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  • No.514 市美×市博 黒田資料名品展Ⅷ 宇多源氏アイデンティティ

企画展示

企画展示室2
市美×市博 黒田資料名品展Ⅷ 宇多源氏アイデンティティ

平成30年5月2日(水)~7月1日(日)

はじめに
18、波文螺鈿鞍(重要文化財)
18、波文螺鈿鞍(重要文化財)

 福岡市美術館と当館がそれぞれ所蔵する、福岡藩主ゆかりの「黒田資料」を併せて活用するシリーズ展示の八回目は、黒田家の先祖とされる「宇多源氏(うだげんじ)」がテーマです。黒田家が先祖に対してどのような考え方を持っていたのか、そして、それは時代によって変化するのかを、各時代の資料を通して読み取っていきたいと思います。

先祖を意識し始めたのはいつから?

 黒田家が先祖のことを意識し始めたのは系図作成がきっかけでした。寛永(かんえい)一八(一六四一)年に江戸幕府から系図を提出するように指示があり、黒田家は尾張藩(おわりはん)の儒学者(じゅがくしゃ)・堀正意(ほりまさおき)(杏庵<きょうあん>、一五八五~一六四二)を担当として調査を開始します。当時の福岡藩主は二代忠之(ただゆき)(一六〇二~五四)でしたが、自分だけでは分からないこともあったようで、弟の秋月(あきづき)藩初代藩主・長興(ながおき)(一六一〇~六五)と情報交換をしています。そのやりとりの中で、長興が「黒田氏は近江(おうみ)佐々木氏の流れとのことだが、その中でも京極(きょうごく)氏の流れという話もある」と兄に伝えています【資料2】。

 そうしたやり取りを経て提出した黒田家の系図は、宇多(うだ)天皇(八六七~九三一)から八代目の佐々木秀義(ひでよし)に始まり、定綱(さだつな)―信綱(のぶつな)―高信(たかのぶ)―氏信(うじのぶ)―満信(みつのぶ)―宗満(むねみつ)―高満(たかみつ)―宗信(むねのぶ)―高教(たかのり)―高宗(たかむね)―(中絶)―重隆(しげたか)―識隆(のりたか)―孝高(よしたか)―長政(ながまさ)―忠之(ただゆき)と連なるものになっていました。ちなみに、途中の高宗から重隆へといたる間に「中絶」とあるのは、同じ宇多源氏の流れである京極家が提出した系図と年代的なズレが見つかって、黒田家の方に修正が入ったからというのが理由です。

 こうして、江戸時代になった段階で、完全ではないものの、黒田家は宇多源氏をルーツとする佐々木氏に連なる家であると、公式に知られることになりました。

調査は続くよどこまでも
17、源雅信像
17、源雅信像

 その後、黒田家では「黒田家譜(くろだかふ)」という歴史書が作成されます。編さんを担当したのは儒学者・貝原篤信(かいばらあつのぶ)(益軒<えきけん>、一六三〇~一七一四)です。篤信は江戸時代始めに幕府によって否定された「中絶」を繋げる努力を重ねます。たとえば、篤信が集めた系図の中の一つ「黒田系図」【資料3】では、高満から重隆の間が、高満―満秀(みつひで)―高秀(たかひで)―高清(たかきよ)―重隆となっていて断絶なく繋がっています。

 また、自身が作成に関わった「黒田世譜(くろだせいふ)」【資料4】では、信綱の曾孫の宗清(むねきよ)という人物の存在を明らかにし、この人物が近江国黒田村に住んで、黒田氏を名乗るようになり、その後、高政(たかまさ)という人物の代に近江を去って備前国福岡(びぜんのくにふくおか)へ移り住んだと記しています。系図にすると、秀義―定綱―信綱―・・・―宗清―高政―重隆―識隆―孝高となります。

 そして、こうした調査の結果完成した「黒田家譜」【資料7】では、秀義以降は 定綱―信綱―氏信―満信―宗清―高満― 宗信―高教―高宗―高政―重隆―職隆(もとたか)―孝高―長政―忠之―光之となり、断絶なく繋がる系図が出来上がりました。

 江戸時代後期に再び幕府は大名家の系譜の編さんを行い、その成果は「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかぶ)」としてまとめられます。しかし、黒田家の場合は、同族とされる京極家との比較によって系図に矛盾(むじゅん)が生まれるため、今回も「断絶」のままとされました。江戸時代の黒田家の系図は幕府に提出した公式の系図とそれ以外では記載が異なるものになっていたのです。

宇多源氏の中心メンバーに?

 明治時代になると、これまで公家(くげ)や大名(だいみょう)であった人々は「華族(かぞく)」として再編成されることになりました。その後、宮内省(くないしょう)によって華族の系譜調査が行われ、明治九(一八七六)年にその成果が『華族類別録(かぞくるいべつろく)』としてまとめられました。これにより、公家も大名も先祖という共通項によって新しいグループが作られるよう になり、同じ先祖を持つグループ同士が、 お互いに助け合って家を存続させていく ことが求められるようになりました。

 黒田家が分類されたのは、宇多天皇の孫・源雅信(みなもとのまさのぶ)(九二〇~九九三)を祖とする宇多源氏のグループです。二一家が所属し、讃岐国丸亀(さぬきのくにまるがめ)藩主であった京極家や、石見国津和野(いわみのくにつわの)藩主の亀井(かめい)家が名を連ねていましたが、その中でも黒田家は領知高(りょうちだか)五一万石余りで最大の家でした。実際、明治一〇年に建立された「宇多源氏始祖追遠之碑(うだげんじしそついえんのひ)」(京都市右京区)では、題額の字を黒田長知(ながとも)(一八三九~一九〇二)が書いており、同族の中での存在の大きさを窺わせます。

 その後、この分類をもとにした華族同士の相互扶助制度は明治一七年に廃止され、以降は公侯伯子男(こうこうはくしだん)の五爵(ごしゃく)制度によって華族が統制されることになります。

 しかし、宇多源氏の同族の結びつきはなくなったわけではなく、その後も度々記録の中で「源氏会」という言葉が登場したり【資料23】、佐々木氏を祀(まつ)る沙沙貴(ささき)神社(滋賀県近江八幡市)とのつながりを示す品々【資料20、21、22】が残っていたり、昭和のはじめまで、実態としては様々な活動をしていたようです。

 ちなみに、冒頭の口絵で紹介している、市美術館所蔵の波文螺鈿鞍(なみもんらでんぐら)(黒田家伝来、重要文化財)は、佐々木信綱(一一八一~一二四二)が宇治川(うじがわ)の先陣争いで使ったという伝承がある他は、その由緒はよく分かっていません。道具帳に登場するのも明治以降なので、もしかすると、こうした宇多源氏に対する意識が高まった明治以降に入手したものなのかも知れません。同じく市美術館所蔵の源雅信像【資料17】も明治二五年の作であり、入手の動機としては、同様の文脈で捉えることが出来るのではないでしょうか。

おわりに

 黒田家は、江戸時代初めの段階では先祖に対する認識が明確ではありませんでしたが、貝原篤信らの努力により徐々にその系譜を確定させていき、明治時代になると、ついに宇多源氏を背負って立つ存在にまでなりました。

 人々の心のよりどころ(アイデンティティ)の一つである先祖の問題について、今回の展示では、時代によってその捉え方は変わっていくもの、という事例を紹介しました。ルーツなどを考える際の参考になれば幸いです。
(宮野弘樹)

展示資料一覧(資料名/時代/作者等/員数/所蔵・資料群名)

1、黒田氏系図/明治時代(19世紀)/一幅/館蔵・黒田資料
2、黒田家家系申立書/(寛永期・17世紀)4月12日/黒田長興より黒田忠之宛/一巻/館蔵・旧福岡市立歴史資料館収集資料
3、黒田系図(「益軒先生家蔵雑集四十四」)/江戸時代中期(18世紀)/貝原篤信写/一冊/館蔵・旧福岡市立歴史資料館収集資料
4、黒田世譜/貞享二(1685)年/貝原篤信/一巻/館蔵・黒田資料
5、黒田長政覚書/(元和九・1623年)7月21日/黒田長政/一通/館蔵・黒田資料
6、黒田宣政像/延享二(1745)年正月10日/大嶺宗観賛/一幅/館蔵・黒田資料
7、黒田家譜/宝永元(1704)年成立/貝原篤信他編/一冊/館蔵・黒田資料
8、黒漆塗桃形大水牛脇立兜(重文)/桃山時代(16世紀)/一頭/館蔵・黒田資料
9、黒田家重宝故実/享保元(1716)年写/一冊/館蔵・黒田資料
10、黒田家御系図写/江戸時代中期(18世紀)/明石景恕/一冊/個人蔵
11、黒田家旗幟図/江戸時代後期(19世紀)/一幅/館蔵・大多和喜八郎資料
12、宇多源氏佐々木黒田氏系図/享保三(1718)年/黒田正庵/一通/館蔵・黒田資料
13、黒田治高像/天明三(1783)年10月/鳳岸賛/一幅/館蔵・黒田資料
14、黒田長知写真/明治時代中期(19世紀)年/増原写真館/一面/館蔵・黒田資料
15、黒田長成肖像画/昭和一三(1938)年/梶原貫五/一面/館蔵・黒田資料
16、佐々木氏献納品/明治一四(1881)年/佐々木正安・正綱/一括/館蔵・黒田資料
17、源雅信像/明治二五(1892)年/松本楓湖/一幅/福岡市美術館蔵・黒田資料
18、波文螺鈿鞍・鐙(重文)/鞍は鎌倉時代(13世紀)/一組/福岡市美術館蔵・黒田資料
19、合渡川合戦之図/江戸後期(19世紀)/霄竜徳晋/一幅/館蔵・平成八年度購入資料
20、沙沙貴神社記念扇子/大正一三(1924)年6月27日/一面/館蔵・黒田資料
21、褒状(沙沙貴神社修理費寄付に付)/昭和八(漢)(1933)年11月10日/滋賀県知事・伊藤武彦より黒田長成宛/一通/館蔵・黒田資料
22、沙沙貴神社社務所手拭/昭和時代(20世紀)/一枚/館蔵・黒田資料
23、重要日誌/明治三十(漢)(1897)年~昭和十四(1939)年/一冊/館蔵・黒田資料

【主要参考文献】

酒井信彦「『華族類別録』について」(『東京大学史料編纂所報』第一五号、 1980)
宮野弘樹「福岡藩主黒田家の系譜の変遷について」(『市史研究ふくおか』第六号、 2011)
野島義敬「黒田資料『重要日誌』について」(『福岡市博物館研究紀要』第二七号、 2018)

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