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  • No.504 市美×市博 黒田資料名品展Ⅴ 黒田家と鉄砲

企画展示

企画展示室2
市美×市博 黒田資料名品展Ⅴ 黒田家と鉄砲

平成29年11月7日(火)~平成30年1月8日(月・祝)

安土(あづち)・桃山(ももやま)から、江戸時代の初めまでの天下統一の時代、初代福岡藩主黒田(くろだ)長政(ながまさ)は数々の合戦に参加し、一躍(いちやく)筑(ちく)前(ぜん)一国の大名となりました。この時代から鉄砲は、大名黒田家にとって重要な武器でした。本展示では火縄(ひなわ)銃(じゅう)から、260年後の幕末の洋式(ようしき)銃(じゅう)まで、福岡藩の歴史と文化にとって果たした役割を、本館収蔵資料や市美術館の黒田資料で紹介します。

1、天下統一と黒田家の鉄砲
関ヶ原合戦の黒田家鉄砲隊(参考写真)
関ヶ原合戦の黒田家鉄砲隊(参考写真)

若い日の黒田長政は、鉄砲は合戦で特に防御(ぼうぎょ)での重要な武器と述べたといわれます。朝鮮出兵の終わりに長政が救援した蔚(うる)山(さん)城攻防戦では、鉄砲でようやく撤退(てったい)ができたほどです。さらに慶長(けいちょう)5(1600)年の関ヶ原合戦で、東軍に味方した黒田長政は、西軍石田三(いしだみつ)成(なり)の陣を攻撃しました。長政は鉄砲組から選抜した50人の鉄砲(てっぽう)上手(じょうず)を菅(かん)和泉(いずみ)に指揮させ、石田家の有力部将の島(しま)左近(さこん)隊を撃退しました。後に黒田二十四騎(くろだにじゅうよんき)と呼ばれた有力家臣にも、鉄砲組頭(かしら)の益田(ますだ)与(よ)助(すけ)、鉄砲組大頭(おおかしら)の野口(のぐち)佐(さ)助(すけ)がいます。

慶長20年の大坂(おおさか)の冬の陣では、長政は息子忠之(ただゆき)の出陣に際して、鉄砲(てっぽう)衆(しゅう)のい組ごとに服装・出で立ちを統一し、順番に先陣(せんじん)を務めることを命じ、弾薬(だんやく)の補給(ほきゅう)や城攻め用の大筒(おおづつ)の使用も指示しました。当時の鉄砲衆は桃形兜に揃いの道服(どうふく)で、鉄砲の購入手当を支給されるなど優遇され、長政死去の元和9年には約500人の鉄砲衆がいました。

2、長政愛用の火縄銃たち

当時の鉄砲は、砲術(ほうじゅつ)に各流派(りゅうは)が生まれ名人が登場し、長政も稲富一夢(いなとみいちむ)に射撃技術を学び免状を得ています。日本の火縄銃は、西洋の同時代の銃に比べて命中率(めいちゅうりつ)もよく、武士の狩猟(しゅりょう)にも使われました。長政も鉄砲衆を供に猟にでかけ、愛(あい)銃(じゅう)「次郎坊(じろうぼう)」を家臣の黒田(くろだ)一成(かずなり)に持たせ、自分は「太郎坊(たろうぼう)」を持ち、2人で大猪(いのしし)をしとめたと「黒田家(くろだけ)御重宝(おんじゅうほう)故実(こじつ)」に記されています。

長政の愛用の銃はこの2挺だけでなく、江戸時代の中ごろまで福岡城内の保管庫には数多くの愛用火縄銃が残されていました。これらは長政好みの銘や象嵌などが彫られています。なお当時の武士が、自分用に持った鉄砲は「持(もち)筒(づつ)」といわれ、自分の従者にも何挺かの鉄砲を持たせて合戦に参加しましたが、これら火縄銃も威力(いりょく)の大きい大口径(こうけい)から、命中率のたかい小口径まで区々です

3、鎖国・長崎警備と黒田家の砲術

大坂の陣後、黒田家で鉄砲を使った合戦は、寛永(かんえい)14(1637)年から起きた天草(あまくさ)・島原(しまばら)一揆の際に、一揆勢(いっきぜい)が立て籠(こも)った原(はら)城をめぐる攻囲(こうい)戦です。黒田忠之(ただゆき)の福岡藩や支藩の秋月藩(あきづきはん)、東蓮寺(とうれんじ)藩など約2万の黒田勢は、本藩直属だけで1100挺の鉄砲を用意し、それらは藩主の近くに控え鉄砲で護衛する「御側(おそば)筒(づつ)」と、鉄砲組に所属する足軽(あしがる)などに分かれています。

一揆勢も多数の鉄砲を持ち、激しい銃撃で12月には幕府の上使(じょうし)・板倉(いたくら)氏が、また翌年明けの夜襲では黒田家の家老が戦死するほどでした。2月下旬の総攻撃で黒田家の各家臣は本丸に乗り込んで従者とともに鉄砲を撃ち、到着(とうちゃく)した藩の鉄砲衆も指揮して戦っています。

この大一揆のち、幕府は鎖国(さこく)政策をすすめ、寛永18年福岡藩は幕府(ばくふ)直轄(ちょっかつ)の長崎(ながさき)港の警備を命じられます。警備はポルトガル、スペインの大型の異国(いこく)船(せん)相手のため、福岡藩では当時は石火(いしび)矢(や)とよばれた大砲と砲台(ほうだい)が必要となりました。しかし近接戦(きんせつせん)のために火縄銃や、口径の大きく持ち運びのできる大筒(おおつつ)(大鉄砲)も必要でした。そして正保(しょうほう)4(1647)年、長崎港にポルトガル船が通(つう)商(しょう)再開(さいかい)を求めて来航した際、幕命に抵抗した場合に備え、黒田忠之(ただゆき)は、石火矢と、鉄砲・大筒での停泊(ていはく)船(せん)への奇襲(きしゅう)を計画しています。長崎警備を通じて福岡藩の軍備も整えられ、鉄砲大頭は4人(4組)で藩の鉄砲総数は家臣分も合わせて約1700挺に及びました。翌慶安(けいあん)元年の藩主の命令では、長崎港に国交のない異国船が来航した時は、鉄砲大頭2組が出動し、異変があった際には留守の鉄砲を除いて総出動すること、また組の鉄砲の口径も家臣の持つ鉄砲も含めて統一すること、が指示されています。

享保(きょうほう)2(1717)年から玄界灘(げんかいなだ)で清商船と日本商人の密貿易(みつぼうえき)取り締まりが行われ、福岡藩は砲術役(ほうじゅつやく)を乗せた中型の小早船(こばやぶね)6隻からなる鉄砲船を主力とした軍船団をさし向けます。大きい石火矢を積めない小早船の主砲に使われたのが、砲術役が船の上で操作(そうさ)し、熱い鉄玉で相手を焼き払う「大筒」で、現在伝わる抱(かか)え大筒にもよく似ています。

16. 火縄銃(太郎坊)「烏天狗図金象嵌」
16. 火縄銃(太郎坊)「烏天狗図金象嵌」
4、天下泰平の時代の砲術修行

この時代以後、福岡藩でも鉄砲の使われる事件はほとんどなく無事な時代が過ぎ、全国的に砲術は実戦より、上、中級武士の嗜(たしな)みとして習得(しゅうとく)されており、砲術の演技(えんぎ)的な流派が広まったのもこのころです。ただ福岡藩では長崎警備の関係で、砲術の実地(じっち)訓練(くんれん)は盛んで、箱崎(はこざき)(現市内東区)などで行われ、訓練では足軽は陣笠、武士は火事(かじ)装束(しょうぞく)で鉄砲の発射訓練を行いました。また正月には藩主の前で鉄砲撃ち始めの儀式がありました。なお抱え大筒は、長崎の町の唐館(とうかん)騒動(そうどう)の取り締まりで、威嚇(いかく)のために使用されています。

5、西洋兵学の流入と幕末兵制改革

しかし18世紀の後半から北のロシア、極東(きょくとう)に来たイギリスが日本にも接近を始めます。しかも西洋諸国の火器を中心とした軍事技術の発達は目覚(めざ)ましく、通商(つうしょう)国(こく)オランダを通じて、日本にもその情報は伝わりますが、長崎の町人・高島秋帆は、オランダの兵学を学び塾を開きますが普及はしません。しかし天保4年に11代藩主となった黒田(くろだ)長溥(ながひろ)は豊富な西洋軍事学の知識を持ち、弘化年間から長崎台場の増強を計画し始め、嘉永5(1852)年以後、西洋の小銃製造技術(ぎじゅつ)習得(しゅうとく)のために技術者を長崎に派遣し、前装式ゲベール銃などを購入します。

長溥(ながひろ)は安政2(1855)年から本格的な洋式銃を装備する兵制の改革を計画しますが、藩の財政負担や保守的(ほしゅてき)な意識から反対する家臣も多く、一部の藩士による洋式兵術訓練で止まります。

しかし文(ぶん)久(きゅう)3年(1863)には、命中(めいちゅう)精度(せいど)の高い前装式施条(せんじょう)式銃数千丁、新式の後装(こうそう)式騎銃の購入を始めました。そして慶応元(1865)年、福岡藩でも中級武士を銃士(じゅうし)、御側筒や足軽の銃手(じゅうしゅ)とし、鉄砲大組頭(おおぐみかしら)を隊長とした、大隊小隊を編成する兵制改革(かいかく)を断行します。藩の兵士は洋式銃の扱いに便利な帽子や笠をかぶり、明治維新にかけて洋式の服装で国内を転戦しました。
(又野誠)

出品資料(会期中一部展示替えをします)

1、黒田家(か)譜(ふ)(蔚山城攻防戦) 1冊
2、黒田家譜(関ヶ原合戦) 1冊
3、菅和泉画像 1幅
4、黒田二十四騎図 1幅
5、黒田家譜(大坂出陣) 1冊
6、黒田長政軍令(菅家文書) 1通
7、黒田長政代々書出令条 1冊
8、桃形兜 2頭
9、古代福岡分限帳 1冊
10、黒田長政御鉄砲之書 1冊
11、黒田家御重宝故実 1冊
12、四宮惣右衛門預り御道具改帳1冊
13、黒田長政像 1幅
14、黒田一成像 1幅
15、火縄銃(太郎坊) 1挺
16、火縄銃(次郎坊) 1挺
17、秋月藩有馬陣出兵図 1枚
18、黒田続家譜(黒田忠之陣立) 1冊
19、黒田忠之像 1幅
20、有馬一揆之時働書出 1通
21、大音重成像 1幅
22、江戸幕府老中連署奉書 1通
23、正保四年ポルトガル船来航図 1幅
24、ポルトガル船来航時覚 1通
25、慶安元年定書写 1通
26、慶安元年指物之書付 1通
27、明暦度福岡藩備覚 1枚
28、福岡藩陣立図 1冊
29、唐船図 1幅
30、黒田新続家譜(唐船打潰) 1冊
31、大鉄砲 1挺
32、火縄銃(堺型銃) 1挺
33、火縄銃(薩摩型銃) 1挺
34、火薬入・弾丸作り用具 1式
35、足軽用陣笠・銃入袋 1式
36、陣笠・火事装束 1式
37、鉄砲事理 1冊
38、砲術秘書 1冊
39、鳥居流砲術免状 1式
40、福岡藩職禄一覧 1巻
41、杉山文左衛門日記 1冊
42、烽山日記 1冊
43、兵法奥義書 1冊
44、唐館騒動図 1幅
45、集要砲薬新書 1冊
46、置筒・抱筒打方図 1枚
47、蛮舶図絵 1冊
48、黒田長溥公伝(洋式兵学導入) 1冊
49、西洋兵棋 1式
50、銃陣将校符牒(ふちょう)表 1枚
51、軍中必携(ひっけい) 2冊
52、調(ちょう)教練(きょうれん)図 2枚
53、行軍之次第 1冊
54、韮(にら)山(やま)笠 1頭
55、弾薬箱 1箱
56、後装式騎銃 1挺
57、黒田長溥公伝(軍制改革) 1冊
58、銃士・銃手頭任命書 3通
59、製銃所取締役任命書 1通
60、周防日記 1冊

(出品協力者、出品順、敬称略)
黒田長高、菅亨、黒田一敬、宮崎安尚、大音繁太、原勉、白水光利、高木完、隈本浩司、安川玲子、周防憲男、龍照子、手島ルイ子、清水駿一、大多和歌子。

(参考文献)
安川巌『物語福岡藩政史』(文献出版 198五年)、柳猛直『悲劇の藩主黒田長溥』(海鳥社 1989年)、鈴木眞哉『鉄砲と日本人』(筑摩書房 2000年)、藤本正行『信長の戦国軍事学』(JICC出版局 1993年)、柴多一雄「福岡藩の家臣団」(『福岡藩分限帳集成』(海鳥社 1999年)、宇田川武久『鉄砲と戦国合戦』(吉川弘文館 2002年)、福岡市博物館特別展示図録『黒田二十四騎と長政』(2008年)、福岡市美術館特別展図録『黒田家の美術』(2014年)ほか。

展示資料の内15,16は福岡市美術館所蔵、他は福岡市博物館収蔵品です。