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  • No.512 島とくらし―玄界島―-1

企画展示

企画展示室4
島とくらし―玄界島―

平成30年4月10日(火)~6月10日(日)

はじめに
写真1 玄界島(提供:福岡市)
写真1 玄界島(提供:福岡市)

 「島とくらし」は、福岡市にある志賀島(しかのしま)(東区)、能古島(のこのしま)、玄界島(げんかいじま)、小呂島(おろのしま)(いずれも西区)の四島に焦点をあて、島の歴史や文化、くらしの諸相を紹介するものです。

 今回は、平成十七年三月二十日に発生した福岡県西方沖地震で大きな被害を受けるも、約三年で復興を果たした玄界島に焦点をあてます。時代とともにゆるやかに変化していた島の生活は、震災によって急速にかわっていきました。その過程で島の文化を伝えるさまざまな生活道具や写真アルバムなども失われました。

 福岡市博物館には、玄界島から寄贈された昭和時代から震災までの姿を知ることのできる資料が展示・保存されています。本展は、当館が所蔵する玄界島関連の資料を通して、島の文化やくらしについて紹介します。

玄界島
図1 福岡市域図
図1 福岡市域図

 玄界島は、本市の中心部から約二〇キロ、博多ふ頭より福岡市営渡船で約三十五分のところにあります。花崗岩と玄武岩で形成された島に平地はほとんどなく、標高二一七・九メートルの遠見山(とおみやま)を頂とする傾斜地に集落が形成されています。昭和三十六(一九六一)年に糸島郡北崎村(きたざきむら)が本市に編入されたことにともない、福岡市西区になりました。平成二十九年十二月現在、二一八世帯、四六二人(住民基本台帳)がくらしています。






歴史にみる玄界島
写真2 玄界島海底採集資料
写真2 玄界島海底採集資料

 古来より対外交流の窓口であった博多湾は、さまざまな人・物・文化が往来してきました。博多湾の海底からは、そうした歴史を物語る遺物が見つかっています。玄界島の周辺からも、十三世紀代の中国浙江省(せっこうしょう)の龍泉窯(りゅうせんよう)青磁碗や江戸時代初頭の廻船(かいせん)積載品であった唐津焼などが見つかっています。

 江戸時代の地誌『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』(貝原益軒(かいばらえきけん)著)によると、この島はかつて久島、月海島とよばれており、むかしは七十二軒の民家があったといいます。永禄(えいろく)年間のはじめに野島(山口県)より海賊が襲来した際には、竹を使って侵入を防ぎ、またあるときは島の長榎田平次郎が防戦し討死したことが記されています。その後、島民は四十年あまり対岸の宮浦(みやのうら)に逃れてくらしていましたが、源三郎という者が孫を連れ、慶長(けいちょう)年間に帰島したことを機に、再び集落が形成されたようです。

 玄界島は、漁業や海運業など、海に生活の場の中心をおく福岡藩の「浦(うら)」のひとつです。島では漁業を中心としたくらしが営まれていましたが、正保(しょうほう)二(一六四五)年、外国船の取締強化を目的として遠見番所(とおみばんしょ)が置かれ、藩より定番と配下の足軽が在島して監視にあたるなど軍事的役割も果たしていました。

写真3 海士の道具
写真3 海士の道具
海にいきる人びと

 島の周辺は好漁場で、古くより沿岸型の網漁(あみりょう)、釣漁(つりりょう)、魚介や海藻の採捕などが営まれてきました。筑豊水産組合が編纂した『筑豊沿海志(ちくほうえんかいし)』(大正六・一九一七年)によると、元禄(げんろく)年間にはじまったタイやカナギ(イカナゴ)の網漁は、明治中期以降、ほかの浦の指導者に漁法を学んだり、改良漁具を導入したことによって、漁獲量が大幅に増加したと記されています。その様子は、「県下に於て模範漁村たるのみならず、全国優良漁村の内へ数へ」られたといいます。 大正時代は、イワシ揚繰網(あぐりあみ)、底刺網(そこさしあみ)、カナギ房丈網(ぼうじょうあみ)などが操業されていましたが、昭和に入ると次第に一本釣、延縄(はえなわ)へと主軸がうつっていきました。戦後は、一本釣が主要な漁業となり、従事者の増加とともに、漁場も沿岸から長崎県の五島地方あたりまで広がりました。同時に、エビ漕網(こぎあみ)やイワシ揚繰網、二双吾智網(にそうごちあみ)など沿岸型の漁も幅広く操業されました。そのいっぽうで、戦後の漁場開放によって大型漁船が近海を荒し魚が寄りつかなくなったことで危機に陥りますが、昭和六十年代の漁業技術の開発により、フグ延縄やイカの流し釣、採貝(さいかい)の水揚げが増加したことで再び伸びを示すようになっていきました。

 また、岩礁(がんしょう)が多く豊富な磯資源にめぐまれた島では、海士(あま)による潜水漁が営まれ、さまざまな漁具を用いてウニやサザエ、アワビなどがとられました。ワカメは、乾燥させて博多に卸していた時期もありましたが、現在では、塩蔵(えんぞう)ワカメが特産品として加工販売されています。

 自然の変化が生活に直結する環境にいきる人びとは、生命はもとよりくらしの安寧を神仏に願ってきました。正月二日の「乗(の)り初(ぞ)め」をはじめ、十月の若宮様グンチなど島内の神々に大漁祈願や航海安全を祈ります。

 島外で行う大きな祈願のひとつに八月六、七日に行われる志賀島の志賀海(しかうみ)神社の七夕祭があります。玄界灘一帯の漁師たちが参拝するもので、玄界島からも多くの島民が家族総出で訪れます。とくに一年のうちに新造した船は大漁旗などを飾り付け、この先の航海安全を祈願してお祓いを受けます。このとき、海上安全の木札に加え、「志賀茶(しかちゃ)」と「事無柴(ことなきしば)」(玄界島では「ことなししば」と読む)を求めます。神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓から帰還した際に船の舵の柄を植えたところ芽吹いて茂ったと伝承される事無柴は、枯れても葉が落ちないため、身につけると災難から逃れ無事に家に戻れると信じられており、島外へ出る際に葉をお守りとして持参したり、船に常備する風習があります。

写真4 フゴ(野間吉夫撮影)
写真4 フゴ(野間吉夫撮影)
雁木段(がんぎだん)と島のくらし

 かつての集落は島の南麓に広がっており、家と家の間は狭く、細い道と「雁木段」とよばれる石段でつながっていました。密度の高い集落構造は、気軽に隣家の洗濯物を取り込んだり、家の普請や解体時には島民総出で協力するなど濃密な近所付き合いをうみだします。こうした雁木段を中心としたくらしの諸相は、島の古老や昭和三十年代に島を訪れた野間吉夫(のまよしお)が著した『玄海の島々』を通してうかがい知ることができます。雁木段を上ると山腹から山頂付近には畑が広がっており、麦や芋、野菜などがつくられていました。こうした物の運搬には背負梯子(せおいばしご)「オイ」や藁籠(わらかご)「フゴ」が使われていました。また、家屋が密集していることから、火事の際にひどくならないよう瓦葺き屋根にしたり、夜回りが行われるなど、日常から防火に努めていたようです。

写真5 共同井戸(野間吉夫撮影)
写真5 共同井戸(野間吉夫撮影)

 島のくらしに欠かせない水の確保は、昭和二十九(一九五四)年に簡易水道が整備されるまで、天水や井戸に頼っていました。島には五ヵ所の共同井戸が掘られ、そこは水を汲むだけでなく、洗濯が行われる場であり、女性たちの情報収集の場でもありました。

 長い歴史のなかで、培われてきた強固な人間関係は、福岡県西方沖地震の際に復興事業にかかる意思決定の場で大きく作用し、震災からわずか三年での帰島につながったといわれています。いっぽう、車道が整備され、宅地構造が刷新されたことで、人びとは、従来の基盤をいかしながら、あらたな家や隣人との結びつきを再構築しつつあります。
(河口綾香)

本展は、平成二十八年度博多湾岸《金印ロード》資源活用プロジェクトおよび平成二十九年度博多湾岸《金印ロード》ツーリズム・プロジェクトの成果を活用したものです。

おもな展示資料

・龍泉窯青磁碗 十三世紀 市歴資料
・筑前国続風土記 江戸時代 
・サレ 昭和時代 市歴資料(玉川桂資料)
・網 明治時代 市歴資料(玉川桂資料)
・オニカギ 昭和時代 市歴資料(玉川桂資料)
・コトボシ 明治~大正時代 玉川桂資料(追加分)
・オイ 昭和時代 市歴資料(玉川桂資料)
・フゴ 昭和時代 市歴資料(玉川桂資料)
・バケツ 昭和時代 市歴資料(玉川桂資料)
・長着 昭和時代 市歴資料(寺田次男資料)

参考文献

・野間吉夫『玄海の島々』1973年 慶友社
・福岡市史編集委員会『新修 福岡市史 民俗編一春夏秋冬・起居往来』2012年 福岡市
・中野紀和「危機を乗り越える智恵―福岡西方沖地震の被災地・玄界島の復興過程―」
『経営論集』(第二十七号)2014年 大東文化大学経営学会

福岡市博物館
〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
TEL:092-845-5011 FAX:092-845-5019

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