企画展示
企画展示室4
「たくさん残っているもの」の民具学
平成29年1月24日(火)~平成29年4月9日(日)
はじめに

「酒屋の樽取り」
民具とは「日常生活の必要から製作・使用してきた伝承的な器具・造形物の総称」(『日本民俗大辞典』2000年)です。この言葉をはじめて提唱した渋沢敬三(しぶさわけいぞう)(1896-1963)は「我々同胞が日常生活の必要から技術的に作り出した身辺卑近の道具」と説明しています(「民具蒐集調査要目」1937年)。
ところが、民具というものを通して私たちの生活の文化・技術体系を明らかにしていこうとする民具学の方法を、宮本常一(みやもとつねいち)(1907-81)らが模索していた昭和40年代後半には、古い生活の痕跡を伝える民具は、産業の近代化や生活様式の変化にともない、暮らしの中から急速に姿を消しはじめていました。
昭和25(1950)年に施行された文化財保護法ではすでに、こうした民具を含む民俗資料(現在の民俗文化財)も文化財として保護の対象となっていました。ただし民俗資料は、もともと地域に根ざしたものであることから、その特色が保てるよう、できる限りそれぞれの地域で保存する必要がありました。その重要な拠点が、昭和40年代後半以降、多くの市町村につくられた歴史民俗資料館でした。民具学の方法の確立と、民俗資料の保存・活用とは、同時期にどちらも手探りの状態で進行していたことになります。
現在、各地の博物館・資料館で保存されている民具には、ちょうどこの頃、すなわち昭和40年代から50年代にかけて収集されたものが数多く含まれています。地域で使われてきたさまざまな資料を集め、比較することで、人々の生活の細部を見いだそうとしたのです。
民俗資料は、ほとんどが地域の人々から貰い受ける形で集められました。これは、その時の人々の暮らしにとりあえず必要なくなったものが集まるということを意味します。収集された資料には、明らかな偏りがありました。なぜかたくさん集まってしまうものがあったのです。
それでは博物館・資料館に「たくさん残っているもの」を通して、私たちの暮らしぶりの変化をたどってみましょう。
1 貧乏徳利〈びんぼうどっくり〉

あえて徳利の形を説明するなら、口がすぼみ胴が膨らんだ瓶(びん)の一種とでも言えばよいでしょうか。徳利は、代表的な酒器(しゅき)(お酒を飲むことに関わる道具)で、酒を温めるための燗(かん)徳利や、量り売り用に酒店から貸し出された貧乏徳利(通い徳利)などがありました。貧乏徳利は大型で、酒の銘柄や酒店の名前、ときには電話番号なども記されていますので、すぐに見分けがつきます。
貧乏徳利が使われていたのは、おおよそ明治の半ば頃から昭和の初めにかけての期間です。明治時代に多くの成人男性が軍隊生活を経験するようになると、そこで覚えた飲酒習慣が、しだいに日本の隅々へと広がっていきました。清酒の需要は増加し、規模を拡大した酒店は販売促進のサービスとしてこうした徳利をあつらえていったようです。
昭和になって貧乏徳利に取って代わったのはガラス製の一升瓶でした。大正時代に機械による大量生産がはじまると、多くの酒造場がこれを採用し、貧乏徳利を使った量り売りの商売は、すっかり少なくなってしまいました。多くの貧乏徳利が、使う人もなく放置されることになったのです。しかしそれらが後に収集され「たくさん残っているもの」となったおかげで、私たちは明治時代以降の酒の飲み方の大きな変化や、陶磁器の生産と流通の状況など、様々なことに気づくことができたのです。
2 千歯扱〈せんばこき〉

千歯扱は、稲や麦などの穀類を穂からはずすための道具です。ひと目みてわかるように、髪をとく櫛のような形をした鉄の歯が並んでいるのが大きな特徴です。歯と歯のすき間に、実った稲束を差し込んで引っ張ると、籾がバラバラと下に落ちていきます。
鉄歯の千歯扱は、元禄(げんろく)元(1688)年に大坂で発明されたといわれています。しかし、福岡の農学者・宮崎安貞(みやざきやすさだ)(1623-97)の著書『農業全書』(1697)に、この新しい農具のことは記されておらず、各地へと広まっていったのは、もう少し後のようです。
それまでの脱穀は、稲穂を1本ずつ扱箸(こきはし)という棒で挟みしごいていましたので、千歯扱が登場したことで作業能率は飛躍的に高まり(3倍とも10倍ともいわれます)、当時の農業の進歩に画期的な役割を果たすことになりました。
千歯扱には大きく分けて稲扱(いねこき)と麦扱(むぎこき)の2種があります。稲扱のほうが歯と歯の間隔が狭く、稲穂の籾を一粒一粒扱き落とせるよう調整されています。いっぽう麦扱のほうは、麦の茎と穂を切り離すのが役目でしたから、歯の間隔は比較的広めにつくられました。
千歯扱はかつて、農家が現金をやりくりして購入し、補修しながら大切に使い続けた農機具でした。それが姿を消したのは、大正時代に全国の農家で回転式足踏脱穀機が使われるようになったためです。その転換は短期間に起きたようで、昭和になると使われなくなった千歯扱が農家の納屋にしまわれたままになりました。戦後になって数多くの千歯扱が収集されたのも、そんな理由がありました。
3 唐箕〈とうみ〉

昔の農機具といえば、唐箕を思い浮かべるという人は多いのではないでしょうか。その大きく個性的な姿は、民俗資料館には欠かせません。
唐箕は、把手(とって)を回して起こした風の力を利用して、穀物にまじった藁屑(わらくず)や籾殻(もみがら)などを吹き飛ばし、実のつまった重い穀粒を選びとるための道具です。中国で生まれたとされる唐箕が、日本で使われ始めたのは、ちょうど千歯扱が発明されたのと同じ元禄年間(1688-1704)頃、広く普及したのが天明(てんめい)~寛政(かんせい)年間(1781-1801)頃ではないかと考えられています。
それまで穀物は箕(み)(後には唐箕に対して手箕(てみ)とも)とよばれる、大きな笊(ざる)のような形をした、それでいて浅く、目のつまった道具を使って選別していました。風の吹くところで箕に入れた穀物をあおり、塵(ちり)や屑を飛ばしたのです。それが唐箕を使うと、機械の起こす風の力で、いつでも楽に作業ができるようになりました。しかし、千歯扱が扱箸に取って代わったのと違い、箕が消えてしまうことはありませんでした。少量の選別ならば、わざわざ大きな唐箕を引っ張り出すことはなかったからです。
唐箕があまり使われなくなり始めたのは戦後になってからのことでした。高度経済成長期に農業の機械化が進み、耕耘機や稲刈機が普及するとともに自動脱穀機が登場します。そこには脱穀だけでなく唐箕の風選機能も組み込まれていました。さらにコンバインの普及も進み、唐箕はその役目を終えたのです。
今でもまだ、納屋の隅で埃(ほこり)をかぶった唐箕を見かけることがあります。他のこまごました道具類は整理できても、なかなか唐箕は捨てられないという話もよく聞きました。その理由は、単純に大きすぎて捨てづらいということだけではないでしょう。取っ手を回す感触、明るい日差し、舞いあがる埃と稲の匂い。唐箕には、そうしたかつての農作業の思い出が染み込んでいて、どうも捨てるに忍びない。そんな風にも見えるのです。
4 膳と椀〈ぜんとわん〉
高度経済成長期以降、都市部に限らず農山漁村に至るまで、私たちの暮らしの環境は大きく変化しました。冠婚葬祭にともなう会食、あるいは地域の年中行事や祝宴も、個人の家で行わないのが当たり前になってずいぶん経ちます。
江戸時代以来、こうした宴席に出される食事は形式が決まっていて、そこで使われる食器も、漆塗りの膳椀類と決められていました。裕福な家庭などでは、大人数の会食に対応できるよう、数十人分の膳椀類を備えていました。
こうした食器はどれも、普段使いとは違う上質なものが揃えられていました。たとえまったく使わなくなって、家の奥にしまい込んでいたとしても、お婆ちゃんが大切に扱っていた漆器を捨ててしまうのはためらわれます。
こうしたものが建て替えや引っ越しを機に博物館に持ち込まれることは少なくありません。しかしこれらは形式に則った「良い品」であるがゆえに、同規格の品が重なることもしばしばです。較べることを旨とする「たくさん残っているもの」の民具学には、まだまだ考えなければならないことがありそうです。
(松村利規)