企画展示

企画展示室4
古代と暦

平成31年4月9日(火)~令和元年6月9日(日)

江戸時代に描かれた古代の漏刻(昭和の絵葉書より)
江戸時代に描かれた古代の漏刻
(昭和の絵葉書より)
はじめに

5月1日、令和元年として新たな時代が始まります。元号を古典籍からとることは平安時代に既に通例となっていますが、新元号「令和」の典拠とされた『万葉集』の時代は、「霊亀(れいき)」など、改元の契機となった瑞祥そのものが用いられました。ここでは古代の元号のはなしを出発点に、はるか長い間、時を区切ってきた暦について、現在の福岡の地に関わるものとともに紹介します。

一 暦のはじまり

日本の歴史書に初めて登場する元号は、西暦645年が元年にあたる「大化(たいか)」です。しかし出土する木簡には、それ以降も「壬辰(じんしん)年」(692年)のように、元号ではなく干支(かんし)で年が記されました。木簡に元号が書かれるようになるのは大宝(たいほう)元(701)年のことです。この年に制定された大宝令(りょう)には、公文書に年を記す際に元号を用いること、中央官庁の一つである中務省(なかつかさしょう)の陰陽寮(おんみょうりょう)に暦博士(こよみはかせ)・漏刻(ろうこく)博士などの暦や時刻を掌(つかさど)る役人を置くことなどが定められました。大宝元年と書かれた木簡は、その制度が全国に速やかに浸透したことを教えてくれます。

元岡・桑原遺跡群出土の紀年銘木簡(墨書部分は各報告書の実測図より)
元岡・桑原遺跡群出土の紀年銘木簡
(墨書部分は各報告書の実測図より)

律令が定められる以前については、欽明(きんめい)天皇15(554)年、百済から暦博士が派遣され、この時には「暦本(こよみのためし)」として暦の計算方法である暦法が持ち込まれたことがうかがえます。

この時期につくられた庚寅銘大刀(こういんめいたち)(金錯(きんさく)銘大刀)は、九州大学伊都キャンパス内(西区)の古墳から取り出されたものです。鉄刀に金で象嵌(ぞうがん)された「大歳庚寅(たいさいこういん/かのえのとら)」という文字は、出土状況と合わせて、暦博士がやってきて間もない、西暦570年にあたることがわかりました。国内で暦が使用された最初期の例となる資料です。

二 暦をきめる

五経(ごきょう)の一つである『尚書(しょうしょ)』の「堯典(ぎょうてん)」には「日月星辰を暦象し、敬(つつし)みて人に時を授く」という一文があります。太陽や月など天体の運行を観測し、そこから人びとに時(暦)を与えることは、権力の象徴であると同時に、天下を統治する者の役目でもありました。中国では日食の予測の正確性など、天体と暦のずれを調整するために頻繁に暦法が改良されていました。

日本でも、租税の徴用、役人の交代などを全国的に滞りなく行うため、暦の普及が進められました。規定では、暦は前年の11月に中務省から天皇に進上され、その後、中央官庁や諸国に、年月日ごとの吉凶などが記された具注暦(ぐちゅうれき)が一巻ずつ頒布されました。西海道(九州)を管理した大宰府には、宝亀5(774)年までに、都と同じく漏刻(水時計)が設置され、また、鐘や鼓を使って人びとに時刻を知らせる守辰丁(ときもり)という役人も置かれました。福岡市域でも、柏原遺跡(南区)から「五月」と書かれた須恵器がまとまって見つかり、暦に基づく活動の様子がうかがえます。

庚寅銘大刀の象嵌銘文部分
庚寅銘大刀の象嵌銘文部分

また庚寅銘大刀の銘文が依拠した元嘉(げんか)暦をはじめとして、儀鳳(ぎほう)暦、大衍(だいえん)暦、五紀(ごき)暦、宣明(せんみょう)暦の五つの暦法が平安時代までに採用されました。これらはいずれも、精度が上がる中国の暦法を積極的に学び、取り入れていったものです。

暦法を積極的に学んだもう一つの時代が江戸時代です。平安中期以降、造暦の職は世襲となり、学問的進展が見られませんでしたが、貞享(じょうきょう)2(1685)年、渋川春海(しぶかわはるみ)による貞享暦が日本独自の暦法として初めて施行されます。平安前期、貞観(じょうがん)4(862)年の宣明暦以来、800年ぶりの改暦でもありました。福岡藩でも文治政治が進められる中で、和算に長けた星野実宣(ほしのさねのぶ)が、月の満ち欠けを測定する堪輿旁通儀図説(かんよぼうつうぎずせつ)を製作しています。

古代から続く太陰太陽暦は明治6(1873)年、より精密で都合がよい暦法であるとして太陽暦が採用されるまで、長い間用いられてきました。

「五月」と書かれた土器 柏原遺跡(南区)・博多遺跡群(博多区)出土
「五月」と書かれた土器
柏原遺跡(南区)・博多遺跡群(博多区)出土
堪輿旁通儀図説(部分)
堪輿旁通儀図説(部分)
三 暦にきく 暦で知る

古代に使用された太陰太陽暦は、年により日の数が変わり、一年が13ヶ月になることもありました。人びとが日にちを把握するため、暦の意味は今以上に大きいもので、日にちのほかに様々な情報が記載された具注暦は、日々の行動指針にもなっていました。

方違は大将軍神ほか方角神がいる方角に向かうことを避けるため行われた。(『立表測景暦日諺解』より)
方違は大将軍神ほか方角神がいる方角に向かうことを避けるため行われた。
(『立表測景暦日諺解』より)

例えば、方位の吉凶は方違(かたたがえ)の参考として用いられ、外出先の方角が悪い日には前夜に別の方角に行って泊まり、改めて目的地にむかうこともありました。方違など暦をもとにする動きは『源氏物語』や『土佐日記』などに、当時の日常的な習慣としてみることができます。

そのほか、一年の季節を知る目安となる24節気は奈良時代の儀鳳暦から存在し、卯月(うづき)(4月)、皐月(さつき)(5月)といった月の和名も、早く『古事記』や『万葉集』にみることができます。平安時代後期の具注暦には曜日も見えます。これらは江戸時代の太陰太陽暦の暦にはもちろん、太陽暦になった今でもなじみがあるもので、1千年以上、暦に記載されてきたものなのです。

おわりに

日本の暦を古代から通してみると、私たちが使用する太陽暦は、時の区切り方としてまだ歴史が浅いものですが、カレンダーには、長く人びとの生活に根付き、暦の一部として用いられてきた語句をみることができます。今回、典拠が初めて日本の歌集となった元号もその一つ。ぜひ元号だけでなく色々な言葉にも注目してみて下さい。(佐藤祐花)

主な展示資料

・庚寅銘大刀復元模型(原資料は元岡・桑原遺跡群G-6号墳/西区)
・「壬辰年韓鐵」銘木簡(元岡・桑原遺跡群7次/西区)
・「太寶元年」・「延暦四年」・「延暦四年計帳」・「五月十八日」・「自家三間子」・「嶋郡赤敷里」銘木簡(元岡・桑原遺跡群20次/西区)
・「寛治七年」銘木簡(香椎B遺跡寺熊調査区/東区)
・「延暦十年」・「来七月十九日」銘木簡・「正月」・「七月」墨書須恵器(金武青木A遺跡1次/西区)
・「五月」墨書土器七点(柏原遺跡群M遺跡/南区・博多遺跡群84次/博多区)
・双鳳双獣八花鏡(博多遺跡群119次/博多区)
・草花亀鶴文八稜鏡(吉武遺跡群9次/西区)
・草花蝶鳥鏡(箱崎遺跡群21次/東区)
・萩双鳥鏡(七反田遺跡/西区)
・鳳凰文柄鏡(戸原麦尾遺跡/糟屋郡粕屋町)
(以上、福岡市埋蔵文化財センター蔵 括弧内は、出土遺跡/遺跡所在の福岡市の区名を示す)

・書経/紀元前/江戸時代/紙本墨摺
・日本書紀/養老4年/寛政2年/紙本墨書
・令集解二十八儀制/9世紀/天保4年/紙本墨書
・湖月抄 源氏物語「帚木」/延宝元年/紙本墨摺
・土佐日記/10世紀/明治16年/紙本墨摺
・堪輿旁通儀図説/元禄3年/紙本墨書
・天経或問註解/寛延3年/紙本墨摺
・立表測景暦日諺解/文化6年/紙本墨摺
・農業花暦/ 慶応年間/明治3年/紙本墨摺
(以上、館蔵 順に、名称/原資料の成立年代/刊行年代/材質技法を示す)

※会期中に展示替えを行う場合があります。

《主な参考文献》

暦の会編『暦の百科事典』新人物往来社、1986年/渡邊敏夫『日本の暦』雄山閣、1993年/福岡市教育委員会『九州大学統合移転用地内埋蔵文化財発掘調査概報2 元岡・桑原遺跡群発掘調査』2003年/同『元岡・桑原遺跡群12第7次調査報告』2008年/同『元岡・桑原遺跡群30元岡古墳群G-6号墳・庚寅銘大刀の考察』2018年

福岡市博物館
〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
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