企画展示

企画展示室1
古代のお寺

令和5年1月17日(火)~3月12日(日)

はじめに
土器に書かれた「寺」(高畑遺跡)
土器に書かれた「寺」(高畑遺跡)

 「古ありて今なき寺也」。江戸時代前期の福岡の地誌『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』の「廃寺」の項目冒頭にある言葉です。日本には6世紀に百済(くだら)から仏教が伝来し、筑前国では奈良時代、国分寺や観世音寺(かんぜおんじ)などの寺が国家主導で建立されています。一方で冒頭にあげたように、今に残らなかった寺は、わずかな手がかりから考えても多くあるとみられます。奈良時代頃に造られ廃寺となった古代の寺は、地域でどのような存在であったのでしょうか。大陸につながる港、博多湾を擁する福岡市域の場合を探ってみます。

寺を建てる―出土する瓦(かわら)と「寺」の文字
図1 6世紀末~7世紀の軒丸瓦(神ノ前系)(那珂遺跡群のうち那珂遺跡5次)
図1 6世紀末~7世紀の軒丸瓦(神ノ前系)(那珂遺跡群のうち那珂遺跡5次)

 那珂(なか)遺跡群(博多区)では、飛鳥(あすか)時代に造られた九州最古の瓦が出土しています(図1)。この時期の一般的な建物は竪穴建物や掘立柱建物で、礎石や基壇(きだん)の上に柱を据えて屋根に瓦を葺(ふ)く建物は、寺院や、中央政府が掌握し管理をするような施設に限られました。同遺跡群には大宰府(だざいふ)の前身として、大陸に対する外交・軍事上の拠点があったと考えられます。この瓦が出土した場所には7世紀初頭の住居や井戸、大型倉庫などがありました。時期は下りますが、近くで「寺」と書かれた土器も見つかっており(図2)、早くに立派な建物が建てられた同遺跡群に関連して付近に寺があったのではないかと考えられます。

図2 那珂遺跡群土器片(上)「寺」?(那珂深ヲサ遺跡)(下)「中寺」(那珂遺跡8次)
図2 那珂遺跡群土器片(上)「寺」?(那珂深ヲサ遺跡)(下)「中寺」(那珂遺跡8次)

 『日本書紀(にほんしょき)』天武天皇14(685)年3月27日条には「諸国の家毎(ごと)に仏舎を作り、乃(すなわ)ち仏像及び経を置き、以(もっ)て礼拝供養せよ」という詔(みことのり)が記されています。全国に寺院の建立を奨励したものです。実際に7世紀後半以降の寺院遺構の数は全国的に増加していきます。

図3 百済系単弁軒丸瓦(井尻B遺跡)
図3 百済系単弁軒丸瓦(井尻B遺跡)

 市内では井尻(いじり)B遺跡(南区)から、「寺」の刻書土器などとともに朝鮮半島や飛鳥の寺院の瓦に通じる「百済系単弁軒丸(たんべんのきまる)瓦」など、多量の瓦が出土しています(図3)。水城(みずき)や大野城(おおのじょう)が造営された7世紀後半、律令国家が形成されていく時期の瓦葺寺院があったと考えられています。

寺という空間で行われたこと

 奈良時代の前半、霊亀(れいき)2(716)年には「諸国の寺家、多く法の如くならず」として、僧尼(そうに)が住まず荒廃した寺が各地に多くある現状を挙げ、管理されていない寺を併合するよう詔が出されています(『続日本紀(しょくにほんぎ)』同年5月15日条)。奈良時代中頃の天平(てんぴょう)13(741)年には、聖武天皇によって諸国に国分寺建立の詔が出され、ここでも好(よ)い処(ところ)を選び、潔清(けっせい)に尽くすようにとされています。寺は清浄な空間であることが大事であったようです。そこでは、仏教の教えによって国家の災いを鎮めるため、金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)などの写経・読経が行われました。

図4 佐波理製の匙・箸(三宅廃寺)
図4 佐波理製の匙・箸(三宅廃寺))

 三宅(みやけ)廃寺(南区)の創建時期と考えられる8世紀の前半は、九州における貞和5(838)年の凶作・疫病に苦しんだ時期でもありました。なかでも天平9年に起きた天然痘の大流行時には、九州の多くの人が亡くなったと記録に残っています(『続日本紀』同年4月19日条)。三宅廃寺においても、これらに対しての祈祷が行われたことでしょう。発掘調査によって、仏事に使用される佐波理(さはり)製の匙(さじ)や箸が出土し(図4)、また8世紀中頃には建物を補修したことも推定されており、そこからは三宅廃寺が本格的な寺院であったことがうかがえます。

 一方、高畑(たかばたけ)遺跡(博多区)では「寺」や「浄人」といった寺院に関わる漢字が書かれた墨書土器とともに、まじないや祓(はらえ)に使用された人形(ひとがた)や、馬が描かれた絵馬が見つかっています。『日本書紀』や『続日本紀』といった国史には、凶事に対して読経と奉幣を行ったことが度々書かれるように、仏事・神事などの様々な儀礼は同じ目的のもとに行われることも多くありました。高畑遺跡の出土状況も当時の混在した祈りの様子を示しています。

 奈良時代の法律、養老律令(ようろうりつりょう)では、呪符(じゅふ)などを用いて行うまじないごとである「小道(しょうどう)」が僧尼の禁止行為のひとつに挙げられています。仏事や神事、また儒教や陰陽道的な儀礼は、区分されてはいましたが、実際に僧や神官がその領分を越えたことで処分されている記録もあり、寺院は併存する宗教儀式を担う場所にもなったようです。

図5 「寺」墨書土器(柏原M遺跡)
図5 「寺」墨書土器(柏原M遺跡)

 柏原(かしわら)M遺跡(南区)からは早良郡(さわらぐん)毗伊郷(ひいごう)の郷長の居館とみられる掘立柱建物が見つかっています。役人のベルト飾りの石帯(せきたい)や様々な形の器などとともに、「寺」と書かれた土器が見つかっており(図5)、郷長が関わっていたこの地域の寺院の存在がうかがえます。

寺の痕跡

 柏原M遺跡は「寺」の墨書土器が見つかっていますが、寺院跡とは考えられていません。ある遺跡を寺院跡だと推定するには、瓦が多量に出土すること、礎石や突き固められた基壇状の構造が確認できること、仏事にまつわるものや「寺」の文字が書かれた遺物が出てくることなどが挙げられます。これに周囲の遺跡や地形、古い時代の記録の内容を複合的に検討したうえで廃寺と判断します。

 市内にある廃寺のひとつ、三宅廃寺は発掘調査だけでなく、文献資料からも往時の姿を検討することができます。平安時代後期の11~12世紀、京都の醍醐寺(だいごじ)に関わる記録の中に、同寺の末社として「筑前国三宅寺」がみえます(『醍醐寺雑記』巻13ほか)。しかし、三宅廃寺自体存続したのは9世紀までだと発掘調査によってわかっています。寺が別の場所に建て替えられる事例はありますが、ここでの「三宅寺」は三宅廃寺の遺物とは直接の関係はなさそうです。

 9世紀以前の古代の記録では、延暦(えんりゃく)12(793)年8月22日に三宅連真継(みやけのむらじまつぐ)という人物が京で濫行(らんぎょう)を繰り返したために本籍地である筑前国那珂郡に送還された記事がみえます(『類聚国史(るいじゅうこくし)』巻87)。発掘資料と文献資料とをあわせて考えると、三宅廃寺の建立には奈良時代に那珂郡にいた三宅氏が関わっていたと考えることができそうです。

 また、江戸時代後期の地誌『筑前国続風土記拾遺』(那珂郡)では三宅村の項に「屯倉ノ址(みやけのあと)」として「礎石あまた残りしを近年皆取て神祠仏堂の用とし」たなどとあり、近年の発掘調査では確認されていない礎石建物の存在を示しています。「古瓦の破砕けたるもの田圃の中に乱散せり。其製は都府楼の旧址観世音寺などの古瓦にことなることなし」とし、編者であった国学者の青柳種信(あおやぎたねのぶ)は寺院ではなく役所跡だと考えていたようです。

 一方、高畑遺跡は、江戸時代に古代寺跡と言及されて以降、高畑廃寺と言われていました。近年になって、遺跡の性格が見直され、今では博多湾と大宰府をつなぐ官道沿いの駅家(うまや)のひとつ、久爾駅(くにえき)であった可能性が考えられています。

 冒頭にあげた『筑前国続風土記』の文はこう続きます。「此外にも廃寺多けれど、小にして表れざるは、ここに記さず」。いま私たちが生活している身近な場所には記録が途切れた古代の寺の痕跡がまだ眠っていることでしょう。(佐藤祐花)

展示資料
  • 筑前国続風土記/元禄16年/江戸時代後期写
  • 筑前国続風土記拾遺/19世紀/文久3年~慶應元年写
  • 金光明最勝王経(国指定重要文化財)/正応3年9月下旬※
  • 誕生仏立像(福岡市指定文化財)/奈良時代※
  • 日本書紀/養老4年/寛文9年版
  • 日本後紀/承和7年/明治16年
  • 令集解/9世紀/天保4年写
  • 「観世音寺」銘瓦/奈良時代
  • 軒丸瓦(大安寺)/奈良時代
  • 軒平瓦(老司式)/奈良時代

以上、※は寄託資料、ほか館蔵。順に名称/(原資料の成立年代/)作製年代を示す。

  • 那珂遺跡群22次/無文軒丸瓦(神ノ前系)/飛鳥時代
  • 那珂深ヲサ遺跡3次/須恵器坏墨書「中寺」/奈良時代
  • 那珂遺跡群8次/土師器坏刻書「寺」/奈良~平安時代
  • 井尻B遺跡17次/丸瓦刻書「豊評/山部評」/飛鳥時代
  • 井尻B遺跡3次/軒丸瓦(百済系単弁軒丸瓦)/飛鳥~奈良時代
  • 井尻B遺跡11次/須恵器皿墨書「寺/寺」/飛鳥~奈良時代
  • 三宅廃寺1次/須恵器蓋墨書「寺」・須恵器皿墨書「造寺」・須恵器高台付坏墨書・土師器鉢箆書「佛」・軒丸瓦(老司Ⅰ式)・軒平瓦(老司Ⅰ式)佐波理製匙・佐波理製箸/奈良時代
  • 三宅廃寺2次/須恵器坏墨書「寺」・須恵器蓋刻書「寺/寺」/奈良時代
  • 三宅廃寺5次/須恵器皿刻書「寺」・須恵器蓋墨書「寺/寺」/奈良時代
  • 高畑遺跡8次/土師器高台付坏墨書「寺」・土師器坏墨書「仁」・土師器坏墨書「豊」・土師器坏墨書・須恵器皿墨書「刀」・須恵器皿墨書「奴」・須恵器坏墨書「中村」須恵器坏墨書・木簡「荒権下」・木簡「石田」・木簡「金」・木簡/奈良~平安時代
  • 高畑遺跡17次/絵馬・木製人形/奈良~平安時代
  • 高畑遺跡20次/鬼面文鬼瓦片・無文塼・銅銭「神功開寶」・木製横櫛・下駄・曲物桶/奈良~平安時代
  • 柏原M遺跡11次/須恵器高台付坏墨書「寺」・須恵器皿墨書「浄」・須恵器皿墨書「左原補」・土師器坏墨書「寺」・土師器皿墨書「浄人」・土師器埦墨書「郷長」・土師器鉢刻書「東」・須恵器埦・須恵器脚付埦・土師器壺・石帯/奈良~平安時代
  • 吉武遺跡群9次/土師器坏墨書「寺」/平安時代
  • 鴻臚館跡(福岡城跡)50次/梵鐘鋳型片/平安時代

以上、福岡市埋蔵文化財センター蔵。順に出土遺跡名/名称/時代を示す。

福岡市博物館
〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
TEL:092-845-5011 FAX:092-845-5019

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