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  • No.487 福岡藩・武家の女性たち ─ 日々の生活と文化 ─

企画展示

企画展示室2
福岡藩・武家の女性たち ─ 日々の生活と文化 ─

平成29年2月14日(火)~平成29年4月16日(日)

「博多明治風俗図」より「酒屋の樽取り」
武家の女性と子供
(童戯図画)

  江戸時代の福岡藩の武家(ぶけ)は約6000家ほどあったといわれ、ほとんどは城下町福岡に居住していましたが、その人口の半分は武家社会に生きるさまざまな女性たちでした。
 本展示は、ここ城下町福岡で営まれた彼女たちの様々な活動や生活の姿を、開館以来、本館が収蔵してきた武家女性に関する資料を中心として展示し、当時の福岡藩の武家の歴史や文化を広く紹介するものです。

1、戦国の終りと武家女性たち

 江戸時代の初めは、世相や大名家・武家の地位も流動的で、天草・島原(あまくさ・しまばら)一揆での原(はら)城の攻防戦(島原の陣)で戦死した家臣も多く、遺された妻や母が家を守る様に励まされた手紙も残っています。また筑前では、黒田長政(くろだながまさ)の入部以前の戦国の騒乱でも、多くの在地武士が没落し武家以外の道を歩みます。その一つ桜井(さくらい)神社神官(しんかん)・浦(うら)家には17世紀初頭の動乱期を生きた老女性像が残されています。

2、泰平のなかの武家女性たち

 17世紀後半には社会全体の秩序も整い、武家は、当主の武士だけが大名などの主君に仕え、その家を子孫に引き継いでゆくことが最重視され、女性の役割は夫や跡取りを盛り立て、夫の両親に尽くすことに固まっていきました。福岡藩でも当主や家督(かとく)を継いだ男子を家の中心とする法令や達しが出され、藩の制度でも家中心に婚姻(こんいん)、出生、死去などの届け出が行われました。また武家の家系図の多くには、女子の名前の記載はありません。これら武家社会の女性の生き方は、元禄(げんろく)時代ごろの貝原益軒(かいばらえきけん)の学説を下敷きにした『女大学』などによって一般にも広まってゆきます。そこでは女性は他家に嫁ぐ存在として説かれました。
 福岡藩でも武家は城下に集められて藩から屋敷が与えられ、武家の女性たちは一生をほぼその中で過ごします。当主夫人(妻女(さいじょ))は親しみを込めて「奥さん」などと呼ばれたといわれますが、高禄(こうろく)の大身(たいしん)武家夫人たちは、家に仕える武士たちとその家族、男女奉公人(ほうこうにん)が多数いる屋敷の奥向(おくむ)きや内方を厳しく統制することも役割とする存在だったのです。

3、遺された女性像と調度・什器

 福岡藩で最大の家臣、筆頭(ひっとう)家老の三奈木黒田(みなきくろだ)家には2人の奥方(おくかた)女性の肖像が残され、一人は11代当主一美(かずよし)夫人(妙法院(みょうほういん))とされ、もう一人の喫煙(きつえん)中の女性は、10代一葦(いつい)以前の当主夫人像と言われています。両人とも同家の家紋入りの打掛(うちかけ)を着ているため、豪華な帯を、前結(まえむすび)(掛結)にした姿です。ともに机には和本(わほん)などが置かれ、生前に和歌や文学を嗜んだことを示しています。
 調度(ちょうど)としては彼女たちが使ったと思われる鏡台や化粧道具のほかに、文箱(ふばこ)や手文庫(てぶんこ)類が、今も残されています。建部(たけべ)家でも家のお祝いや行事などで使用される食器には金泥(きんでい)で家紋が付けられ、代々大切に保管されました。お祝いの引出物(ひきでもの)を包むための、鮮やかな文様の袱紗(ふくさ)や風呂敷も残され、上流武家の華やかな交際の様子がうかがえます。

4、日々のくらし、遊びと学び
武家子供用裃(かみしも)
武家子供用裃(かみしも)

 福岡藩の一般の武家の日々の生活のなかでの女性の姿を見てみましょう。武家の妻女(さいじょ)の実際の役割で一番重視されたのは、主人をはじめとする家族、さらには家に仕える奉公人までに至る、衣装・衣服の用意・調達(ちょうたつ)と管理で、特に主人については、勤めや季節のたびに衣服を変えたり整える必要があり、それは、布を織ったり購入したりして用意し縫い上げることから始まり、洗濯、保管まで多岐にわたります。飯田(いいだ)家にはそれらを物語る多くの衣服の雛型(ひながた)が残されています。また大身武家の屋敷内には、機織(はたお)りや縫物(ぬいもの)から、洗濯などの水仕事まで、衣料関係で奉公する女性たちが置かれることも多く、夫人(奥方)は、それらに奉公する女性たちの仕事を指図するのも大きな役目でした。
 日々の食事は一汁一菜(いちじゅういっさい)など藩の倹約令のため案外質素(しっそ)で、夫人の指図で女性の奉公人たちが作っていました。一方、正月や盆(ぼん)の儀式での料理は、鎌田(かまた)家に伝来した「年中行事」の記録では、家族や来客、家臣たちに出すご馳走の内容が記され、配膳(はいぜん)方法、味噌(みそ)・醤油(しょうゆ)、漬物(つけもの)の作り方から、1年の予算見積りまであります。しかも種まきの記事があるのは、武家屋敷内に野菜園(やさいえん)があり、上中級武家は男性の奉公人、下級武家は主人や家族も畠作りを行ったためです。
 福岡藩では武家の娘たちは、幼い時は年長の家族、おもに母親に読み書きを教えられましたが、成長した娘たちは「しゃんしゃん」とよばれ、男子と違い、藩による女子の初等教育機関(藩校(はんこう))はなく、多くは機織りや裁縫(さいほう)などをしこまれました。師匠について裁縫を学んだ娘たちがもらった免状も残されています。
 武家にも、女子に両親が初歩の漢学を教える家もあり、とくに藩の儒学者の亀井昭陽(かめいしょうよう)の娘・亀井友(とも)(後の少琹(しょうきん))は漢詩の才能を発揮したことで有名です。このほか、絵画や書道、琴、三味線など音楽を学ぶ娘たちもいました。
 当時の武家の娘たちが、雪だるま、凧揚げで遊ぶさま、三味線(しゃみせん)を練習する様子、母親と子供がご馳走をいただく様子などは、福岡藩士の妻だった野村(のむら)もと(後の望東尼(ぼうとうに))が戯画に残しています。

5、家族・親族の記録と記憶

 武家の女性は10代後半には早くも他家に嫁いだり、婿(むこ)養子を取る場合もありました。そして出産、子育て、家内の年中行事やお祝いごと、数多くの先祖たちの法事(ほうじ)・供養(くよう)などで生涯を過ごし、当主が跡継ぎに家督を譲ると引退します。時の古文書で、そのようなライフサイクルの中で、武家女性を中心に婚家(こんか)の一族や実家(じっか)一族との親密な交流や数限りない付き合いをしていた様子が窺えます。老年になっては、現当主の母として家族と一族に長寿(ちょうじゅ)を祝われる女性もありました。藩の御抱甲冑師(かっちゅうし)・田中家に嫁いだ平野國臣(ひらのくにおみ)の妹・槌子は明治になっての老年期の肖像が残されています。
 家族の間での特別な思いを残した記録もあり、亀井少琹(友)が12歳のとき、昭陽が烽火番(のろしばん)勤めのため辺鄙(へんぴ)な山地に出発するのを、母と見送る姿が父の日記には残されています。野村もとは、家督を譲った主人の貞貫とともに向ヶ丘に隠棲(いんせい)し、その日々の生活を、のちに「向陵(こうりょう)集」という和歌集に残しました。藩の国学者・青柳種信(あおやぎたねのぶ)は、死去した土女(とめ)夫人のため、彼女を忍ぶ和歌を万葉仮名(まんようがな)で刻んだ墓碑を作っています。

6、文芸と手芸の世界

 和歌は武家の女性たちの教養の一つで、家族の間で楽しむだけなく、他の武家女性たちとの親しい交流の場にもなりました。野村もとのように、また文芸の道を深めた女性にとり、自分をあまり表に出せなかった当時の女性たちの、大切な自己表現の場でもあったといわれます。福岡藩には華道(かどう)を嗜(たしな)む文化もあり、気楽な姿で華を生ける三奈木黒田家の奥方の肖像が残されます。手芸としては端切れを使った「置(お)きあげ」細工が有名で、野村もと(望東尼)も古典(こてん)に題材をとった懐紙入れや扇を残しています。
(又野 誠)

出品資料 (資料保存のため会期中一部展示替えをします)

1、おつき宛臼杵少大夫書状(身内戦死のくやみ)
2、おかね宛山下五郎左衛門書状(身内戦死のしらせ)
3、黒田忠之宛井上政重書状
4、浦家女性像(智岳妙直善女)
5、貝原益軒像(近代複製)
6、女大学・女大学宝箱
7、益軒先生家蔵雑集「貝原東軒のこと」
8、女誡(亀井南冥)
9、天保4年杉山文左衛門日記
10、縁組関係届類(大野家文書)
11、規定(婚礼、仏事)
12、達(婚姻お礼、養子願いについて)
13、武家系譜類・武家系図
14、武家宗旨就御改請証拠之事
15、飯田氏家中判物書控
16、福岡藩武家屋敷図
17、筑前国宗像郡貞女政伝
18、筑前国孝子良民伝
19、鶴図鏡、定紋入黒漆鏡台・姫道具
20、硯、手文庫、文箱、百人一首歌留多入箱
21、妙法院像(11代黒田一美夫人)
22、喫煙御女像(伝三奈木黒田氏奥方像)
23、袱紗(三奈木黒田家ほか)
24、金沃懸漆蓋付椀(朱漆、黒漆椀膳)
25、風呂敷(鶴に松竹梅文、橘紋)
26、武家子供用衣服(裃、振袖)
27、年中衣服略記(藤井家)
28、着物図案下絵類
29、建部家裁縫覚・目録・相伝書
30、和歌短冊「針箱」
31、洗濯女性像
32、鎌田家年中行事および万積帳
33、覚(婚礼馳走次第)
34、吸い物膳
35、砂畠菜伝記
36、女子書状手本
37、二川玉篠習字帖
38、百人一首覚帳
39、双六盤、将棋盤
40、童戯図画(野村もと作)
41、母子折鶴の図
42、雛人形
43、書状(女児出産の件)
44、命名書(女子出生)
45、到来帳(女児出産のお祝い)
46、烽山日記(亀井昭陽)
47、二川相近・玉篠賛画
48、嫁取り一件書類
49、祝言次第覚(青柳種信)
50、大野家家督継ぎ目一件
51、向陵集(野村もと)
52、和歌「母六十賀」
53、青柳種信日記(法事の記録)
54、青柳種信像
55、久野氏藤原土女墓誌銘
56、田中槌子像
57、平野國臣自作笛
58、野村もと書状(明石家宛ほか)
59、一韋公前氏ノ奥方(華道)
60、東山流華道書
61、野村もと手芸作品(宮廷官女)
62、青柳種信・久女夫妻墓碑

(ご協力者、出品順、敬称略)
生田耕造、黒田長高、大多和歌子、飯田直喜、前田美子・土屋恭子・師岡都、田中雄助、黒田一敬、武部自一、古賀晉、周防憲男、鎌田昭夫、田隅タネ、吉井喜雄、櫛田祐一郎、塚本潔・細木朗子、野村肇一、山崎千泰

(参考文献)
春山郁次郎『野村望東尼伝』(文献出版 昭和51年)、日本女性史 第三巻 近世』(東京大学出版会 1982年)、『日本の近世15女性の近世』(中央公論社 1993年)、『光をかざす女たち 福岡県女性のあゆみ』(西日本新聞社 平成5年)、井上忠『貝原益軒』(吉川弘文社 新装版 平成6年)、『文学にみる日本女性の歴史』(吉川弘文館 2000年)、磯田道史『武士の家計簿』(新潮社 2004年)、大口勇次郎編『女の社会史』(山川出版社 2001年)、窪井健二『福岡城言葉』(2006年)、柳谷慶子他編『身分の中の女性』(吉川弘文館 2010年)、谷川佳代子『野村望東尼』(花乱社 2011年)、福岡市博物館企画展示解説439「家臣とくらし」(2014年)

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