No.21 黒田家軍船の図



黒田家軍船之図

  筑前52万石の福岡藩の軍船を描いた図です。船の先の水押(みおし)には黒い房が下がり、船首には碇(いかり)が見えます。船体は黒い天幕(てんまく)と赤白赤(中白)の垂れ幕で飾られ、船尾に赤地に黒田家の石餅(もち)紋(白い丸)の入った旗が立ち、舵も同様の飾りで覆われています。この型の船は関船(せきぶね)と呼ばれ、一本柱の帆で海上を走り、また何十挺もの櫓(ろ)で漕ぎ廻ることもできる軍船です。
 とくに藩主の乗る御座船にされる関船は、櫓が約70挺、80挺もの大船で、全長は約30mもありました。また、家老や家臣の乗る船も40挺から60挺程のものまでいろいろの大きさのものがありました。福岡藩では江戸時代後期で大小の関船を40艘以上持ち、その他の小船や輸送船もあわせると、日本で有数の水軍を持っていました。そして、これらの船により、幕府から命じられた長崎港の警備(長崎御番)を勤め、また江戸時代前期には、藩主の参勤交代(さんきんこうたい)の道中、福岡から大坂まで海路を旅したのです。ところで江戸時代の初めには、初代藩主黒田長政(くろだながまさ)は伊勢船(いせぶね)という型の安宅船(あたけぶね)を持っていました。安宅船は関船よりもさらに大きい海の要塞(ようさい)というべきもので、これに大名が乗って水軍を指揮したのです。しかし1609年、徳川幕府により没収され、以後藩主の乗る船は大型の関船となります。黒田騒動で有名な二代忠之(ただゆき)の鳳凰丸(ほうおうまる)も、大型の関船を飾ったものと言われます。三代光  
黒田家軍船之図
之(みつゆき)以後の御座船は住吉丸(すみよしまる)が有名で、江戸時代を通じて何回も修理、新造されて使われました。この図は船体の長さから御座船ではないようですが、白木の船体にシンプルな飾りの勇姿は、今では想像もつかない、福岡藩の海での活動のようすをしのばせてくれます。
(又野 誠)