福岡藩の時代


 18世紀〜19世紀中ごろには西洋列強が東アジアに進出しはじめました。長崎にも1804(文化元)年にロシアのレザノフが通商を求めて、1808(文化5)年にイギリスのフェートン号がオランダ船と偽って侵入しました。そのため、福岡藩の長崎警備も強化されました。それが藩財政を圧迫する一因となり、1834(天保5)年、財政改革をせまられました。1853(嘉永6)年、浦賀にアメリカのペリーが来航し、翌年日本は開国しました。このため尊壌運動が盛んになりましたが、11代藩主黒田長溥(ながひろ)は第1次長州戦争の後、藩内の尊皇攘夷(そんのうじょうい)派の弾圧を行なったため、藩は明治維新に向けての積極的な活動をしませんでした。
東アジア図 1764年






『海冦記略』
 福岡藩士明石行憲(1773〜1833年)
の著で北九州を中心とした日本の海防を
説いた書です。



黒田長溥(1811〜1887)


野村望東尼(1806〜1867)
 勤王の志士。藩の弾圧で姫島に流されました。  歌人としても有名です。

ペリー神奈川(横浜)上陸図

露西亜船来航警備の図 県661
  レザノフ来航時の福岡藩によるロシア船警備の図です。