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  • No.534 筑前の女性文化人3―二川玉篠の絵画をゆかりの人々―

企画展示

企画展示室1
筑前の女性文化人3―二川玉篠の絵画をゆかりの人々―

平成31年4月9日(火)~令和元年6月9日(日)

資料22 雪梅図 玉篠画・相近賛
資料22 雪梅図
玉篠画・相近賛

江戸時代も後期の文化〜安政(あんせい)時代、福岡藩の武家に生まれた二川玉篠(ふたがわぎょくじょう)は絵画にすぐれ、当時から著名な女性文化人の一人でした。展示では玉篠の作品と、彼女の親族や二川家を取り巻く文化人たちの様々な作品をもとに、近世後期福岡の武家の文化を紹介します。

1、父・二川相近とその事績

 玉篠は本名を瀧(たき)といい、父の二川相近(すけちか)は藩の書道方(しょどうかた)でした。もともと二川家は藩の料理方に勤めていましたが、相近の父・相直(すけなお)は7代藩主黒田治之(くろだはるゆき)の時代に学識と実務の力を認められ、天明(てんめい)3(1783)年に料理方の職務制度の改革や藩校の設立について意見書を書いています。

 その子・相近は早くから福岡藩儒学者(じゅがくしゃ)亀井南冥(かめいなんめい)の弟子となり、南冥の子・昭陽(しょうよう)とともに漢詩(かんし)などで才能を現しました。

 相近と、亀井一族や南冥に学んだ同世代の好学の人々とは生涯交流が続き、娘の玉篠の生涯にも影響しています。ただ相近は漢学だけでなく、国学(こくがく)者の田尻梅翁(たじりばいおう)の弟子となり、万葉集(まんようしゅう)や古今集(こきんしゅう)などをもとに、和歌を生涯学び続けました。

 天明3年中の父の急死で、料理方を相続した相近は、生前に受けた親のアドバイスもあって書道に精進し、その上達は9代藩主黒田斉隆(くろだなりたか)と藩庁にも認められ、相近のために新設された書道方に就きました。以後の相近の仕事は、斉隆の死により僅(わず)か1才で10代藩主となった斉清(なりきよ)の教育に供するため、藩の歴史書『黒田家譜(くろだかふ)』や、そのほか文化的な書物の清書などを行いました。しかも書道では工夫を重ね、博多の東長寺(とうちょうじ)の空海(くうかい)の真筆を手本に、二川流といわれる独自の書法を確立しました。相近は斉清が好んだ音楽の研究も始め、日本の古典などに題材した譜を付けるなど、筑前今様(ちくぜんいまよう)の元祖的な存在となります。

2、玉篠の生い立ちと絵画作品
資料28 菊図 玉篠画
資料28 菊図 玉篠画

 玉篠は文化(ぶんか)2(1805)年に生まれ、幼くして母と兄を失いましたが、9歳上に相近の学問の秘書的(ひしょてき)な役を果たした姉の鶴(つる)がいました。玉篠の生まれた前後から、相近は実母の死や、病気がちなため福岡・唐人町(とうじんまち)の自宅の屋敷にこもり、以後30年の間、自宅から出ず隠者(いんじゃ)のような生活を送ったりしました。その間は今様の研究や、書道の「千字文(せんじもん)」を記すなど藩主のための御用を勤め、学問に厳しく集中する日々を送ったといわれます。そのため自宅には雅な和風の庭をつくり、尊敬する「徒然草(つれづれぐさ)」の作者で隠者・吉田兼好を祀る石碑や信仰する稲荷社を建て、蹴鞠場(けまりば)も造り、桜、楓(かえで)、梅、柳など四季の木々を植え、特に桜と楓を愛しました。

 玉篠は父と姉の薫陶(くんとう)と教育を受けていたといわれ、姉妹ともに当時、父が研究していた音楽にあわせ、琵琶や琴などの演奏を修練しました。また玉篠は、大変活発な幼年時代をすごし、成長しては蹴鞠を好んだそうです。その時期の玉篠の絵画や書道の習作は、現在一部が綴じて残されていますが、やがて玉篠は本式に絵画の道を目指します。父の相近は、画幅や書物の挿絵に文人画の四君子(しくんし)(梅、菊、蘭(らん)、竹)や桜、楓を巧みに描きました。二川家の屋敷に咲く四季の木々や草花も題材にされたのでしょうか。

 玉篠も父の指導や影響を受けたと推測され、現在残る絵画は梅、桜、菊などがほとんどです。そのうち雪梅図(せつばいず)は古梅に雪が積もった様子を墨の濃淡やデフォルメにより大胆に描いています。後世、玉篠の絵画は人々から力から強い構図と描写で、当時の文人画の男性的な描写に精通していたと評されました。

 さらに玉篠の絵画のもう一つの特徴は、画面のなかに相近が絵を褒めた短い言葉である賛(さん)文が彼の達筆(たっぴつ)で記されていることです。資料22には、絵画の情景を漢詩風の文章で「梅と雪が争って春を告げている、人はみな騒いで,一筆それらを評した文章を書こうとする」と記され、資料23には和歌で「まだ咲かない軒端(のきば)の梅に、鶯(うぐいす)が乗るたびに散らされる春の淡雪(あわゆき)だなあ」といった文章が記さています。娘の絵画に父の書跡が加わったこれらの合作は、相近の死去以前、玉篠が30歳になる前の作品です。

3、玉篠と並ぶ女性文化人たち

 さて、玉篠と同じ時代を生き、交流のあった武家の女性文化人に、南冥の孫の少琹(しょうきん)(友(とも))と、南冥の弟子で漢詩家の秋月藩儒学者原古処(はらこしょ)の娘・原采蘋(はらさいひん)(猷(みち))がいます。

 一番年長の少琹は寛政(かんせい)10(1798)年に生まれ、南冥の子で儒学者・漢文にすぐれた昭陽の娘です。幼いころから漢学や詩文の才能を現し、9歳の時には、秋月(あきつき)藩が開いた大宰府天満宮の書画会で出品した書が秋月藩主の目に留まり、ご褒美をもらったほどでした。また小琹の絵画に、父が賛を記した作品も残されています。成長して昭陽の弟子で、医師の三苫源吾(みとまげんご)と結婚し、亀井学(がく)と称される学問と、夫の医家や私塾を守りました。絵画作品では資料32の天保(てんぽう)2(1831)年、彼女が34才のときに書かれた「詩画巻」は当時の文人好みの竹や蘭などを題材とした画材を網羅(もうら)しています。また幕府の長崎奉行も,彼女の絵をわざわざ注文したほどでした。

 原采蘋も寛政10年に生まれ、幼いころから漢詩文の才能を見せました。兄弟と比べ体の丈夫な人だったため、成長してから、隠居(いんきょ)した父に連れられて九州の日田(ひた)や長崎、中国地方や上方(かみがた)を旅し、各地で優れた漢詩の才能を称賛されています。父の死後には江戸に上り、関東各地を巡りながら学問を続け、また私塾を開いて母を迎えることを希望しましたが、当時の家督(かとく)制度から藩に許可されず、故郷に帰り最後は筑前山家(ちくぜんやまえ)の塾で子弟の教育に当たりました。采頻は父同士の縁で幼い時から小琹と親しく、また玉篠との交流を示すものに、彼女の菊の絵に采頻が賛を添えた作品があります。

4、相近没後の玉篠ゆかりの人々

 二川相近には、国学の弟子に石松元啓(いしまつもとあき)、書道で娘・鶴の夫として藩医の家から相近の養子となった友古(ともふる)が有名です。また和歌の弟子にも、福岡商人の大隈言道(おおくまことみち)や、武家の野村もと・貞貫(さだつら)夫妻がいました。藩主が11代長溥(ながひろ)となって3年後の天保7(1836)年、相近は70歳で死去しますが、もと(後の望東尼(ぼうとうに))の「向陵集(こうりょうしゅう)」にはその死を聞いた直後の、嘆きの和歌が記されています。相近は福岡の円応(えんのう)寺に葬られ、その碑文は、藩の儒学者・櫛田駿(くしだしゅん)が起草していました。また二川相近の評伝を石松元啓、藩主側近(そっきん)で友人だった梶原景翼(かじわらかげすけ)が記しています。

 二川家を継いだ友古は相近一代限りだった書道方の家を無事継ぎました。また友古の後を継いだ相遠(すけとう)は野村もとの義理の息子にあたる人で、玉篠(瀧)はその夫人として、以後22年ほどの家庭生活をおくり、慶応(けいおう)元(1865)年61歳で生涯を終えました。また亀井少琹は安政(あんせい)4(1857)年、采蘋も同6年に死去します。 

 しかし江戸時代後期の女性文化人たちの作品や業績、その逸話は、近代以降、今も語り続けられています。(又野 誠)

出品資料

(作品保護のため会期中一部展示替えをします)

1、二川相直(すけなお)意見書 一冊
2、雪の日々記(二川相近) 一冊
3、県居翁家集(田尻梅翁、亀井南冥作品) 一冊
4、戸次宜春六行書 一幅
5、二川相近写長巻 一巻
6、草字心経巻(伝空海自筆筆木版) 一枚
7、千字文(二川相近) 三帖
8、松蔭(しょういん)歌集(二川相近、文化9年) 一冊
9、樵唱(しょうしょう)新譜(二川相近、文化10年) 一冊
10、松蔭樵唱譜(二川相近、文化10年) 一冊
11、草花図詩歌寄書(二川相近、大隈言道、広瀬旭壮) 一幅
12、鶯図画賛(尾形洞宵、二川相近、吉留杏村) 一幅
13、吉留杏村(よしどめきょうそん)書 一冊
14、伝二川相近像 一幅
15、鴫(しぎ)の羽根かき(二川相近、文政9年) 一冊
16、嬰楓園春秋(おうふうえんしゅんじゅう)(二川相近、文政12年) 一冊
17、二川家屋敷図(明治22年) 一敷
18、楓(かえで)図(二川相近) 一幅
19、竹図下絵(二川相近) 一綴
20、藤袴(ふじばかま)図・和歌(二川相近) 一幅
21、玉篠(ぎょくじょう)習字綴 二綴
22、雪梅(せつばい)図(二川玉篠・相近) 一幅
23、雪梅図(二川玉篠・相近) 一幅
24、梅図(二川玉篠) 一幅
25、桜花(おうか)図・和歌(二川玉篠・相近) 一幅
26、竹図(二川玉篠) 一幅
27、菊図(二川玉篠) めくり
28、菊図(二川玉篠) 一幅
29、秋竹図(亀井少琹・亀井昭陽(しょうよう)) 一幅
30、墨菊(ぼくきく)図(亀井少琹) 一幅
31、牡丹(ぼたん)図(亀井少琹) 一幅
32、詩画巻(しがかん)(亀井少琹) 一巻
33、諸貼交(原采蘋(さいひん)・原古処(こしょ)) 一幅
34、五言絶句(原采蘋) 一幅
35、菊図(二川玉篠、原采蘋) 一幅
36、贈答詩巻(しかん)(原采蘋他) 一巻
37、美人図(吉嗣梅仙(よしつぐばいせん)、原采蘋) 一幅
38、山里集(やまざとしゅう)序(石松元啓(いしまつもとあき)、二川相近序) 一冊
39、新泉村居二十詠(えい)(二川相近、石松元啓) 一冊
40、聴雨録稿(ちょううろくこう)(天保4年) 一冊
41、集字詠集(しゅうじえいしゅう)(二川相近、天保7年) 二冊
42、向陵集(こうりょうしゅう)(野村望東尼(ぼうとうに)) 一帖
43、二川相近略伝(梶原景冀(かじわらかげすけ)) 一冊
44、北渚漫藁(ほくしょまんこう)(櫛田駿(くしだしゅん)) 一帖
45、孫氏真筆書譜(そんししんぴつしょふ)(二川友古蔵書) 一冊
46、大隈言道(おおくまことみち)和歌 一幅
47、野村望東尼血書(けっしょ) 一帖
48、野村望東尼絶筆(ぜっぴつ) 一幅

(ご協力者、出品順、敬称略)吉留駿 柴田治道、櫛田正巳

(参考文献)春山郁次郎『野村望東尼伝』(文献出版 昭和51年)、日本女性史 第3巻 近世』(東京大学出版会 1982年)、『文学にみる日本女性の歴史』(吉川弘文館 2000年)、谷川佳代子『野村望東尼』(花乱社 2011年)

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