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  • No.542 「肖像」を読み解く

企画展示

企画展示室2(黒田記念室)
「肖像」を読み解く

令和元年9月10日(火)~11月10日(日)

17 柿本人麿像(部分)
17 柿本人麿像(部分)

 実在する人の顔や姿を絵や彫刻であらわす肖像(しょうぞう)は、洋の東西を問わず古くから作られてきました。人が肖像を残す理由は様々ですが、根底の部分では誰でも年をとり、死ねば肉体が永遠に失われるという事実と深い関係があります。

 また肖像を見るということは、自分にとって、家族にとって、組織にとって大切な人のイメージをこの世に留め、あらわされた人物(像主(ぞうしゅ))との絆(きずな)を確認する行為という見方もできます。

 本展示では、こうした人間のあり方や関係性の視点を意識しながら、肖像に込められた世界を読み解きます。

家族の絆

 肖像の中には家族が制作に関与したものが数多く見られます。その中には父母が高齢になったのを機に息子が絵師に描かせたものや、没後の1回忌や3回忌といった区切りの年に制作されたものがあります。こうした肖像は像主の命日に掛けられるという点で今日の葬儀で用いる遺影と似ていますが、家族はその肖像を見ることで絆を深め、故人とのつながりを意識できたと言えるでしょう。

1 立花重種像
1 立花重種像

 江戸時代前期の福岡藩の重臣・立花重種(たちばなしげたね)(不慥斎平山居士(ふぞうさいへいざんこじ))の肖像(1)もそのひとつです。描いたのは重種の息子で茶道「南坊流(なんぼうりゅう)」の祖としても有名な立花実山(じつざん)(1655~1708)で、像主は頭巾(ずきん)をかぶり脇息(きょうそく)に肘かけることから隠居後の姿とわかります。画中に添えられた2首の和歌も実山のもので、「絵にだにも うつる心のまことには かはすことばの有といふものを」からは、今は亡き父を偲び、肖像に語りかける実山の姿が想像されます。

3 松村無翁像
3 松村無翁像

 また筑前秋月藩士・松村無翁(まつむらむおう)の肖像(3)は、無翁が66歳となった安政6年(1859)に、長男が京都の絵師荒木寛一(あらきかんいち)に描かせたものです。幕末期の作品らしいリアルな描写に加え、画中に細かく記された経歴から、無翁の人となりが伝わってきます。上部に大書された俳句は藩主の黒田長元(くろだながもと)が寄せたもので、無翁が藩主からあつく信頼されていたこともわかります。

8 武田家肖像
8 武田家肖像

 いっぽう江戸時代の博多で蝋燭商(ろうそくしょう)を営んだという武田家の歴代当主を描いた「武田家肖像(たけだけしょうぞう)」(8)は、珍しい群像の肖像画です。初代から7代目までの当主が松竹梅を飾った島台(しまだい)を囲む情景には、家族の団らんのような和気あいあいとした雰囲気が漂います。

 また同家7代当主の妻の肖像「妙祐善女像(みょうゆうぜんにょぞう)」(9)は、像主の33回忌にあたる嘉永2年(1849)に制作されたものです。像主の前に描かれた鳥籠や魚の入った盥(たらい)は生き物を解き放つ「放生(ほうじょう)」を意味し、生き物に対して慈悲深い人物であったことが窺われます。なお画中には女性は夫や家に従うという当時の社会通念を反映したものか、本人の分と並んで夫の賛文(さんぶん)も添えられています。

偉業を称える

 偉大な高僧や特定の組織・分野で優れた功績のあった先人は、後に続く人々にとっての追慕の対象となりました。その肖像を作ることは先人の偉業を称える行為であり、時には肖像を持つこと自体が像主の後継者としての地位を保証する場合もありました。

 真言宗(しんごんしゅう)を開いた弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)(774~835)の肖像(11)は、中央に密教法具と数珠(じゅず)を握って坐る空海を配した鎌倉時代の作品です。よく見ると上下に空海が開いた高野山(こうやさん)金剛峯寺(こんごうぶじ)の伽藍(がらん)が描かれており、像主はまるで高野山の上空に浮かんでいるように見えます。空海は歴史上の人物ですが、信仰上は弥勒仏(みろくぶつ)がこの世に現れる遠い未来まで高野山で入定(にゅうじょう)して(生き続けて)いると信じられてきたことから、本作品はそうした生身(しょうじん)の姿を表したものと考えられます。

12 曲直瀬玄朔像
12 曲直瀬玄朔像

 また江戸初期に将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)に侍医として仕えた曲直瀬玄朔(まなせげんさく)(1549~1631)の肖像(12)には、門下生の玄春(げんしゅん)の求めに応じて書いたという自賛があり、師弟関係の中で作られたことがわかります。画中には寛(くつろ)いだ様子で長椅子に坐る老医師の姿が描かれていますが、同様の構図は禅僧の肖像(頂相(ちんそう))にも類例があることから、この作品は卒業の証(あかし)として師から弟子へ渡す印可状(いんがじょう)のような意味を持っていたと言えそうです。

見立てる

 肖像の中には実在の人物を歴史上の偉人や神仏などになぞらえる「見立て」による作品もあります。

 江戸初期の絵師・住吉具慶(すみよしぐけい)(1631~1705)の「柿本人麻呂像(かきのもとのひとまろぞう)」(17)の顔に注目してみましょう。柿本人麻呂は歌聖(かせい)として崇められた奈良時代の宮廷歌人で、通常は白髪で皺のある老齢の顔にあらわされます。しかしこの像はなぜか壮年男性の顔で、前に置かれた硯箱(すずりばこ)の中身や模様も具体的です。ある研究では、作者の具慶は後水尾(ごみずのお)天皇周辺の人物と関係が深く宮中の伝統にも通じていたことから、当時の宮廷歌人のひとりをモデルにした可能性が指摘されています。

18 布袋と美人若衆図(部分)
18 布袋と美人若衆図(部分)

 また「布袋(ほてい)と美人若衆図(びじんわかしゅうず)」(18)は文字通り布袋和尚にまとわりつく少女と少年を描いた作品です。賛文は連歌師(れんがし)の西山宗因(にしやまそういん)(1605~1682)が添えたもので「世中や花色ぞめのだん袋 頸(くび)すぢにとりつきかつらの色も香(か)も さらりさんさとすて坊主也」と読めます。毛むくじゃらの布袋和尚はこちらに視線を向けまんざらでもない様子ですが、その顔には不思議な生々しさがあります。  

 作品の制作時期は不明ですが、宗因は66歳となった寛文10年(1670)に出家しており、またその頃豊前小笠原家や筑前黒田家などから召し抱えの動きもありました。こうした状況や賛文の意味を踏まえると、布袋は世俗のしがらみから自由になった宗因その人の見立てであった可能性があります。

面影を留める

 愛しい恋人のかけがえのない一瞬を留めたい。このような想いが肖像の形をとることは日本の近代以前ではほとんどありませんでした。それは肖像が死と関係の深いものと認識されていたからかもしれません。しかし明治以降になると写真が普及したこともあり、肖像に対する観念にも変化が生まれます。

20 人形「初袷」
20 人形「初袷」

 大正から昭和にかけて活躍した博多人形師・小島与一(こじまよいち)(1886~1970)の人形「初袷(はつあわせ)」(20)にもそうした近代肖像のあり方が窺えます。モデルは修業時代の与一が恋焦がれた博多芸妓(げいぎ(こ))のひろ子で、与一は料亭の二階に彼女を連れ出して3日間デッサンに打ち込み、この作品を完成させたと伝えられます。与一は後日ひろ子と結ばれますが、芸妓の身であった彼女は、若き日の与一には手の届かない相手でした。そこでは生と死ではなく二人を隔てる状況が肖像を作る動機になったと言えます。(末吉武史)

■出品一覧

1 立花重種像/江戸時代前期/立花実山筆・賛/絹本着色/一幅
2 智岳妙直善女像/承応三年(一六五四)/高嶺玄栢賛/紙本着色/一幅
3 松村無翁像/安政六年(一八五九)/荒木寛一筆・自賛・黒田長元賛/絹本着色/一幅
4 江川勝真像/天保九年(一八三八)/尾形洞霄筆/紙本着色/一幅
5 田中定増(源工)像/寛政三年(一七九一)/自賛/紙本着色/一幅
6 大賀宗九像/江戸時代/江雲宗龍賛/紙本着色/一幅
7 太田清蔵像/江戸時代後期/絹本着色/一幅
8 武田家肖像/江戸時代後期/絹本着色/一幅
9 妙祐善女像/嘉永二年(一八四九)/絹本着色/一幅
10 夫婦坐像/江戸時代後期/木造着色/二躯
11 弘法大師像/鎌倉時代/絹本着色/一幅
12 曲直瀬玄朔像/元和九年(一六二三)/自賛/紙本着色/一幅
13 亀井大壮像/文政九年(一八二六)/龍門円舒賛/絹本着色/一幅
14 百武万里像/江戸時代後期/吉留厚賛/絹本着色/一幅
15 人物図/弘化四年(一八四七)/大完円證賛/絹本着色/一幅
16 伝二川相近像/江戸時代後期/絹本着色/一幅
17 柿本人麻呂像/江戸時代前期/住吉具慶筆/絹本着色/一幅
18 布袋と美人若衆図/江戸時代前期/雲谷等哲筆・西山宗因賛/紙本着色/一幅
19 於多福図/嘉永七年(一八五四)/亀井少琹筆・賛/絹本墨画淡彩/一幅
20 人形「初袷」/大正三年(一九一四)/小島与一作/陶製着色/一躯

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