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  • No.532 市制施行130周年記念 福岡市 これまでとこれから1

企画展示

企画展示室3
市制施行130周年記念 福岡市 これまでとこれから1

平成31年4月2日(火)~7月15日(月・祝)

はじめに
福岡市誕生前夜の街の様子 「福岡博多鳥瞰図」(明治20・1887年)
福岡市誕生前夜の街の様子
「福岡博多鳥瞰図」
(明治20・1887年)

 今からちょうど130年前の明治22(1889)年4月1日、福岡市が誕生しました。この日、福岡を含む全国の31の都市(九州では長崎、久留米、熊本、鹿児島、佐賀)が市制を施行しました。

 ただ、この時の福岡市の面積は5.09平方キロメートルで、江戸時代の福岡城下の範囲と同程度、現在の市域の67分の1に過ぎませんでした。また、人口も50,847人で、現在の30分の1の規模でした。現在では158万人を超え、東京23区、横浜市、大阪市、名古屋市、札幌市に次ぐ全国で6番目の人口となっていますが、市制施行直後は、全国で15番目、九州では鹿児島市、長崎市に次いで3番目の規模でした。

 

 福岡市はここからどのように発展していったのでしょうか。本解説では福岡市が自分たちの姿をどのような言葉で表現し、また、各時代でいかなる都市を目指していたのかを振り返り、その変遷から都市の変化を読み取ってみたいと思います。

共進会場が描かれた「福博案内図」(明治43・1910年)
共進会場が描かれた
「福博案内図」
(明治43・1910年)
福岡県の首都として

 明治29年に福岡日日新聞社の記者が著した『新編福博たより』によれば、明治維新の頃までは、福岡・博多を訪れる人は「唯ただ京坂地方に上る者か、中国路より九州に下る者か、或は商業上の取引の為(ため)のみにて、其の他は、お金と暇とに不足なき素封家(そほうか)か、但しは太宰府詣の人々が旅の序(ついで)に見物かたがた立寄る位」(同1頁)であったといいます。

 明治24年に福岡市役所が発行した『福岡市誌』でも、都市の特徴については「海陸運輸ノ便ヲ有シ福岡県治庁ノ下ニアリテ商工業殷賑(いんしん)ノ一市ナリ」(同12丁目)と紹介しているのみで、明治22年の博多・久留米間の鉄道開通をふまえた表現になってはいるものの、他都市と比較して取り立てて発展しているという書き方にはなっていません。 これが明治後期になってくると徐々に変化が出てきます。明治43年に九州商報社が発行した『福岡市案内記』では、以下のような表現が見られるようになります。「市は戸数1万2千、人口8万、福岡県庁あり、第35旅団司令部あり、其他各種の官衙(かんが)学校等大抵此地に集り、一県政治の中心地たる而已(のみ)ならず、其位置九州の中央にありて清韓(しんかん)両国と対峙し、陸に九州鉄道あり、海に博多港を控へ地形交通の利便は商工業の殷盛(いんせい)を促し、海陸の貨物常に輻輳(ふくそう)して地方経済上の中心地たる観あり。(中略)即ち本市は福岡県の首都、商工業の中心地たる外、亦た実に外客の遊覧地たるなり、之を以て貨客の出入常に頻繁にして、市況活気を呈し、市街年を逐(お)うて膨張発展しつつあるを見る。」(同1頁)

 この年は肥前堀を埋め立てた広大な敷地(現市役所周辺)を会場に第13回九州・沖縄8県聯合共進会が開催されると共に、路面電車も開通し、街の景観が大きく変化しました。また、翌年には隣の箱崎(はこざき)町に九州帝国大学が設置されます。「福岡県の首都」という意識が住人に芽生え始めたのもそうした変化をふまえたものと考えられます。

 ただ、同年に共進会の福岡県協賛会が発行した『福岡県案内』では、博多港について「古来博多は繁栄の地にして、殊に清韓と相対し、交通上利便の位地を占むるを以て、此港の外国貿易は、最も古き歴史を有せり、然(しか)れども港内の設備未(いま)だ成らず、従て同港の貿易額は一箇年輸出入僅(わずか)に66万2千円余に過ぎず。」(同14頁)とあり、福岡県内では門司(もじ)港(貿易額4,500万円)、若松(わかまつ)港(同500万円)に大きく水をあけられていました。博多港の施設整備は福岡市の大きな課題でありました。

九州の中心都市として
東亜博覧会場が書かれた「福岡市街及郊外地図」(昭和2・1927年)
東亜博覧会場が書かれた
「福岡市街及郊外地図」
(昭和2・1927年)

 大正時代に入ると、福岡市は徐々に周辺の町村を編入し始めます。大正元(1912)年の警固(けご)村を最初として、同4年に豊平(とよひら)村の一部、同8年に鳥飼(とりかい)村、同11年に西新(にしじん)町と住吉(すみよし)町と合併し、面積は20.68平方キロメートル、人口は14万6,005人(大正14年国勢調査)になりました。九州では鹿児島市を抜き長崎市に次ぐ2番目の人口規模となったのです。

 この間、県庁新庁舎(大正4年)と警察署新庁舎(同5年)の完成、上水道の給水開始と市役所新庁舎の完成(同12年)、福岡市初の都市公園・水上公園の開園と九州鉄道福岡・久留米間(現西鉄天神大牟田(おおむた)線)の開業(同13年)、市内初の本格的デパート・玉屋(たまや)の開店(同14年)等、近代的な都市景観が形成されていきます。 昭和2(1927)年に福岡市役所が発行した『福岡市案内』には合併による人口増や官庁、学校の多さ、交通の利便性、文化都市的施設の完備などの都市機能の充実に続けて、「今や本市は九州の中心都市として将又西日本の大都市として遠近に其の雄名を馳するに至つたのである。」(同2頁)と高らかに宣言しています。

 この年には福岡城西側の大堀の埋立地で東亜(とうあ)勧業博覧会が開催されます。会場までのアクセスのため路面電車の城南(じょうなん)線が開通し、160万人もの来場者が会場を訪れました。

 そして、昭和5年の国勢調査では人口が22万8,289人となり、ついに長崎市を抜き九州で最も人口が多い都市に躍り出ます。面積は66.75平方キロメートルで、5年間で3倍以上の市域に成長しました。

大東亜共栄圏確立の前進拠点として

 昭和11年、博多港修築計画の第1期工事がようやく完了し、博多築港記念大博覧会が盛大に開催されます。しかし、その翌年に日中戦争が、同16年に太平洋戦争が始まると、徐々に人々の生活にも戦争の影響が出始めてきます。福岡市を紹介する文章もそんな時代を色濃く反映したものになっていきます。

 昭和16年に福岡協和会が発行した『最新福岡市地図』の裏面には「大福岡市のしるべ」として博多と福岡の違いを紹介した後、「今や半島、満州(まんしゅう)、支那(しな)の要衝となり空路海路の設備は既に超国家的である。而して学都としての完備、商業都市、遊覧都市、更に療養都市として跳躍の意気旺(さかん)に新興の熱に燃え其の発展目醒(めざま)しく近年周囲町村の合併頻(しき)りである」と鼻息荒く表現しています。

 翌17年に福岡市役所が発行した『市勢要覧』では「6大都市ニ次ク大都市トナリ更ニ大東亜共栄圏確立の前進拠点トシテ明日の大飛躍ヲ約束セラレ居レリ」(同2頁)とあり、戦争をきっかけとして都市を発展、飛躍させていこうとする将来像が示されます。ちなみに「6大都市」とは東京、大阪、名古屋、神戸、京都、横浜のことです。

 この間、東は箱崎町(昭和15年)、西は今津(いまづ)村(昭和17年)までの周辺の町村を編入し、市の面積は128.82平方キロメートルと12年でさらに2倍の大きさとなり、人口は30万6,763人(昭和15年国勢調査)になりました。

西日本の雄都として
空襲を受けた場所が色分けされた「福岡市地図」(昭和21・1946年)
空襲を受けた場所が色分けされた「福岡市地図」
(昭和21・1946年)

 戦争は日本各地に大きな被害を及ぼしました。福岡市も昭和20年6月19日のアメリカ軍による空襲により1,000人以上の犠牲者が出て、市の中心部が焼け野原となりました。

 昭和22年の『市勢要覧』は、戦災で大きな被害を受けたことを冷静に振り返る一方で、「その将来には多大の繁栄が期待されている」(同2頁)と前向きなメッセージが語られます。

 そして、昭和25年の『市勢要覧』になると「全国8大都市の一つ」「九州の雄都」という戦前にも見られたような言葉が改めて登場してきます。さらに「人口100万の大都市建設が市民の話題となっている」とあり、当時40万人弱であった人口を倍以上にしていこうとする将来像が示されます。

 その後、昭和20〜30年代の『市勢要覧』における福岡市の自己認識を追うと、都市の発展に対応して変化する表現を読み取ることができます。27年は「西日本最大の雄都」、30年は「九州の主都」、31年は「西日本における政治経済文化の中心地」、34年は「名実ともに西日本一の雄都」、35年は「西日本の首都」、36年は「名実ともに西日本最大の都市」、37年は「西日本の中枢的都市」のように、少しずつ表現を変えながら、段階的に発展する都市像が表現されています。

 一方、目指すべき都市像については昭和30年代以降の『市勢要覧』から具体的に登場してきます。例えば、32年は「戦災復興から総合的近代都市」、34年は「総合的に明るく住みよい近代都市として市民と明るい希望と幸福を築いて行きたい」、36年は「100万都市を目標に」、「近代的総合都市としての街づくり」、37年は「国際都市として大きく突進せんがために、いま力強くスタートラインをふみしめている」、「九州開発の中心としての近代的な総合都市の建設という目標」、38年は「九州の大拠点都市にふさわしい町づくり」、「やがて登場するであろう、国際都市としての檜(ひのき)舞台をめざして」といった表現が見られます。「100万都市」は38年に発足する北九州市を改めて意識したもの、「国際都市」はアメリカ合衆国オークランド市との姉妹都市提携(37年)をふまえた言葉と考えられます。

 この間も、周辺町村との合併は続きます。昭和36年の周船寺(すせんじ)村、元岡(もとおか)村、北崎(きたざき)村との合併後の市域は239.85平方キロメートルとなり、戦前の福岡市の2倍程度になります。人口も戦前の約2倍となる64万7,122人(昭和35年国勢調査)まで増加しました。

新旧の博多駅が描かれた「福岡市街全図」(昭和38・1963年)
新旧の博多駅が描かれた
「福岡市街全図」(昭和38・1963年)
九州の管理中枢都市として

 福岡市は昭和36年に全国に先駆けて『総合計画書』(マスタープラン)を策定します。そこでは市の問題点として、第2次産業、特に製造業の貧弱さが挙げられています。そして目指すべき都市像としては、「弱い工業を育成し、本市の性格に工業的色彩を加えることにより2・3次産業間にバランスの取れた総合都市化」(同4頁)を図り、「東京、大阪、名古屋のそれのように、本市も総合都市として政治、経済、産業、学術、文化、交通、通信等のすべてについて西日本経済圏における中心的性格を強め首都性を高めていくべきものと考えるし、また海外についても博多港・板付(いたづけ)空港を拠点とする世界的都市になるべきものと考える」(同5頁)と述べています。

 しかし、昭和41年の『総合計画書』(第1次改定)の冒頭では「理念としては、たんなる工業導入偏重をさけ、九州の管理中枢都市としての都市機能充実と、市民の身ぢかな生活・文化基盤の強化を中心においた」とあり、工業化から一歩引いた姿勢が示されます。そして、「明日の都市像」として「1 生活環境整備の優先、2 都市型産業の強化、3 管理都市機能の充実、4 個性ある市民文化の造型」(同1頁)の4本の柱が示されます。さらに、「都市が発展するということは、いたずらに都市が膨張することではない。正しい市民要求と、高い市民意識が育ち、それが具体的な都市構造に定着することだと理解する」(同3頁)として、将来の都市像を決めていく主体についての意見も述べられています。

 市民主体の考え方は昭和44年に制定された「福岡市民のことば」にも表されています。それは次のようなものです。

 福岡市は九州の主都、あすへむかつて、いきいきと発展しています。筑紫野の緑と玄海の白波にかこまれ、ここには、輝かしい歴史と伝統が築かれてきました。わたしたち福岡市民は、誇りと責任をもつて、次のことをさだめます。

  • 1 自然を生かし、あたたかい心にみちたまちをつくりましよう。
  • 1 教育をおもんじ、平和を愛し、清新な文化のまちをつくりましよう。
  • 1 生産をたかめ、くらしを豊かにし、明るいまちをつくりましよう。
  • 1 力をあわせ、清潔で公害のないまちをつくりましよう。
  • 1 広い視野をもち、若さにあふれる市民のまちをつくりましよう。

 その後、昭和46年には志賀(しか)町を編入し、市域は254.56平方キロメートル、政令指定都市となった47年には人口が91万2,058人(推計人口)となり、いよいよ100万都市が現実味を帯びてきます。

 昭和47年の『総合計画』(第2次改定)の冒頭では「人間都市としてのより高い目標を設定し、緑あふれるユニークな政令指定都市づくりに努力して参りたい」と阿部源蔵(あべげんぞう)市長のメッセージが語られます。そして、「計画の目標(都市像)」として「①高福祉都市の創造、②国際的情報都市機能の充実、③激動し高速化する時代への対応」(同1頁)の3つの柱が示されます。

 昭和50年には早良(さわら)町を編入し、市域は334.78平方キロメートル、人口も100万2,201人となり、ついに大台を突破します。市域はその後埋め立てなどで若干拡大はしますが、現在へと繋がる市の範囲が固まりました。そして、この合併の8日後、山陽新幹線が全線開通し、東京―博多間が7時間弱で結ばれる新しい時代が到来しました。

 昭和51年には『福岡市基本構想』が策定され、「(1)心豊かな市民の都市、(2)生きた緑の都市、(3)制御システムをもつ都市、(4)学び、創る都市」という将来の都市像が示されます。無秩序な都市の膨張を防ぐため「制御システム」という言葉を登場させたのがこの時期の一つの特徴と言えるでしょう。昭和52年と56年に改定された『総合計画』でもこの都市像が継承されていきます。

 発展し続ける都市の中で消えていくものもありました。昭和54年には増え続ける自動車に押され路面電車が全て廃止されます。また、昭和56年の地下鉄空港線の開業後、58年には博多駅から姪浜(めいのはま)駅まで市域の中央部を東西に結んでいた筑肥(ちくひ)線の線路が廃線となり、街の景色が大きく変わっていきました。

アジアのリーダー都市をめざして

 昭和62年に改定された『基本構想』ではあるべき都市像として「1 自律し優しさを共有する市民の都市、2自然を生かす快適な生活の都市、3 海と歴史を抱いた文化の都市、4 活力あるアジアの拠点都市」が掲げられます。特に4番目の「アジアの拠点都市」はこれまでの構想には見られない都市像であり、福岡市が次のステージへ進もうとする意気込みを見ることが出来ます。

 こうしたアジアとの関わりを意識した福岡市のあり方を内外に広く知らしめたのが「アジア太平洋博覧会‐福岡'89」と言えるでしょう。市制100周年を記念して平成元(1989)年3月から9月にかけて開催されたこの博覧会は823万人もの来場者を集め、アジアの中の福岡という意識を市民が広く共有する機会となりました。平成2年に開館した当館も建物が博覧会のテーマ館として使われたゆかりの施設です。

 平成24年に四半世紀ぶりに策定された『基本構想』では、めざす都市像として「住みたい、行きたい、働きたい。アジアの交流拠点都市・福岡」を掲げています。そして、「1 自律した市民が支え合い心豊かに生きる都市、2 自然と共生する持続可能で生活の質の高い都市、3 海に育まれた歴史と文化の魅力が人をひきつける都市、4 活力と存在感に満ちたアジアの拠点都市」を四本柱として、現在はこの都市像を実現する途上にあります。

 福岡市130年の都市像の変遷を振り返ると、その時々で都市が抱えていた課題や市民の意識が読み取れ、目指す都市像を随時アップデートしてきた様子が分かります。福岡市はこの先どのような都市になっていくのでしょうか。本展示が今後の福岡市を考える上で何かしらのヒントになれば幸いです。(宮野弘樹)

【主要参考文献】

特別展図録『福岡近代絵巻』(福岡市博物館、2009年)/『市史研究ふくおか』第12号「【特集】 空の福岡、海の福岡 ―近代都市福岡の来歴を語り直す―」(福岡市史編さん室、2017年)

福岡市博物館
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