。さらに唐代に編纂された「翰苑」に「中元之際紫綬之栄」とあることからもともと鈕(つまみ)には紫のくみひもが結わえられていたと推定されます。まさに西暦57年の歴史が当時の最高の技術で封じ込められているのです。
 さいごに金印の読みについて一言。印面に刻まれた文字は、“漢”の文字で始まります。異民族であっても直轄領内の内臣には「てん王之印」のように王朝名は付きません。漢で始まるのは倭が外臣として服属しているが、直轄領となっていなかったためです。
 つぎの“委奴”の解釈はわかれていましたが、『後漢書』の記載と一致することから「倭奴(わな)」の略字と理解できます。外臣に下賜する印には王朝名の次に民族名、そして部族名がくるので、「倭(わ)(族)」の「奴(な)(部族)」とつづきます。最後の“国王”は外臣の王を格付けする五段階の筆頭で、自己の領域の支配権が認められたことを意味します。以上の理由で「漢委奴国王」を「漢ノ委ノ奴ノ国王(かんのわのなのこくおう)」と読むことができます。