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  • No.537 戦争とわたしたちのくらし28

企画展示

企画展示室1
戦争とわたしたちのくらし28

令和元年6月18日(火)~8月18日(日)

はじめに
ポスター「今こそ援護も決戦調」
ポスター「今こそ援護も決戦調」

 昭和20年(1945)6月19日深夜から翌日未明にかけて、アメリカ軍の長距離爆撃機B―29の大編隊から投下された焼夷弾により、福岡市の中心部は焼け野原になりました。特に、博多部は甚大な被害をうけました。福岡市は、この日を「福岡大空襲の日」としています。福岡市博物館では、平成3年から6月19日前後に企画展示「戦争とわたしたちのくらし」を開催し、館蔵資料を中心に福岡の戦時を紹介してきました。

 28回目となる今回は、戦時期の女性のくらしを紹介します。直接戦闘に参加しない「銃後の国民」の中で、家庭・社会での女性の役割は大きいものになっていきました。

 戦時期の女性のイメージや当時使われたものにふれることで、戦争の時代を考える機会になれば幸いです。

"戦時の女性"イメージ

 銃後の国民のつとめは、出征兵士への感謝の念を持ち、兵士の慰問、戦勝祈願や戦没者の慰霊、出征した軍人の家族の援護を行うことでした。また、戦費調達のために貯金や債券の購入が求められました。

 銃後の国民の中で、女性は出征兵士を後方から支える存在として描かれています。広告・ポスターの中では、妻として、あるいは母として、千人針を縫う姿や兵士を見送る姿が描かれました。

 日中戦争の長期化と太平洋戦争の開始は、戦時の女性イメージを変化させていきます。働き盛りの男性が徴兵されたことによる労働力不足を補うため、女性の活躍が期待されました。昭和18年(1943)から昭和20年の女性向け雑誌の表紙には、農業・漁業に従事する女性や、工場で働く女性が描かれており、食糧増産・軍需品増産の担い手としてのイメージが強く打ち出されるようになりました。

家での仕事
もんぺ
もんぺ

 戦争による労働力の不足、資源の輸入減少、物資の戦争への集中は、銃後の国民の食料・物資の不足につながります。限られた物資を国民に分配するため、政府は配給制と切符制を導入しました。配給は、一人あたりの割り当て量を定めて販売するもので、昭和16年(1941)に米、木炭、魚介類、翌年に野菜類が配給制となりました。切符制は年1、2回程度配られる切符と引き換えに物品を購入する仕組みです。昭和15年に砂糖とマッチ、17年に衣料品、味噌、醤油などが切符制となりました。女性には、限られた物資で衣食や家計をやりくりすることが求められました。

 戦時から戦後にかけての代表的な作業着がもんぺです。着物を仕立て直して作ります。もとは農村の作業着でしたが、戦時期に動きやすい和服として注目され、昭和一七年に厚生省が提案した女性用標準服のうち、「活動衣」に指定されました。もんぺは当初、防空演習の際などに着用されましたが、空襲の危険性が高まった戦争末期には普段着として使われました。

 生活必需品に利用する物資の不足から、本来用いていた素材を別の素材に置き換えた代用品が現れます。アイロンや湯たんぽは、金属の代わりに陶器で作られました。また、羊毛・木綿の代用品として、人造繊維であるステープル・ファイバー(スフ)が登場し、生地の活用がうたわれました。

地域を支える
防空図解「防空に対する各家庭平常の準備」
防空図解「防空に対する各家庭平常の準備」

 家の外にも、女性が果たすべきとされた多くの仕事がありました。

 出征軍人へ送る慰問品や慰問文は、個人で調達することもありましたが、多くは近所や町内を単位として送付されました。

 入営や出征の時に贈られた千人針は、布に女性が一人ひと刺しずつ、千個の結び目をつくるもので、兵士の武運長久を祈るお守りです。寅年(とらどし)の女性は「虎は千里往って千里還る」ということわざから、歳の数だけ結び目を作ることができました。千人針の製作には多くの女性の力が必要なので、近所や職場、町内、あるいは街頭で協力が求められました。

 空襲への対策として、銃後の国民は防空訓練を行いました。防空の末端組織は、昭和13年(1938)から家庭防空組合、15年には隣組と呼ばれます。どちらも数戸から十数戸程度の隣近所の範囲です。防空を訴えるポスターや防空訓練の写真には、男性よりも女性の姿が多く見られます。壮年の男性が軍事に携わる中、女性たちは地域を支えることになりました。

 昭和16年以降、政府は労働力不足の対応策として、女性の労働力を動員していきます。同年10月に女性が従事すべき職種の指定を行い、翌月には14~40歳未満の男性と14~25歳未満の未婚女性からなる勤労報国隊を編成、軍需産業や農業に動員しました。さらに昭和19年、12~40歳の未婚女性によって構成される女子挺身隊が組織され、女性の動員が強化されました。職業紹介機関も、国策に沿う形で工場労働者の募集を行いました。

婦人会の活動
消火作業のバケツ訓練
消火作業のバケツ訓練

 戦時期の女性の活動の場のひとつは婦人会でした。全国規模の団体として、愛国婦人会、大日本連合婦人会、大日本国防婦人会がありました。

 愛国婦人会は、明治34年(1901)に創立された婦人会で、日露戦争(1904~1905)の際に出征兵士の送迎や慰問などの活動で発展しました。大日本連合婦人会は昭和6年の創立で、小学校区ごとの保護者会を母体とする組織でした。大日本国防婦人会は軍部の指導の下、昭和7年に発足した団体で、銃後体制の強化を目的としました。昭和17年2月、政府はこれらの婦人会を統合し、20歳以下の未婚者を除く全女性を会員とする大日本婦人会を結成します。

 婦人会は、会員が揃いの衣装を着用し、出征兵士や戦傷病兵士の慰問、防空訓練、資源回収、遺骨の出迎えなど、組織的に銃後のつとめを果たしました。役員会では慰問袋の調達や貯蓄目標などが話し合われています。婦人会は、託児所の設置や共同炊事の実施が検討されたほか、料理研究会も開催しており、家庭内外での仕事が多く、物資不足に悩む女性の生活面を支援する役割を果たそうとしていました。しかし、戦局の悪化とともに、人手や物資の不足はますます悪化していきました。 (野島義敬)

主な展示資料

"戦時の女性"イメージ
・ポスター「今こそ援護も決戦調」昭和10年代 軍事保護院ほか/作成
・ポスター「第一徴兵」昭和10年代 製作者不明
・婦人倶楽部 第25巻3月号 昭和19年 大日本雄弁講談社/発行
・主婦之友 第28巻第12号 昭和19年 主婦之友社/発行
家での仕事
・もんぺ 昭和時代 製作者不明
・お米の割当配給実施について 昭和10年代後半 福岡県/作成
・陶製湯たんぽ 昭和時代 製作者不明
・家庭用木炭配給通帳 昭和10年代 福岡市/作成
・ポスター「貯蓄スルダケ強クナル」昭和17年 大蔵省ほか/作成
地域を支える
・千人針 昭和10年代 製作者不明
・防空図解 第1輯第8図 昭和10年代前半 小林又七本店/発行
・ポスター「男女工員募集」昭和10年代 武生水・国民職業指導所/作成
・慰問箱「兵隊さん有難う」昭和10年代 福岡松屋百貨店/取扱
・写真「家庭防空訓練」昭和10年代後半 撮影者不明
婦人会の活動
・「羊毛屑集め」趣意書 昭和時代 福岡県連合婦人会・福岡県連合女子青年団/作成
・愛国婦人会会員証書 昭和13年 愛国婦人会/作成
・ノート(婦人会) 昭和17~20年 西村淑子/筆
・筑紫国婦だより 昭和16年 大日本国防婦人会福岡市支部/発行
・大日本婦人会制服型紙 昭和10年代 田村康子/考案

《参考文献》

大原社会問題研究所・榎一江編著『戦時期の労働と生活』(法政大学出版局、2018年)、大串潤児『「銃後」の民衆経験』( 岩波書店、2016年)、若桑みどり『戦争がつくる女性像』(筑摩書房、1995年)

福岡市博物館
〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
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