• ホーム
  • はかた伝統工芸館連携企画 手仕事の美と技2-曲物-

企画展示

企画展示室4
はかた伝統工芸館連携企画 手仕事の美と技2-曲物-

令和4年6月14日(火)~8月15日(月)

ポッポ膳
ポッポ膳

 ほのかな木の香り、よどみなく流れる木目、艶やかな木肌、そして美しい曲線。木を削り、板を曲げ、その合わせ目を桜の皮で綴(と)じて作る曲物(まげもの)。木という素材と手仕事から生まれる品々は人びとのくらしと長い歴史を重ねてきました。

 本市では、東区馬出(まいだし)で製作される「博多曲物」が有名で、かつては「筥崎曲物」や「馬出曲物」の愛称で親しまれていました。その製品は神前に供える祭具から、茶道具や飯櫃(めしびつ)、寿司桶などの生活用具まで多岐に渡ります。現在、「博多曲物玉樹(現・志免町)」と「柴田徳商店」の2軒が博多曲物の伝統を継ぎ、生産を続けています。

 本企画展では、博多曲物を中心にその歴史や、製作用具や工程などを広く紹介します。

● 木と曲物

 日本の森林面積は約2500万ヘクタールで、なんと国土の約3分の2を占めています。古くから人びとは自然と共存し、多様な樹種を識別して加工し、生活に取り入れてきました。『日本書紀』の「神代の巻」には素戔嗚尊(すさのお)の鬚(ひげ)を抜いて投げれば杉となり、胸毛は檜(ひのき)、尻の毛は槇(まき)、眉毛は楠(くすのき)になったという説話が記され、さらに杉は舟材、檜は宮材に使用していたことがわかる記述もあります。

博多遺跡群出土 曲物 (福岡市埋蔵文化財センター所蔵)
博多遺跡群出土 曲物
(福岡市埋蔵文化財センター所蔵)

 様々な木製品の中でも、曲物の歴史は古く、中国では漢の時代の出土例が見られます。日本では、鹿部山(ししぶやま)遺跡(古賀市)から弥生時代に属すると思われる曲物が出土しています。

 また、平安時代に描かれた『信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)』をはじめ、様々な絵巻物に曲物が描かれるとともに、全国各地の古代・中世の遺跡から出土例が見られます。本市でも、博多遺跡群をはじめ、比恵・那珂遺跡群、高畑遺跡(いずれも博多区)などから古代・中世の曲物が多数出土しています。

 曲物は、古くから曲物職人の檜物師(ひものし)によって数多く作られ、人びとの生活に欠かせない用具であったと考えられます。

● 博多曲物と筥崎宮

 博多曲物は節(ふし)の無い柾目(まさめ)の杉や檜の板材を漆(うるし)などで塗装せず、素木(しらき)のまま作られます。真っ直ぐに通った木目の美しさが特徴の一つです。

 その起源は定かではありませんが、江戸時代の儒学者・貝原益軒が記した『筑前国続風土記』には、「檜物師福岡博多に多し。ことに那珂郡馬出の町には、家々に捲(まげもの)を作る。皆羅漢松材(まき)を用ゆ。」と記されています。

 馬出で曲物が盛んに作られるようになったのは同地が筥崎宮の社領で、そこに住む檜物師が筥崎宮の神人(じにん)であったことに深く関係しています。

 東区箱崎に流れる宇美川の河畔に建てられた曲物組合の記念碑(大正10年)には、当時の組合員の氏名が列挙されています。彼らは筥崎宮に祭具を納めるだけではなく、柴田姓は筥崎宮の御神幸の際に使われる神輿(しんよ)の錺(かざ)り職、西田・東郷姓は御灯(ごとう)職、大神姓は祝(はふり)職、小山・狩野姓は屋根葺(ぶ)きを担っていました。

 屋根葺き職人と檜物師は、薄板を作る技術とその素材に共通しています。江戸時代の国学者・青柳種信が記した『筑前国続風土記拾遺』には、馬出の「町中に桧物師并家上板を製る工人多し。筥崎八幡宮の敷地なり。」という記述から、筥崎宮に仕える屋根葺き職人と檜物師が多く住み、中には両方を兼業する職人もいたと思われます。筥崎宮と薄板を扱う職人の密接な関係性が、馬出で曲物が盛んに作られるようになった要因の一つと考えられます。

● 近代以降の博多曲物

 明治12(1879)年に刊行された『福岡県物産誌』を見ると、当時の博多曲物の様相が見えてきます。例えば、「杉桧ノ板材木自国ニ少キ故隠岐因幡能登対馬等ノ諸国ヨリ輸入」しており、北陸や山陰地方、対馬などから材木を仕入れ、加工した製品は「九州地方ニテ筑後肥前平戸唐津長崎壱岐対馬等」、九州各地に輸出されていたことが分かります。

 また、明治5〜8年にかけて編纂された『福岡県地理全誌』には馬出の特産品として、砂糖曲(がが)(砂糖入れ) 、飯入(飯櫃)、菓子箱、柄杓、糀(こうじ)入れ、折敷(おしき)、三方(さんぽう)が挙げられ、当時の主力だった製品構成がうかがえます。

 この製品構成を変えたのが、日本が近代化を遂げるために始めた鉄道の敷設(ふせつ)でした。明治21(1888)年に九州鉄道会社が認可され、鉄道網が延びた結果、長距離の旅客のための駅弁用の折箱の需要が次第に伸びていきました。昭和10(1935)年刊行の 『箱崎商工録』に掲載された「無限責任馬出曲物信用販売購買利用組合」の広告には製造販売品に「鉄道省指定弁当折箱」や「各種料理用折箱」とあり、折箱の需要が高かったことがうかがえます。鉄道の発達が博多曲物にとって一つの転機となりました。

 しかし、さらに時代が下るにつれ、アルミやプラスチックなどの安価な容器や電化製品等が普及すると、曲物の需要が激減します。明治初期に約40軒、昭和初期に約20軒あった曲物店が次々と業態の変更や閉店を余儀なくされました。

 馬出の街並みから曲物店が消える中、昭和50年代になると伝統工芸品として注目されます。それは昭和29(1954)年に民芸研究家の柳宗悦(やなぎむねよし)が小鹿田(おんた)(大分県日田市)と小石原(こいしわら)(朝倉郡東峰村)の窯元を訪れていたイギリスの陶芸家バーナード・リーチとともに、馬出の柴田玉樹商店を訪れたことに端を発しています。柳は博多曲物を、「ごく手堅い職人気質の残る仕事で、その出来栄には見事なものがあります。」と評しています。

 また、昭和51(1976)年に、柴田徳商店の徳五郎氏が樅(もみ)で作った「曲物盆」がGマーク商品(通産省グッドデザイン選定商品)に選ばれたことも、工芸品としての地位の確立につながりました。

 その後、昭和54(1979)年に福岡県知事指定特産民工芸品に指定され、昭和56(1981)年に福岡市無形文化財に指定されたと同時に、大神章助氏・柴田玉樹氏・柴田徳五郎氏の3人が技術保持者として認定されました。

 現在、玉樹氏の娘・真理子氏が、徳五郎氏の娘・淑子氏がそれぞれ家業を継ぎ、その伝統を守り続けています。

● 道具と製作工程
三本ロール 曲げ付け機 (柴田徳商店所蔵)
三本ロール 曲げ付け機
(柴田徳商店所蔵)

 曲物の製作は材木の選定と製材から始まります。まず、木目の流れを見て、長さや幅を確認して板を選びます。板の両面を粗削りし、表面を0.1ミリずつ調整しながら削ります。その後、マチ(板を曲げた時に両端の重なる部分)を作ります。重ね合わせた時、全体と同じ厚さになるようにマチの表面を削ります。

 次に釜で湯を沸かし、沸騰してきたら仕上げた薄板を入れて煮ます。この工程は、薄板を柔らかくするとともに、灰汁(あく)を抜くために行われます。薄板が柔らかくなったら、素早く引き上げ、円筒形の巻木(まきぎ)に巻き付けて曲げます。柴田徳商店では、昭和10(1935)年に4代目・徳三郎氏が考案して特許を得た、「三本ロール」という曲げ付け機を使って薄板を曲げます。その後、マチを重ね合わせて木挟(きばさみ)ではさみ、留具(とめぐ)で仮止めし、4〜5日ほど室内で自然乾燥させます。

 乾燥後、マチに糊を塗り、乾いたら縫錐(ぬいぎり)で孔(あな)をあけ、桜の皮で綴じ合わせます。最後に底板をはめ、仕上げに磨きをかけて完成です。

● 曲物のあるくらし

 曲物は用途の幅が広く、ハレ(非日常)とケ(日常)を問わず、様々なくらしの場面で使われてきました。博多曲物の中で特徴的な製品をいくつか紹介します。

 筥崎宮では、「丸三方」と呼ばれる浅い盆形の曲物に円筒形の曲物台をつけた特殊祭具が使われ、放生会(ほうじょうや)の神事では丸三方にオゴクゴと呼ばれる熟饌(じゅくせん)(高盛飯)を供えます。

 他にも、10月9日に能古島の白髭(しらひげ)神社で行われる例祭「おくんち」でも、曲物が使われます。竹串に刺した柿・栗・蜜柑をそれぞれ曲物の桶に隙間なく盛り付けたモリモン(盛物)と呼ばれる大型の神饌を供えることです。

カナハチ(柴田玉樹所蔵)
カナハチ(柴田玉樹所蔵)

 日常の用具には、炊いた飯を移し入れる飯櫃があります。中でも、カナハチ(矩八)は側板を二重にすると同時に、内胴と外胴の間の上下に中輪を入れ、内部が空洞になっているのが特徴的です。そのため、他の飯櫃に比べて通気性と保温性が極めて高くなっています。

 その他に、主に寿司桶として使われるユリがあります。これは百合(ひゃくごう)分の米が入ることからユリ(百合(ゆり))と呼ばれています。寿司桶以外に、麹(こうじ)を作るモロブタ(室蓋)の機能も果たしたり、馬出の荒神(こうじん)様(火の神)を祀(まつ)る家では、5月に荒神祭と称して菱餅などの供物をユリに入れて供えていました。(石井和帆)

《謝辞》企画展開催にあたり、「博多曲物玉樹」の柴田玉樹(真理子)氏、「柴田徳商店」の柴田淑子氏および従業員の皆様には、調査や資料の御出品など多大な御協力を賜りました。厚く御礼申し上げます。

福岡市博物館
〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
TEL:092-845-5011 FAX:092-845-5019

PAGETOP