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  • No.538 藩主になるはずだった殿様

企画展示

企画展示室2 黒田記念室
藩主になるはずだった殿様

令和元年7月9日(火)~9月8日(日)

はじめに
1 黒田綱之像
1 黒田綱之像

 江戸時代、筑前国(ちくぜんのくに)(現在の福岡県北西部)ほぼ一国を治めたのは、福岡藩主・黒田家でした。福岡藩の藩主は、初代・黒田長政(くろだながまさ)から最後の藩主・黒田長知(ながとも)まで12代を数えますが、藩主の長男で幕府からも跡継ぎと認められ「藩主になるはずだった」にも関らず、何かしらの理由で藩主にならなかった殿様もいました。

 今回は、今まで展覧会では取り上げる機会の少なかった「藩主になるはずだった殿様」に関わる資料を展示し、その人柄や「どうして藩主にならなかったのか?」その理由や事情について、ご紹介したいと思います。

厳格な父

 最初に紹介するのは、3代藩主・黒田光之(みつゆき)の長男・黒田綱之(つなゆき)です。

 黒田綱之は明暦(めいれき)元年(1655)3月、赤坂溜池(東京都港区)にあった福岡藩の江戸中屋敷で生まれました。幼名を万千代と言い、寛文(かんぶん)5年(1665)年2月、11才の時に4代将軍・徳川家綱(とくがわいえつな)に初めて拝謁しました。ここに万千代は幕府から次期藩主として認められることになりました。

2 黒田万千代書状
2 黒田万千代書状

 当館には、幼少期の万千代が、守役(教育係)の長濱四郎右衛門(ながはましろうえもん)に宛てた書状が7通残されています。下の書状【資料番号2】には、

 御てのいたみいかゝ候や、みまいにつかわし候

とあり、「手の痛みはいかがですか。見舞いとして書状を送ります。」と、幼い万千代が四郎右衛門の手の痛みを気遣っている様子が、幼い文字とその文面から見て取れます。他の書状からも、万千代が四郎右衛門をお茶に招いたり、贈り物をしたりするなど、二人の交流の様子がうかがい知れます。

 寛文9年正月、15才となった万千代は元服し、従四位下筑前守に叙任(じょにん)され、松平姓と「綱」の一字を徳川家綱から与えられ、綱之と名を改めました。

 寛文13年(延宝(えんぽう元年)、1673)3月、綱之は父・光之に伴われて初めて福岡に入りましたが、光之は常日頃の息子の言動に不安を抱いていたようです。これ以前から綱之は江戸において諸大名と交遊し、盛んに酒宴を催すなどしていましたが、幕府への忠義と黒田家の存続を第一に考える光之から見ると、この綱之の行動は、とても危うく映ったのでしょう。同年11月、綱之が参勤した後に江戸にいる藩士・大音重次(おおとしげつぐ)に送った書状【資料番号11】で「江戸に着いた後は慎んでいる様子で満足している」と記していることからも、光之の心情がうかがえます。

 しかし、その後も綱之の振舞は光之の意に沿うものではなかったようです。延宝3年閏4月、2度目の在国中であった綱之は帰国した光之によって突如、福岡城二の丸に蟄居(ちっきょ)させられました。同5年2月には廃嫡(はいちゃく)(家督を相続出来なくなること)となり、綱之は剃髪(ていはつ)して、同年12月には屋形原(やかたばる)(福岡市南区)に移り住みました。光之は、綱之の代わりに支藩・直方(のおかた)(東蓮寺(とうれんじ))藩主となっていた弟の黒田長寛(ながひろ)を跡継ぎに決め、長寛は後に綱政(つなまさ)と名を改め4代藩主となりました。

 光之は、宝永(ほうえい)4年(1707)5月に亡くなりますが、綱之に宛てた遺言【資料番号16】を残しています。その中で光之は、自らの死後は勘当(かんどう)を許すので、今後も慎み深く暮らすよう記しています。遺言を受け取った綱之は翌5年7月、父の後を追うように亡くなりました。

親に先立つ

 次に紹介するのは、4代藩主・黒田綱政の長男・黒田吉之(よしゆき)です。

 黒田吉之は天和(てんな)2年(1682)6月、江戸で生まれ、左京と名付けられました。元禄(げんろく)4年(1691)2月、10歳の時に初めて5代将軍・徳川綱吉(つなよし)に拝謁すると、同9年12月、従四位大隅守に叙任され、綱吉から松平姓と「吉」の一字を与えられて吉之と改名しました。

 吉之は、元禄12年7月、大和国郡山(やまとのくにこおりやま)藩主・本多忠常(ほんだただつね)の養女(三河国挙母(みかわのくにころも)藩主・本多忠利(ただとし)の娘)と婚約、宝永2年9月に婚礼を挙げました。

 この間、吉之は宝永2年2月に初めて福岡に帰国し、同4月、父・綱政と共に長崎へ赴き番所を巡見。長崎奉行所や出島のオランダ商館を訪れるなど次期藩主としての務めを果たしていました。長崎から帰国した後に、吉之は隠居していた黒田光之の屋敷を訪ねていますが、前藩主であった光之の眼から見ると、若い吉之の振舞は藩主として心許なく映ったようです。2年後、吉之に宛てた遺言【資料番号21】の中で、吉之の言動が慎みに欠け、わがままになってしまうのではないかと心配している、と苦言を呈しています。

 また、吉之は生来体が弱く喘息(ぜんそく)などを患っていたようです。「黒田新続家譜」にも病気のため療養する吉之の様子が記されています。そして、宝永7年の夏頃から体調を崩した吉之は、様々な治療を受けるも効果が見られず、7月、29才の若さで亡くなりました。吉之を失った綱政は次男・守山政則(もりやままさのり)(後の5代藩主・黒田宣政(のぶまさ))を跡継ぎとしました。

 最後に6代藩主・黒田継高(つぐたか)の長男・黒田重政(しげまさ)を紹介します。

 黒田重政は、元文(げんぶん)2年(1737)9月に福岡城三の丸下屋敷で生まれ、左京と名付けられました。福岡で生まれた左京は、11才になるまで国元で育ち、延享(えんきょう)4年(1747)11月、初めて江戸に赴きました。

 翌延享5年(寛延(かんえん)元年)正月、父・継高に伴われて江戸城に登り、9代将軍・徳川家重(いえしげ)に初めて謁見した左京は、同年11月に元服し、従四位下修理大夫に叙任され、家重から松平姓と「重」の一字を与えられ、重政と改名しました。

 宝暦(ほうれき)8年(1758)正月、重政は元服後初めて幼少期を過ごした福岡に帰国し、家臣の礼を受けました。同10年、2度目の在国時には継高に従って長崎へ赴き長崎警備の様子を巡見するなど、父の下で次期藩主としての務めに励んでいました。

 しかし、宝暦12年、6月初旬頃から重政は浮腫(ふしゅ)(むくみ)を発症、様々に治療を施されたものの7月に亡くなりました。継高は、重政の弟・黒田長経(ながつね)を跡継ぎにと幕府へ願い出ましたが、長経も翌13年8月に亡くなったため、同11月に御三卿の一橋(ひとつばし)徳川家から隼之助(はやのすけ)(後の7代藩主・黒田治之(はるゆき))を養子に迎え、跡継ぎとしました。 (髙山英朗)

展示資料リスト(名称/年代/作成/品質形状/員数)

1 黒田綱之像/江戸時代中期/不詳/絹本着色・掛幅装/一幅
2 黒田万千代書状/(江戸時代前期)十月二十三日/長濱傅老宛て/竪紙/一通
3 黒田万千代書状/(江戸時代前期)十一月十九日/長濱四郎右衛門宛て/竪紙/一通
4 黒田万千代書状/(江戸時代前期)十二月十三日/長濱四郎右衛門宛て/竪紙/一通
5 黒田万千代書状/(江戸時代前期)正月朔日/長濱四郎右衛門宛て/竪紙/一通
6 黒田万千代書状/(江戸時代前期)六月十五日/長濱四郎右衛門宛て/竪紙/一通
7 黒田万千代書状/(江戸時代前期)六月十九日/長濱四郎右衛門宛て/竪紙/一通
8 黒田万千代書状/(江戸時代前期)八月二十四日/長濱四郎右衛門宛て/竪紙/一通
9 黒田光之像/宝永五年(一七〇八)/月潭道澂賛/絹本着色・掛幅装/一幅
10 賦山何連歌/(寛文十〈一六七〇〉~十一年)/黒田光之・黒田綱之他/懐紙・巻子装/一巻
11 黒田光之書状/(延宝元年〈一六七三〉)十一月十一日/大音重次宛て/折紙/一通
12 黒田新続家譜 巻之四/延享二年(一七四五)、江戸時代後期写/竹田定直他編/書冊/一冊
13 黒田光之書状控/(延宝三年)閏四月十日/久世広之・酒井忠清宛て/折紙/一通
14 黒田光之覚書控/(延宝五年)二月朔日/小笠原長矩・甲斐庄正親宛て/切紙/一通
15 黒田綱之書/江戸時代前期/泰雲(黒田綱之)/紙本墨書・掛幅装/一幅
16 黒田光之遺言/宝永三年九月二十日/黒田光之/竪紙/一通
17 黒田光之側近覚書/(宝永四年)五月/矢野安太夫他三名から櫛橋七兵衛宛て/折紙/一通
18 黒田新続家譜 巻之十四/延享二年成立、江戸時代後期写/竹田定直他編/書冊/一冊
19 黒田吉之書/元禄三年(一六九〇)/黒田吉之/紙本墨書・巻子装/一巻
20 観梅図/江戸時代前期/狩野昌運筆、黒田吉之賛/絹本着色・めくり/一鋪
21 黒田光之遺言/宝永四年五月十一日/黒田吉之宛て/継紙/一通
22 譲道具目録/(宝永四年)五月十一日/黒田光之から黒田吉之宛て/竪紙/一通
23 銀箔押一の谷形兜・紺糸威五枚胴具足/江戸時代中期/黒田継高所用/革・漆・金属・布/一領
24 心空院遺言/(宝永五年)八月十七日/黒田吉之宛て/切紙/一通
25 御前様江被進分/(宝永四年)/(黒田光之から心空院宛て)/切紙/一通
26 遺物目録/(宝永五年)/(心空院から黒田吉之宛て)/切紙/一通
27 黒田新続家譜 巻之十五/延享二年、江戸時代後期写/竹田定直他編/書冊/一冊
28 紅梅図/江戸時代中期/伝黒田重政/紙本墨画淡彩・掛幅装/一幅
29 一文字鐙之覚/元文三年(一七三八)三月/斎藤青人/紙本墨書・めくり/一通
30 黒田重政書状/(寛延二〈一七四九〉~宝暦十二年〈一七六二〉)正月二日/大音彦左衛門宛て/墨書・折紙/一通
31 黒田幸書付/宝暦十四年二月四日/黒田治之宛て/横帳/一冊
32 淑徳録/天保十四年(一八四〇)九月二十四日写/大野貞正写/墨書・書冊/一冊

※1、9~10、13~19、21~27、29、31は黒田資料、2~8は宮崎和子氏、12は山崎千泰氏の寄贈、11、30は大音重成氏の寄託です。

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