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  • No.553 ふくおか発掘図鑑0巻

企画展示

企画展示室4
ふくおか発掘図鑑0巻

令和2年4月14日(火)~6月14日(日)

はじめに
城南区梅林出土の子持勾玉
城南区梅林出土の子持勾玉

 千を超える遺跡がある福岡市では、その都市化とともに多くの発掘調査がおこなわれてきました。特に行政の文化財保護体制が確立してきたここ50年間の発掘調査の進展にはめざましいものがあります。福岡のみならず、日本や東アジアの歴史に光を当てる発見も少なくありませんでした。

 これまで10回開催した「ふくおか発掘図鑑」ではそのような営みや発見の一端を紹介してきましたが、その萌芽(ほうが)は近世から近代に本格化する考古学的な取り組みにあります。偶然発見された遺物(いぶつ)などを考証し、遺跡(いせき)の性格や地域の歴史が追求されるようになり、また、学術的な発掘調査もおこなわれるようになります。

 今回の展示では、福岡における黎明期(れいめいき)の考古学を中心に紹介します。

ふくおか考古学のはじまり
三雲南小路遺跡の出土品を伝える図
三雲南小路遺跡の出土品を伝える図

 貝原益軒(かいばらえきけん)が編さんした『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』をはじめ、18~19世紀の福岡藩の地誌には藩内各地の歴史的記述とともに遺跡や遺物発見についての記録が散見されます。天明4年(1784)に志賀島(しかのしま)(東区)で金印が発見された際には、儒学者(じゅがくしゃ)の亀井南冥(かめいなんめい)が中国の歴史書『後漢書(ごかんじょ)』に記された印綬(いんじゅ)であることを『金印弁(きんいんべん)』でいち早く論じました。

 これらは福岡で最も古い考古学的な記録や論考といえますが、現代の考古学的な実測図(じっそくず)にも通じる、実物に即した詳細な図面を多く残したのが江戸時代後期の国学者・青柳種信(あおやぎたねのぶ)です。藩内の文化財を調べるうえで、実地調査にもとづく遺跡・遺物の記録に努めました。三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡や井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡(いずれも糸島市)からの遺物出土(しゅつど)を文政5年(1822)に調べていますが、その記録とともに残された遺物の拓本(たくほん)や原寸大の図面などは、出土品の多くが現存していないため、高い資料的価値をもっています。これらの遺跡からは漢鏡(かんきょう)をはじめとする多くの青銅器(せいどうき)などが出土しており、現代の発掘調査成果などからも弥生時代の伊都国王墓(いとこくおうぼ)の遺跡と考えられています。

遺跡と遺物へのまなざし
須玖岡本遺跡出土の草葉文鏡拓本
須玖岡本遺跡出土の草葉文鏡拓本

 明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)や文明開化の世相は、盗掘や文化財の売買・流出が増えるなどの悪影響を及ぼしました。一方、殖産興業(しょくさんこうぎょう)の一環でおこなわれるようになった博覧会(はくらんかい)は文化財保護の役割も担いました。福岡市では明治20年(1887)に崇福寺(そうふくじ)で福岡博物展覧会(ふくおかはくぶつてんらんかい)が行われました。ここに収集品を出品していた江藤正澄(えとうまさずみ)は福岡市で古書・骨董商を営むかたわら、学会誌への投稿や収集品の図説を著し、太宰府に鎮西博物館(ちんぜいはくぶつかん)を建設することも計画しました。これは実現には至りませんでしたが、現代の九州国立博物館に通じる構想です。自身の収集品を中心とする展示計画図面が残っています。また、この時代には、作者不詳ながらも豊前地方を中心に500点近い資料の図をまとめた『豊前・筑前其他出土考古品図譜(ぶぜんちくぜんそのたしゅつどこうこひんずふ)』など、資料集成(しゅうせい)図録も作成されました。

 明治時代の終わりから大正時代に郷土史研究が盛んになるなか、考古学の対象として遺跡・遺物が本格的に研究されるようになるのは中山平次郎(なかやまへいじろう)の活動からです。遺跡踏査(とうさ)と採集遺物の丹念な考証を重ね、九州帝国大学の医学部教授でありながら、大正から昭和時代初期の九州の考古学をけん引しました。彼が考察した今山(いまやま)産玄武岩(げんぶがん)の石斧(せきふ)生産、鴻臚館(こうろかん)、元寇防塁(げんこうぼうるい)など、多くの業績が現在の研究や発掘調査の基礎になっています。須玖岡本(すぐおかもと)遺跡(春日市)では、明治時代に出土して散逸していた鏡の破片を足繁く遺跡に通って収集し、30面以上の漢鏡が副葬された奴国(なこく)の王墓があったことを明らかにしました。

都市化の波と遺跡の危機
平和台(鴻臚館跡)出土の硯「小蒋」
平和台(鴻臚館跡)出土の硯「小蒋」

 福岡市における考古学的な発掘調査は大正2年(1913)の元寇防塁(今津(いまづ)地区)が最初になります。福岡日日新聞主催で地元後援会を中心に調査が行われました。中山平次郎は現地で講演会などをおこない、「元寇防塁」の命名は現在に受け継がれています。このときの発掘方法への批判があったためか、以後の中山の活動は前述のような発掘調査によらないスタイルを徹底します。

人面が表現された銅戈(部分)
人面が表現された銅戈(部分)

 昭和13年(1938)には区画整理によって遺跡の破壊が進んでいた比恵(ひえ)遺跡群(博多区)で、九州考古学会の中心的メンバーであった鏡山猛(かがみやまたけし)と森貞次郎(もりていじろう)らが発掘調査をおこないました。弥生時代集落の画期的な調査成果をあげますが、都市化にともなう遺跡破壊を食い止めることはできませんでした。

相島沖(新宮町)で引き揚げられた平瓦「警固」
相島沖(新宮町)で引き揚げられた平瓦「警固」

 戦後も大学や中学・高校、在野の研究者らを中心に発掘調査がおこなわれましたが、大規模な開発が増え、調査できないままに消滅していく遺跡も少なくありませんでした。福岡市に居住した高野孤鹿(たかのころく)は中山平次郎に師事した在野の研究者ですが、昭和20~40年代の福岡で各地の遺跡を踏査して資料収集をおこないました。福岡城のある平和台に鴻臚館の遺跡が存在することを中山平次郎が大正時代から提唱していましたが、戦後、球場建設などで遺跡破壊が進みます。遺跡の危機に対して高野は遺物収集と記録に努め、瓦のほか中国陶磁器(ちゅうごくとうじき)や中国商人が使用した硯(すずり)など、古代の外交・貿易施設としての遺跡の性格を明らかにする資料を発見しました。これがその後の遺跡保護や調査研究につながります。この他にも斜ヶ浦瓦窯址(ななめがうらがようし)(西区)や愛宕山(あたごやま)(西区)の瓦経(がきょう)など、市内の重要な遺跡・遺物を明らかにしました。

兜塚出土の経筒
兜塚出土の経筒

 当館では他にも、福岡の文化財保護行政が確立する以前に発見された遺物を多く収蔵しています。縄文時代の貝塚(かいづか)資料、弥生時代の青銅器、古墳時代の祭祀具(さいしぐ)である子持勾玉(こもちまがたま)、平安時代の経塚(きょうづか)資料、博多湾周辺の海から引き揚げられた遺物など、近年の発掘調査成果とも合わせて福岡の歴史を語るうえで欠かせない資料が少なくありません。博物館はそれらを守り伝える役割を担っています。
(森本幹彦)

主な展示資料 (時代/出土遺跡・作者等)

 青柳種信関係資料(山崎文書 江戸時代)のうち
  筑前国怡土郡三雲村所掘出古器圖考
  三雲出土銅剣・銅戈・銅矛・壁図
  三雲出土銅鏡拓本
  井原鑓溝出土銅鏡・巴形銅器図
  太宰府聖庿神宝銅鉾図
  志摩郡主船司古冢所出古鏡図
  遠賀郡下上津役村石鉾図
 豊前・筑前其他出土考古品図譜(明治時代)
 福岡博物展覧会出品目録(明治時代)
 鎮西博物館歴史参考之備品(明治時代)
 中山平次郎頭像(明治時代 小島与一)
 草稿「須玖岡本の遺物」(昭和時代 中山平次郎)
 草葉文鏡片(弥生時代中期 須玖岡本遺跡)
 瓢形壺(弥生時代中期 中山平次郎旧蔵)
 平和台考古資料寄付目録(昭和時代 高野孤鹿)
 石硯「小蒋」・越州窯青磁(平安時代 鴻臚館跡)
 石棺片(古墳時代前期 福岡城天守台)
 平瓦「警固」(平安時代 斜ヶ浦瓦窯址)
 瓦経(平安時代 愛宕山・飯盛山)
 深鉢(縄文時代後期 元岡瓜尾貝塚)
 磨製石斧・石鏃(縄文時代 能古島)
 副葬小壺(弥生時代前~中期 藤崎遺跡ほか)
 有柄式石剣(弥生時代前期 伝・福岡県田川市)
 銅戈(弥生時代中期 有田遺跡群)
 人面付銅戈(弥生時代中~後期 白塔ほか)
 銅戈(弥生時代後期 伝・福岡県築上郡)
 銅戈鋳型(弥生時代中期 八田)
 大型壺(弥生時代後期 博多駅)
 甕棺・鹿角装刀子(弥生時代終末 今宿遺跡)
 内行花文鏡(古墳時代前期 糸島市開古墳)
 子持勾玉・須恵器壺(古墳時代中~後期 梅林)
 海獣葡萄鏡(奈良時代 博多湾)
 平瓦「警固」・丸瓦(平安時代 新宮町相島沖)
 陶器甕(鎌倉~室町時代 博多湾)
 青銅製経筒(平安時代 兜塚)
 石製経筒(平安時代 西油山)
*全て福岡市博物館資料。会期中に展示替えをする場合があります。

福岡市博物館
〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
TEL:092-845-5011 FAX:092-845-5019

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