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企画展示

企画展示室1
戦争とわたしたちのくらし31

令和4年6月14日(火)~8月21日(日)

はじめに
『家の光』第18巻第12号
『家の光』第18巻第12号

 昭和20年(1945)6月19日深夜から翌日未明にかけて、アメリカ軍の長距離爆撃機B―29の大編隊から投下された焼夷弾(しょういだん)により、福岡市の中心部は焼け野原になりました。特に、博多部は甚大な被害をうけました。福岡市は、この日を「福岡大空襲」の日として戦災死者の追悼を行っています。福岡市博物館では、平成3年から6月19日前後に企画展示「戦争とわたしたちのくらし」を開催し、戦時期の人びとのくらしのあり方を、さまざまな観点から紹介してきました。

 31回目となる今回は前線と銃後をつなぐ郵便物である軍事郵便を紹介します。戦地と銃後の間で送受信する郵便物は、通常の郵便物と区別して軍事郵便と呼ばれます。直接戦闘に参加しない銃後の国民は慰問品や慰問文を送ることで前線兵士を支え、兵士は自身の状況を伝え家族の近況を知るために手紙を送りました。

 戦争の時代に兵士と銃後の国民の間で交わされた郵便物にふれることで、戦争と平和を考える機会になれば幸いです。

軍事郵便の誕生

 戦争などで国外に派遣された兵士にとって、国内、特に家族と連絡が取れることは安心して任務に従事する上で重要でした。日本では、日清戦争に先立つ明治27年(1894)6月に「戦時若クハ事変ニ際シ海外ニ派遣スル軍隊、軍艦、軍衙其ノ他軍人軍属ヨリ発スル郵便物」を「軍事郵便物」として郵便税を免除することが定められました(勅令第67号)。私用の郵便物は、将校などは1か月に3通、准士官と下士兵は1通などと制限されました。

 日露戦争直前の明治37年(1904)2月には制度が改正され、戦争などで戦地または戦地に近い場所に駐在する軍人などに宛てた郵便物も軍事郵便として取り扱われるようになります(勅令第19号)。戦地から発信する郵便物の通数制限は廃止され、郵便物の取扱量は日清戦争期に比べて急激に増加しました。小包郵便物の取扱いも始まり、戦地への慰問品の送付も可能になりました。

軍事郵便のパンフレット
軍事郵便のパンフレット

 軍事郵便には、普通の郵便と異なる点がありました。まず、軍事郵便は宛名面に「軍事郵便」と書きます。日露戦争期には「軍事郵便」の文字を印刷した官製はがきが発行され、需要の増加に対応して、私製のはがきも多く登場しました。また、軍事郵便には、検閲を行うなど情報の漏洩を防ぐ工夫が施されました。

前線兵士の慰問

 銃後の人びとには、軍事郵便を通じて前線の兵士を労い、励ますことが期待されました。

 太平洋戦争期の昭和17年12月に発行された雑誌『家の光』の表紙には、女性が前線兵士に送る慰問袋を作る様子が描かれました。慰問袋に入れられた慰問品は、手拭い・カミソリ・歯磨きなどの日用品や、缶詰などの腐敗しにくい食料品、菓子・煙草といった嗜好品でした。慰問袋は主として白色の木綿の袋を使用しましたが、ダンボール製の慰問箱もありました。さまざまな品物を詰め合わせた慰問袋や慰問箱は、戦争の長期化による物資の不足が深刻化するまでは、デパートなどで購入することができました。

読売ニュース焼付版 第845号(昭和17年)
読売ニュース焼付版 第845号(昭和17年)

 前線兵士はどのような慰問品を求めていたのでしょうか。昭和18年に発行された大日本婦人会の機関誌『日本婦人』には、陸軍恤兵部(じゅっぺいぶ)の軍人が書いた「慰問袋への希望」という文章が掲載されました。この文章では、「第一線の兵隊が何より望むものは、銃後の温(あたたか)い心」、具体的には「懐(なつか)しい言葉で書かれた慰問の便り」であると説明します。戦時期の雑誌には、慰問文の書き方や送り方など、慰問文に関する記事も多く掲載されました。国民学校初等科(現在の小学校)低学年向けの教科書にも慰問袋に入れる慰問文が紹介されています。

家族に宛てた手紙

 多くの人びとが動員された日中戦争・太平洋戦争期は大量の軍事郵便が往来しましたが、制度上は軍事郵便でないものの、内容面では軍事郵便と呼べるものも数多く存在します。それは、訓練、海外派遣のための待機、後方の陸軍病院、海軍施設で軍務に従事するなど、国内にいた兵士から家族に宛てられた手紙です。本展示では、これらの手紙も広い意味での「軍事郵便」として紹介します。

軍事郵便(昭和16〜17年)
軍事郵便(昭和16〜17年)

 昭和13年(1938)に中国大陸に派遣された兵士は、派遣の日時を妻に知らせる手紙とは別に、妻と子どもへ遺書を送りました。中国大陸からの手紙は軍事郵便となり、目的地が伏せ字にされています。手紙には、妻の健康と子どもの成長を気遣う言葉が綴られました。この兵士は、前線で病にかかり国内の陸軍病院に移送されました。入院を知らせる手紙には、妻に心配をかけることと、「銃後の皆様方にわかったらきまりがわるく申訳がない」気持ちから、手紙を送ることを苦悩したと書かれています。前線兵士が手紙を書く時、その視線は家族だけでなく、銃後の国民にも向けられました。

 昭和15年に召集された兵士の訓練中の手紙には、訓練場として「平尾の射撃場」や日出生台演習場(大分県)が登場します。演習場から妻に送った手紙では、福岡の空が恋しいことや自身が元気であることを伝え、妻の体調を尋ねています。この後、南方に派遣されてから妻に宛てた軍事郵便には、足を負傷したが心配ないという自分の近況報告と、家族の安否確認が記されました。兵士の手紙は、自身の状況を家族に伝え、家族の健康を案じるものでした。

戦争末期・戦後に書き残されたモノ

 昭和18年(1943)以降、戦局は悪化し、物資・人員の不足が深刻化します。同年10月には、従来在学中は徴兵が免除されていた高等教育機関の学生のうち、理工系と教員養成系を除く文化系の学生が徴兵されるようになりました(学徒出陣)。徴兵された学生が友人に残した詩には、兵士になることへの決意が述べられています。

徴兵された学生の詩
徴兵された学生の詩

 軍港の警備や新兵の教育を行う佐世保海兵団に勤務した男性が家族に送った手紙は、制度上は軍事郵便ではありませんが、部隊による検閲が行われたことを示す検閲印が捺されています。昭和20年の手紙は、家族の体調を気遣う言葉とともに、戦局が非常に差し迫った状態にあることが繰り返し書かれ、銃後も前線も一致して戦争に取り組む必要があると記されました。同年8月14日、日本政府は連合国軍によるポツダム宣言を受諾することを決定し、翌日にラジオ放送で国民に知らせました。9月2日には降伏文書への調印が行われ終戦を迎えました。

 終戦後、国外にいた人びとは日本本土に順次帰還しました。ただ、戦争末期にソ連軍の捕虜となった人びとは、ソ連領内に連行され長期間止められました。これを抑留といいます。抑留者は、専用のはがきを使用して日本の家族、親族に連絡を取りました。抑留者の帰還は、昭和22年から31年までの長期間にわたりました。人びとのくらしが平常に戻るまでには多くの時間が必要でした。(野島義敬)

【主な展示資料】(名称・年代・作者など)
「軍事郵便」の誕生
  • 郵便ポスト 近代 作成者不明
  • 散「軍事郵便、愛国切手及葉書について」 昭和13年 熊本逓信局/作成
  • 散「軍事郵便周知週間」 昭和14年 八幡郵便局・八幡市応召軍人後援課/作成
前線兵士の慰問
  • 『家の光』第18巻第12 号 昭和17年 産業組合中央会/発行
  • 慰問袋 昭和戦中期 作成者不明
  • 慰問箱「兵隊さん有難う」 昭和戦中期 福岡松屋百貨店/取扱
  • 『日本婦人』第1巻第4号 昭和18年 大日本婦人会/発行
家族にあてた手紙
  • 書簡(戦地出立の問合せ)  昭和13年 故里の妻より御主人様あて
  • 書簡(遺書)  昭和13年 片山覚より世界に二人となき愛しき妻あて
  • 書簡(第三信)  昭和15年 松村栄一より松村よし子あて
  • アルバム(氷菓)  昭和16〜17年 安西義忠/筆
戦争末期・戦後に書き残されたモノ
  • 記「此の御世に」 昭和20年 春夫/筆
  • 手形「忠」 昭和20年 海軍中尉西久保/作成
  • 俘虜用郵便葉書 昭和20年代 松村重隆/差出

《参考文献》逓信省編『逓信事業史』第2巻(逓信協会、1944年)、大江志乃夫『兵士たちの日露戦争 五〇〇通の軍事郵便から』(朝日新聞社、1988年)、新井勝紘「軍事郵便の基礎的研究(序)」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第126集、2006年)、『戦後75年・手紙が語る戦争の記憶 戦争と郵便』(切手の博物館、2020年)

福岡市博物館
〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
TEL:092-845-5011 FAX:092-845-5019

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