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  • No.527 ふくおか発掘図鑑9

企画展示

企画展示室4
ふくおか発掘図鑑9

平成30年12月18日(火)~平成31年4月7日(日)

はじめに
空吹窯を掘る(博多遺跡群213次)
空吹窯を掘る(博多遺跡群213次)

 遺跡の発掘調査からは、過去に生きた人々の生活の様子や当時の社会情勢などの様々な情報を得ることができます。今回で9回目を迎える「ふくおか発掘図鑑」では、発掘調査が終了したばかりの資料や、近年刊行された発掘調査報告書に掲載されている資料を中心に紹介します。

 ふくおかでの遺跡や遺物の発見に関する記録は江戸時代までさかのぼります。その後、研究者による発掘調査や論文発表が行われた明治・大正時代から昭和のはじめを経て、高度経済成長期には盛んな開発に伴い、遺跡の保存や調査が急務となりました。1967年の有田(ありた)遺跡群の調査は、福岡市が九州大学へ調査を依頼する形でしたが、福岡市の埋蔵文化財への取組みの第一歩となりました。

 

 それから約50年。これまでに2500件を超える発掘調査が行われ、1357冊の発掘調査報告書が刊行されています。ほとんどの遺跡は発掘調査後に失われてしまいますが、その代わりに発掘調査報告書という形で記録保存が図られています。

縄文時代の調査(元岡・桑原遺跡群52次)
縄文時代の調査
(元岡・桑原遺跡群52次)
ふくおかのJOMON

 福岡市西区にある元岡(もとおか)・桑原(くわばら)遺跡群では、九州大学伊都キャンパス移転事業に伴いこれまでに66次にわたる発掘調査が実施されてきました。今回紹介する52次調査では、ふくおかの縄文時代の中でも最も古い遺物が出土しました。縄文時代のはじめのころ、草創期(そうそうき)と呼ばれる時期に作られた土器は長い間土の中に埋まっていたため、大変もろくなっています。見つかるほとんどが小さな破片ですが、ひとつひとつの破片をじっくり見てみると、文様を作り出した形跡や、製作時に付いたと考えられるかすかな工具痕が残っていることが確認できます。
 土器の形や文様は、同じ縄文時代のなかでも時期によって少しずつ変化していきます。縄文土器といってみなさんが想像する、多様な装飾を持つ土器はもう少し後の時期になって出現します。はじめのころは、無文(むもん)のものや、かすかな隆起線文(りゅうきせんもん)をもつ土器が作られていました。

弥生時代のSAKE?

 土器の表面をよく見るとうっすらと残る褐色の網目模様。土の中に長い時間埋もれている間に網は無くなってしまいましたが、表面にその痕跡だけが残ったものです。博多区比恵(ひえ)遺跡群の弥生時代の井戸から見つかったこの土器、アルコールの容れ物として使われたのではないか、という説もあるようです(注1)。容器を割れにくくしたり、運搬しやすくするために網をかけていたのかもしれません。

 発掘調査で見つかる井戸には土器が埋められていることがあります。現在でも使わなくなった井戸を埋める時には、御神酒(おみき)や塩などを使ってお祓(はら)い・清めを行いますが、弥生時代の人々も同じようなことをしていたのでしょうか。また、博多区那珂(なか)遺跡群や雀居(ささい)遺跡では、土器製作時に網目を押し当てた痕や、粘土紐と赤色顔料で網目のような表現をしている壺が発掘されています。こういった土器も酒の容れ物として作られたものなのかもしれません。

1号墳の埋葬施設(千里大久保遺跡1次)
1号墳の埋葬施設(千里大久保遺跡1次)
赤に護られた人々

 西区にある千里大久保(せんりおおくぼ)遺跡1次調査で見つかった3基の古墳は、5世紀に造られた円墳です。見つかった埋葬施設にはいずれも赤色顔料が塗られていました。特に1号墳の第2主体部(埋葬施設)は、使用されていた石材の内側、頭蓋骨ともに真っ赤に染まっていました。周辺からは赤色顔料がぎっしりとつまった小壺も見つかっています。この顔料は分析の結果、ベンガラと判明しました。赤色顔料は旧石器時代から使用されていたものですが、古墳時代の人々も赤い色が持つ魔除(まよ)けなどの意味や、顔料の防腐(ぼうふ)効果を期待して墓に使用していたのでしょう。

 千里大久保遺跡が位置する今宿平野周辺には、国指定史跡の7基を含む12基の前方後円墳と350基以上の群集墳(ぐんしゅうふん)が存在しています。今回発掘調査が行われた古墳は、前方後円墳を造営するちからを持つ首長層に連なる人々を埋葬したものではないかと想定されています。

遺構の記録の様子(博多遺跡群205次)
遺構の記録の様子
(博多遺跡群205次)
中世都市博多と周辺遺跡

 東区箱崎(はこざき)遺跡は、中世都市・博多に隣接する遺跡で、輸入陶磁器などの出土が多く見られます。77次調査で出土した火打金(ひうちがね)は「蕨手形(わらびてがた)」と呼ばれるタイプのものです。火打金とは、火打石とぶつけ合うことで火花をちらし、発火させるための道具です。蕨手形の火打金の出土はあまり多くありません。箱崎遺跡の他には、大島(おおしま)遺跡(鹿児島県薩摩川内(さつませんだい)市)(注2)、鷹島神崎(たかしまこうざき)遺跡(長崎県松浦(まつうら)市)(注3)といった、公的機関とかかわりのある遺跡や対外との関係があった遺跡から出土しています。

 博多遺跡群の出土遺物2318点が平成29年度、国の重要文化財に指定されました。その後続いている発掘調査でも、さまざまな貴重な遺物が出土しています。その中から、今回は205次調査で出土した華南三彩(かなんさんさい)と呼ばれる遺物を紹介します。華南三彩とは、中国の明(みん)時代に華南地域(中国南部)でつくられたと見られる鉛釉陶器(注4)で、日本では限られた場所でしか出土しません。今回の発掘調査地点の周辺は、嶋井宗室(しまいそうしつ)や神屋宗湛(かみやそうたん)といった豪商(ごうしょう)が住んでいたと言われる伝承地でもあり、華南三彩以外の出土遺物からも、この調査地にはかなり裕福な商人が住んでいたことが推測されます。

博多人形のはじまり

 博多遺跡213次調査では、博多人形師である中ノ子(なかのこ)家の敷地の一部であった場所が発掘されました。遺跡の上層からは窯跡や、割れて廃棄された人形の破片、七輪や素焼きの背品、窯道具などの博多人形関連資料が多数出土し、博多人形の歴史がさらに詳細に解明されることが期待されています。今回見つかった窯跡は、残存していた窯跡の一部から、「空吹窯(そらふきがま)」という円筒形の薪(まき)窯であったことがわかりました。出土遺物から、この窯は江戸時代の後期から明治時代の初期にかけて操業されていたと考えられます。空吹窯は昭和40年代まで博多人形師の工房で使用されていました(注5)。博多の窯業生産についても今後、研究が進められていくことでしょう。

福岡城下の移り変わり
発掘調査区の様子(福岡城下町遺跡1次)
発掘調査区の様子
(福岡城下町遺跡1次)

 福岡城下町遺跡1次調査では、中世から近代にかけての遺構や遺物が確認されました。この発掘調査地点は、江戸時代は上級家臣の屋敷や郡役所、近代は福岡電信局や大名小学校などで使用されたことが残された絵図などから分かっており、その内容と発掘調査の成果が一致したことも注目されます。
 たとえば、志野(しの)・織部(おりべ)焼の茶陶器からは、茶の湯を嗜(たしな)んでいた上級家臣の存在をうかがうことができます。また、1869年のイギリス製の碍子(がいし)(電力供給に使用するための部品)は、1873年に開設された福岡電信局で使用されていたものだと考えられます。これまで絵図や歴史史料でのみ伝わっていた福岡城下のくらしも、今後、更なる発掘調査資料の増加とともに明らかになることが増えてくるでしょう。 (福薗美由紀)

注1:이창희ㆍ구숙현2016「網痕土器의 機能論的 연구」『崇實史學』第37輯/注2:鹿児島県立埋蔵文化財センター2005『大島遺跡』/注3:松浦市教育委員会2015『松浦市内遺跡確認調査(4)』/注4:矢部良明ほか
2011『角川日本陶磁大辞典』/注5:博多人形商工業協同組合2001『博多人形沿革史』

主な展示資料 (時代/出土遺跡)

●深鉢、石鏃ほか(縄文時代/元岡・桑原遺跡群)
●複合口縁壺(弥生時代/比恵遺跡群)
○人骨、土師器、直刀(古墳時代/千里大久保遺跡)
○火打金(中世/箱崎遺跡ほか)
●壺、鉢、水注、盤(中世/博多遺跡群)
○向付、皿ほか(近世/福岡城下町遺跡)
●素焼人形、窯道具ほか(近世~近代/博多遺跡群)
 ○は福岡市埋蔵文化財センター所蔵、●は福岡市
文化財活用部埋蔵文化財課所蔵です。会期中に展示
替えを行う場合があります。

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