• ホーム
  • 小絵馬―祈りと願いの図像学

企画展示

企画展示室2
小絵馬―祈りと願いの図像学

令和5年5月23日(火)~ 7月17日(月・祝)

馬図絵馬
馬図絵馬

 絵馬は祈願または報謝のために寺社へ奉納する板絵のことで、吊懸形式の小絵馬と扁額形式の大絵馬の2つに分類できます。現代でも、受験合格や病気平癒などを祈願して奉納されています。

 このような絵馬による祈願は現世利益を求めて行われるもので、その時代を生きた人々の悩みや苦しみ、喜びなどといった願いが具体的な図像で表現されています。中には、日々の生活を脅かす病気や、自らの意思ではどうにもならない事柄など、切実な祈願も含まれます。

 本展では、当館所蔵の小絵馬コレクションから全国各地のバラエティに富んだものや、福岡周辺に奉納されたものなどを展示し、人々の多種多様な願いのかたちを紹介します。

●絵馬の起源
鶏図絵馬
鶏図絵馬

 絵馬の始まりは、生馬を神に献じた風習が次第に木馬、土馬、紙馬などで代用され、これらが絵に描いた馬に代わったという説が有力です。

 『日本書紀』の皇極天皇元年(642)7月乙亥条では、日照りがおこると「村々の祝部の所教の随いて、或いは牛馬を殺して、諸の社の神を祭る。」とあり、飛鳥時代には雨乞いのために馬を献じていたことが分かります。他にも、奈良時代になると度々、日食や日照りなどの災害への儀礼的対処のために神社へ生馬を奉納する様子が記録されています。

 同じく奈良時代、『続日本紀』の神護景雲3年(769)2月乙卯条に、「伊勢太神宮の使と為し、社毎に男神の服1具、女神の服1具。其太神宮及び月次の社には、之に加うるに馬形並に鞍を以てす」とあり、生馬の代わりに土や木で作った馬形を奉納する風習が存在したことが分かります。これは、馬が特別な動物であり、それを奉納することは寄進者の負担が大きかったことが理由に考えられます。

 さらに簡略化が進むと、今日の小絵馬と同様、板に馬の絵を描くようになります。難波宮遺跡(大阪市)から飛鳥時代の最古の板絵馬の出土例が見られ、福岡市域では高畑(たかばたけ)遺跡(博多区)から奈良時代頃の板絵馬が発掘されています。

●大衆化・多様化する小絵馬

 室町時代頃には馬以外の図柄が登場し始めます。この時代、仏教が民間信仰の要素を積極的に取り入れ、神仏習合思想が強化されたことなどから、神仏の区別なく絵馬を奉納して祈願する風習が生まれたと考えられます。

 その中で、絵馬に信仰の対象である仏やそれを象徴する図柄を描くなど、現世利益を求めて祈願内容を直接的・具体的に表現することが多くなりました。

 近世以降この傾向はますます強くなり、人々の願いや悩みが絵馬の図柄として表現されるようになりました。

●福岡周辺の小絵馬

 小絵馬には四角形、五角形、屋根型など様々な形態がありますが、福岡周辺では鳥居形の小絵馬が多く確認できます。

 過去の記録や残存が確認できる小絵馬の中から、福岡周辺に伝わる特徴的な小絵馬を紹介します。

おきあげ拝み図絵馬
おきあげ拝み図絵馬

◆拝み図 祈願する本人の礼拝姿を描いた拝み図は、馬図と並んで最もポピュラーな図柄です。中でも、一風変わったものとして、おきあげ(絵柄を布や綿で立体的に盛り上げた押絵)を使った小絵馬が確認できます。

 拝み図絵馬は、崇福寺(そうふくじ)(博多区千代)内の旭地蔵や吉塚地蔵(博多区吉塚)などに現在も奉納されています。

 さらに、寿福院(博多区冷泉町)やこぶれき地蔵(東区志賀島)などで、かつて奉納された小絵馬が残されています。

 また、寿福院の御本尊は子安観世音菩薩として安産や子育て祈願の信仰を集めていることから、堂内には風船を持った子どもの図柄の絵馬もみられます。

縁切り図絵馬
縁切り図絵馬

◆縁切り図 男女を背合わせにした小絵馬は縁切りを意味しています。奉納先で有名なのは別名・縁切地蔵と呼ばれる於古能(おこの)地蔵(早良区野芥(のけ))です。地蔵の石を削って飲み、同時に相手にも飲ませると、その悪縁を切れるといわれ、男女の縁だけでなく、あらゆる悪縁を切るとして各地から参拝者が訪れています。

 他にも、戦前まで長宮院(ちょうぐういん)(旧大名町)が縁切り図絵馬の奉納先として有名でした。祭神のお綱大明神(通称・お綱様)は福岡の代表的な怨霊伝説の主人公で、次のような話が残っています。

 寛永年間頃、2代目藩主・黒田忠之は江戸参勤からの帰途、大坂島之内の遊女であった采女(うねめ)を身請けし、福岡に連れ帰ったが、側近の浅野四郎左衛門に下げ渡しました。浅野の妻のお綱は2人の子どもと家来である善作とともに箱崎の下屋敷に追いやられました。その後、月日が経ち、お綱は2人の子どもを刺殺し、薙刀を小脇にして大名町の本宅へ暴れ込むも、夫は登城していて留守であり、邸にいた明石彦五郎という浪人に切り伏せられてしまいました。お綱は深手を負いながらも城内へ向かいましたが、城門までたどり着いて悶死してしまいます。

 福岡城の本丸から扇坂へ下るところにあったその門は、後に、お綱門と呼ばれ、柱木に触れると熱病に冒されると恐れられました。そして、お綱の霊は長宮院に男女の性愛を呪詛するお綱大明神として祀られました。長宮院は福岡大空襲で焼失し廃寺となりましたが、その後、お綱様は旧大名町の眞光院(現・糸島市二丈福井に移転)に祀られています。

戦前の荒木田稲荷神社
戦前の荒木田稲荷神社

◆山笠図 戦前まで福岡周辺では、博多祇園山笠を描いた小絵馬が多数奉納されていました。主な奉納先は水鏡天満宮(中央区天神)の境内の西北隅に鎮座している荒木田(あらきだ)稲荷神社(別名・山笠稲荷)でしたが、他にも福岡市域の様々な寺社に奉納されていたようです。

山笠絵馬郵便
山笠絵馬郵便

 博多の人々にとって「山笠をあげる」ことは最大無比の捧げものだったため、神様に対して祈願や感謝を表すために山笠の図柄が選ばれたと考えられます。

 ちなみに、松源寺(しょうげんじ)(博多区千代)の10代目住職・佐々木滋寛(じかん)は、この山笠図絵馬から着想を得て、昭和5年7月に「山笠絵馬郵便」を考案し、旧櫛田前町の絵馬師・吉村百耕(ひゃっこう)に図柄を描いてもらいました。そして、福岡の生活文化の紹介を兼ねて絵馬郵便を全国の郷土研究者に頒布する活動を展開しました。

腰下図絵馬
腰下図絵馬

◆腰下図 かつて住吉神社(博多区住吉)の参詣道にある少彦名(すくなひこな)神社や淡島(あわしま)神社(中央区黒門・博多区諸岡)には、婦人病平癒を祈願して下半身を描いた小絵馬が奉納されていました。

 医薬の神として知られる少彦名神(別名・淡島様)は淡嶋神社(和歌山市加太(かだ))を本社とし、江戸時代に淡島願人(がんにん)と称される下級の宗教家たちが神棚を背負いながら地方を遊行(ゆぎょう)したことから、その信仰が広まったとされています。

 同様に少彦名神を祭神とする長浜神社(大分市塩九升(しょくじょう)町)では、婦人病平癒を祈願して立雛図が奉納されました。

◆その他 飛来(ひらい)神社(博多区吉塚)では手足の病気平癒を祈願して木を象(かたど)った手形や足形を奉納する風習が現在でも残っています。

 かつて川端飢人地蔵尊(博多区中洲)や善導寺(博多区中呉服町)などの地蔵尊を祀る寺院には、母親が子どもに母乳を飲ませている図柄の乳飲ませ図も奉納されました。特に母乳が子育ての中心だった時代には、乳の出が子どもの健康や生命を左右したこともあり、乳が良く出るように祈願されました。

 かつては龍宮寺(博多区冷泉町)の三宝大荒神社や香椎宮(東区香椎)の境内の鶏石(けいせき)神社には、鶏が夜間に鳴かないことから子どもの夜泣き止めを願って鶏図が奉納されました。

 また、漁師や船頭が大漁や航海安全を祈願して奉納する船図があります。貴船神社(西区姪の浜)の社殿内には、古くに奉納された船図を確認できます。

(石井和帆)
福岡市博物館
〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
TEL:092-845-5011 FAX:092-845-5019

PAGETOP