企画展示

企画展示室3
ふくおかの塩

平成30年4月3日(火)~平成30年6月3日(日)

はじめに

志賀(しか)の海人(あま)の
   一日も落ちず焼く塩の
      辛(から)き恋をも我(あれ)はするかも
(万葉集巻15 3652)

焼塩壺(福岡城下町遺跡出土)
焼塩壺(福岡城下町遺跡出土)

 遣新羅使(けんしらぎし)が詠んだこの歌のように、万葉集の中には志賀島に関する歌がいくつか残されています。海藻を刈り取り焼いて塩を作る、いわゆる「藻塩焼(もしおや)き」という方法が行われていたことが、これらの歌から推測できます。遣新羅使の人々は、古代の迎賓館(げいひんかん)・鴻臚館(こうろかん)から見える志賀島でたなびく塩焼きの煙に寄せて、さまざまな想いにふけったのかもしれません。
 私たちが生きていく上で欠かせない塩。自然からの恵みである塩を、人々はどのように受け取り、活用してきたのか。今回の展示では、ふくおかの人々と塩の関わりについて、さまざまな資料からご紹介します。

玄界灘から鴻臚館跡方面を望む(提供:福岡市)撮影者:Fumio Hashimoto
玄界灘から鴻臚館跡方面を望む(提供:福岡市)
撮影者:Fumio Hashimoto
つくる

 岩塩や塩湖などの塩資源に恵まれていない日本では、海水から塩を取り出す工夫を行ってきました。海水中に含まれる塩分は約3%。残り97%もの水分を取り除くためには多大な労力と時間、膨大な燃料が必要となります。そこで、あらかじめ濃い塩水を作り、それを煮詰めることで塩の結晶を作り出します。
 現在、ふくおかで本格的に塩づくりが行われたことが遺跡から確認できるのは、弥生時代の終わり頃から古墳時代のはじめ頃です。西区の今津湾に面する今山遺跡では、大量の製塩土器(せいえんどき)とともに製塩の際に出た灰をまとめて捨てた場所も確認されました。

製塩土器(今山遺跡出土)
製塩土器(今山遺跡出土)

 出土した土器は、大半がバラバラの破片です。胴部は非常に薄く、もとの形に復元できるものはほとんどありません。土器を割って出来上がった塩を取り出したことも想定されますが、熱が伝わりやすいように薄く作られ、高温で長時間熱し続けられたために割れてしまったとも考えられます。
 東区の海の中道遺跡で行われた発掘調査では、焼けた土や炭、灰とともに製塩土器が多数出土し、8世紀頃に志賀島周辺で製塩が行われていたことが実際に証明されました。 ちょうど遣新羅使が派遣されていた時期と同時期にあたります。出土した他の遺物の量から考えて、漁業を中心とした生業の傍らで製塩を行っていたようです。その後の時代になると、塩を作る容器は土器から滑石や鉄の鍋、石釜から鉄釜に変わっていったと推測されています。
 江戸時代に開発された日本独特の製塩方法・入浜式塩田(いりはましきえんでん)は、潮の干満を利用して塩田内に海水を取り込む方法です。江戸時代の終わり頃には、奈多で博多商人と藩による大規模な製塩が行われていました。『筑前國続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』や『筑前國続風土記附録』には、筑前国8ヶ所で塩を作っていたという記述があります。特に姪浜の塩は美味しく、黒田長政が江戸にいる時には、わざわざ国元から取り寄せたということです.

焼塩土器(金武青木遺跡出土)
焼塩土器(金武青木遺跡出土)
はこぶ

 『延喜式(えんぎしき)』では、筑前国の庸(よう)(成人以上の男性に課せられる税のひとつ)として、塩三石九斗七升五合(約600㎏)を定めています。前述したように、製塩土器は割れた状態で見つかることがほとんどです。出来上がった塩はどのようにして運ばれたのでしょうか。その候補として考えられる容器のひとつに焼塩土器があります。
 海の中道遺跡や、西区金武青木(かなたけあおき)遺跡、博多区雑餉隈(ざっしょのくま)遺跡で見つかった焼塩土器は、一風変わった三角錐(さんかくすい)のような形や細長い形で、この中に出来上がった塩を詰めて焼いたと考えられています。焼塩土器の製作方法には大きくわけて2通りの作り方が見られます。ひとつは輪積みによる成形方法。もうひとつは、型作りによる成形方法で、内面には布目が残っているものがあります。型作りは同一規格の土器を大量に生産することができ、税として納めるために塩の量を計測する上では利便性があります。しかし、運搬の面ではどうでしょう。この不安定な形では運搬に難があるように思われますが、何か特別な工夫や理由があったのでしょうか。中身だけ取り出して運んだ可能性や消費地で焼塩をつくった可能性もあるでしょう。焼塩土器は官衙(かんが)や役所に関連する遺跡から出土することが多く、焼塩の用途は限られたものだったのかもしれません。そのほかに一般的に使用する塩は、壺などの容器に入れられ運ばれたのでしょう。


焼塩壺蓋(福岡城下町遺跡出土
焼塩壺蓋(福岡城下町遺跡出土
あじわう

 塩は、食べ物を美味しくしてくれるだけでなく、生の肉や魚の長期保存を可能にするため私たちの食生活には欠かせないものです。現代では塩分の過剰摂取が問題になっていますが、不足していても体に不調をきたします。茨城県霞ヶ浦周辺では縄文時代から製塩が行われていたことを示す土器が見つかっていますが、狩猟・採集を主な生業とする時代においては、動物の肉や海産物からの塩分でまかなえていたと考えられます。
 『延喜式』には、塩漬けの魚や醤(ひしお)といった言葉が出てくることから、平安時代には様々な料理や調味料に塩を使用していたことが読み取れます。食事で塩を使っていた証拠として遺跡から見つかるものとしては、江戸時代に流通する焼塩壺があります。焼塩壺(やきしおつぼ)とは、粗塩(あらじお)を専用の容器に詰めて蓋をして焼いて精製したもののことです。粗塩にはにがりが残っているため、加熱することでにがりが飛んだ塩になり、旨味も増すと言われています。焼塩壺は、福岡城跡や博多遺跡群から多く見つかっており、武家や裕福な商人たちによって消費されていたと推測されます。焼塩壺には、「御壺塩師/堺湊伊織」などの刻印が付けられているものがあり、関西地方で生産されて全国に流通していたことを物語っています。福岡藩でも江戸時代に製塩が行われていますが、現在のところ福岡の地名の入った焼塩壺は見つかっていません。


引札「官塩元売捌所」
引札「官塩元売捌所」
うる・かう

 中世には各地の塩座によって、江戸時代には塩問屋(一部は藩による専売)によって取り扱われていた塩ですが、明治38(1905)年、日露戦争の最中に日本政府は塩を専売制とする決定を下しました。日露戦争の財政収入が主な目的でしたが、安い外国産の塩に対抗して国内の塩産業の保護・育成と価格・生産の安定にもつながるものでした。専売制では、官費による塩の輸送を実施し、政府が指定した塩売捌人が政府から塩を買い付け、政府指定の小売人に売り渡し、さらに小売人から消費者へ売り渡される仕組みになっていました。塩の販売許可を得た販売者は、「塩元売搬所」の看板や「塩販売鑑札」を掲げて商売を行いました。
 技術の進歩により、現代の私たちは塩に困るということはありませんが、普段何気なく食べている塩の裏側には長い歴史と人々の様々な工夫がありました。 (福薗美由紀)

○主な展示資料
※は福岡市埋蔵文化財センター所蔵

※製塩土器(今宿遺跡・今山遺跡ほか)
※焼塩土器(金武青木遺跡ほか)
※焼塩壺(福岡城下町遺跡ほか)
引札「官塩元販売捌所」(館蔵)
上和白村塩運上銀請取申事(小金丸種尚資料/館蔵)
看板「日本専売公社指定 塩小賣所 小賣人」(岡田一資料/館蔵)

○主な参考文献

貝原益軒『筑前國続風土記』巻二十九土産考上
佐竹昭広ほか『萬葉集 二』新日本古典文学大系2 2000
たばこと塩の博物館『たばこと塩の博物館 常設展ガイドブック』 2007
虎尾俊哉『延喜式 中』 2007

福岡市博物館
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