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企画展示

企画展示室4
戦争とわたしたちのくらし29

令和2年6月16日(火)~8月10日(月・祝)

はじめに
天井板で作った弁当箱
天井板で作った弁当箱

 昭和20年(1945)6月19日深夜から翌日未明にかけて、アメリカ軍の長距離爆撃機B -29の大編隊から投下された焼夷弾(しょういだん)により、福岡市の中心部は焼け野原になりました。特に、博多部は甚大な被害をうけました。福岡市は、この日を「福岡大空襲の日」としています。福岡市博物館でも、平成3年から6月19日前後に企画展示「戦争とわたしたちのくらし」を開催し、戦時期におけるひとびとのくらしのあり方を、さまざまな観点から紹介してきました。

 29回目となる今回は、衣食住とお金にまつわる戦時の生活事情を紹介します。衣料品や食料品、生活用品は戦争の影響で徐々に不足していきました。人びとにとって戦争の継続は大きな経済的負担を伴うものでした。また、戦局の変化で空襲への対応の重要性が増し、住まいや服装も変化が起こっていきました。

 戦時期の人びとの身の回りのものにふれることが、戦争と平和について考える機会になれば幸いです。

装いの変化

 昭和12年(1937)7月、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で日中両軍の武力衝突(盧溝橋事件)が発生しました。これをきっかけに日中戦争がはじまると、兵器、衣料品、食料など、大量の品物が必要とされ、物価が上昇していきます。その一方で、政府は国際貿易の収支を維持するため、貿易品の輸出・輸入を制限しました。これにより、衣料品の原料となる綿花や羊毛の不足が問題となりました。政府は原料不足に対応するため、翌年から軍事に使用するもの以外の綿製品や毛織物製品に人造繊維(ステープル・ファイバー、略してスフ)を混ぜることを決定しました。

袖なし半纏
袖なし半纏

 昭和15年、戦時下にふさわしい衣服として男性用の国民服が選定されます。国民服は背広、ワイシャツ、ネクタイなどからなる男性の正装よりも少ない布地で作製されており、仕事の他、冠婚葬祭にも着用できるものとされました。昭和17年には、厚生省が女性用標準服を提案しました。このうちの「活動衣」に指定されたのが、和服を仕立て直して作製するもんぺです。
 衣料品の不足は、戦争の長期化とともに深刻化します。太平洋戦争開戦後の昭和17年には、衣料品の購入には代金とともに切符が必要となりました。国民服やもんぺは、当初は着用者が多くありませんでしたが、衣料品が不足し空襲に備えた動き安い服装が求められた戦争末期には着用者が多くなっていきました。

食のあれこれ

 戦争を継続するため、食料も軍事関係に優先的に配分されました。人びとのくらしの中で食料が不足するようになり、さまざまな食料の価格が上がっていきます。政府は、これに対応して、昭和14年(1939)9月に食品を含めた物品の価格、各種サービスの料金などの最高金額を設定し、それ以上の金額上昇を禁止することを発表しました。翌月には価格等統制令が公布・施行され、法的に物価の維持が目指されました。たとえば、昭和17年に福岡市食料品小売商業組合が発行した『福岡県食料品卸小売最高販売価格表』によれば、薄力粉は1キログラムあたり32銭とされています。

米の供出をよびかけるポスター
米の供出をよびかけるポスター

 生活に必要な米は、昭和15年から配給制となりました。配給制は、一日あたりに必要な量が設定され、その分量だけを購入できる制度です。また、昭和15年には砂糖、17年には味噌、しょうゆといった調味料が切符制になりました。この他、食料品で切符あるいは配給の形で提供された食料品は、酒、食肉、食料油、塩、菓子、パン、鶏卵、小麦粉、乾麺などでした。昭和19年には野菜・果物や魚介類も統制の対象となっており、食料事情が悪化していたことがうかがえます。人びとは、不足する食料を、公定価格以上で取引しているヤミ市などで補っていました。

空襲と住まい

 住宅と生活用品は、平時から戦時へ移行する中で大きく変化しました。

 ひとつは、空襲への対応による変化です。昭和時代のはじめから空からの攻撃に備え、防空演習が行われましたが、防空対策には家庭で行うべきものもありました。家から灯りが漏れることを防ぐため、窓を覆う黒布や内部に塗料を塗って光を下方向のみに制限した電球、電球の上からかぶせるカバーが使用されました。また、焼夷弾等が投下された際に速やかに消火作業に移ることができるよう天井板が外されたり、隣家へ火が移らないように建物自体を計画的に間引くことが行われたりしました。

陶製ポンプ
陶製ポンプ

もうひとつは、軍需産業に必要な金属類の民間からの回収の影響です。昭和13年(1938)頃から自主的に金属類の供出を行う動きがありました。16年には金属類回収令が制定され、法的に金属資源の回収が行われました。回収されたのは、鉄、銅、黄銅などの銅合金で、のちにアルミニウムも追加されました。家庭から金属製の鍋や釜が回収された他、寺院の梵鐘、公園の銅像なども回収されました。回収された金属の代わりに、陶器や硬質ガラス、木材などの素材を用いたさまざまな代用品が登場します。釜や、アイロン、湯たんぽ、ポンプなどが陶器で作られました。

戦時のお金事情

 戦争の継続に必要な費用は、主に税金と国債によってまかなわれていました。内閣情報局によれば、昭和16年(1941)度における臨時軍事予算総額は223億3500万円で、その財源は税金その他が28億7500万円、国債収入が194億6000万円とされており、戦費における国債の比重が大きかったことがわかります。国債の購入は国民の責務であるとして、昭和13年頃から自主的な貯蓄が奨励されていましたが、昭和16年には国民貯蓄組合法が制定され、貯蓄は義務化されました。戦争末期には、国民の所得総額の75パーセントが税金と国民貯蓄に使用され、生活に使用できるのは残り25パーセントと試算するものもありました。

日本銀行券(5銭)
日本銀行券(5銭)

 戦争の影響は、お金そのものにもあらわれました。兵器に利用可能な金属が回収されるようになり、昭和13年から少額政府貨幣の10銭、5銭通貨の材料がニッケルから銅合金に変更されました。さらに、銅も回収されるようなった昭和15年にはアルミニウムに変わります。昭和19年にはアルミニウムも航空機の材料として必要性が増し、錫(すず)が使用されるようになりました。また、日本銀行券として、10銭・5銭紙幣が発行されました。これらの少額貨幣・紙幣は、戦後の物価の高騰から使われなくなりました。(野島義敬)

【主な展示資料】
装いの変化

・もんぺ 昭和時代 製作者不明
・袖無し半纏 昭和時代 製作者不明
・国民服儀礼章 昭和時代 製作者不明
・衣料切符 昭和18年 商工省/発行

食のあれこれ

・ポスター「節米一割」 昭和12~15年 国民精神総動員中央連盟/作成
・一升徳利 近代 中村醸造場/製作
・福岡県食料品卸小売最高販売価格表 昭和17年 福岡市食料品小売商業組合/発行

空襲と住まい

・潤製歯磨 昭和17年 小林商店/製造
・防空図解 第1輯第11図 昭和10年代前半 小林又七本店/発行
・灯火管制用電球 昭和時代 製造者不明 
・天井板で作った弁当箱 昭和20年 製作者不明
・陶製ポンプ 近代 元祖窯元長沼式

戦時のお金事情

・家庭用砂糖購入券 昭和時代 発行者不明
・ポスター「大東亜戦争国債」 昭和10年代 大蔵省/発行
・戦時報国債券 昭和17年 日本勧業銀行/発行
・1銭硬貨 昭和13~19年 大日本帝国/発行
・日本銀行券(5銭) 昭和19年 日本銀行/発行

《参考文献》

情報局編『国民貯蓄組合法解説』(内閣印刷局、1941年)、高橋亀吉『経済学の基礎知識』下巻(千倉書房、1944年)、『福岡市史』第3巻昭和前編(上)(福岡市役所、1965年)、下川耿史・家庭総合研究会編『昭和・平成家庭史年表』(河出書房新社、1997年)、井上雅人『洋服と日本人』(廣済堂出版、2001年)

福岡市博物館
〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
TEL:092-845-5011 FAX:092-845-5019

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