金印公園にある石碑

 では、なぜ金印は志賀島に埋められていたのか。これまで「墳墓説」「隠匿説」が唱えられ論争となった時期もありましたが、全く不可解。(もし今日まで奴国王の金印が見つかっていなければ、誰も志賀島にあると予測できなかったでしょう。)
 金印の発見については甚兵衛の口上書以来40年ほどの間に10近い文献があります。口上書にある金印を覆った「二人で持つほどの石これあり」は他の文献では“大石”や“巨石”と表現が変化しています。このほか「石の間に光りそうろう物」とある部分は、口上書を実見できる立場にあった福岡藩の学者、梶原景熙(かげひろ)の『金印考文』では「周囲をとりまく三つの石は、箱のようだ(筆者訳)」と記されています。実証的な研究で知られる国学者、青柳種信(あおやぎたねのぶ)や『金印弁』の著者である亀井南冥(なんめい)の子、昭陽(しょうよう)らが自著にこの表現を採用しているのは記述の信憑性の高さを示しています。
 この所見を北部九州の発掘調査から類推すると、平面長方形の4方を板石で囲む箱式石棺のような遺構が想定されます。箱式石棺の一辺が破壊をうけると平面コ字形となり景熙(かげひろ)の記述と合致するわけです。ただし箱式石棺は埋葬施設ですから金印は副葬されたことになります。
 1世紀から2世紀にかけての北部九州では武器形祭器である銅矛や銅戈などの青銅器の埋納がさかんです。しかしこれらはすべて国産青銅器であり、地面を箱状に掘り窪めたところに埋納(まいのう)するのがふつうです。石囲いが金印を納めるための施設だとすると、青銅器の埋納とは異なるコンセプトを見いださねばなりません。
 金印は古代中国の歴史書に記されたもので単に日本だけの遺産ではありません。同時に発見者や発見場所に謎が多い分だけ、ロマンが香るのかもしれません。