企画展示
企画展示室1
戦争とわたしたちのくらし26
平成29年6月6日(火)~8月6日(日)
はじめに

昭和20年(1945)6月19日深夜から翌日未明にかけて、アメリカ軍の長距離爆撃機B―29の大編隊から投下された焼夷弾(しょういだん)により、福岡市の中心部は焼け野原になりました。特に、博多部は甚大な被害をうけました。福岡市は、この日を「福岡大空襲の日」としています。福岡市博物館でも、平成3年から6月19日前後に企画展示「戦争とわたしたちのくらし」を開催し、戦時期における人びとのくらしのあり方を、さまざまな観点から紹介してきました。
26回目となる今回は戦時期の防空に関する資料を展示します。第一次世界大戦では飛行機が戦争に使用され、戦地から遠く離れた都市が攻撃対象となりました。昭和の戦争の時代には、日本でも防空事業が計画・実行されました。直接戦闘に参加しない銃後の人びとは、空襲という危機に備えて組織化され、各種の防空訓練を行いました。
防空に対する銃後の人びとの取り組みから、戦争と平和を考える機会になれば幸いです。
防空の必要性

第一次世界大戦では、科学技術の発展を背景に、戦車や飛行機、毒ガスが用いられました。この大戦を契機に、軍事関係者は防空の必要性を認識しました。
防空のためには飛行機の目印となる夜間の照明の制御や火災発生時の消火、負傷者の救助など、さまざまな作業が想定されました。これら全てを軍だけで行うことは困難なので、防空事業は銃後の国民を動員したものとなりました。昭和3年(1928)7月、大阪で日本初の大規模防空演習が挙行されました。九州で初めての防空演習は、昭和6年7月に行われた関門及び北九州防空演習です。この演習の予行として、福岡地区でも灯火管制が実施されました。
防空の担い手である銃後の国民には、防空に関する正しい知識を身につけることが求められました。1930年代から40年代にかけて、書物はもちろんのこと、軍人による講演会や百貨店での防空展覧会、子どもたちに読み聞かせる紙芝居に至るまで、さまざまなメディアを介して防空知識が紹介されています。
「国民防空」

防空は、大きく分けて、「軍防空」と「国民防空」の2つがあります。
「軍防空」は軍隊が行う防空で、敵機の侵入を妨げ軍事拠点を防衛することを目的とします。
「国民防空」は軍以外の者が行う防空で、空襲の被害を最小限に抑えることを目的としたものです。銃後の国民には、灯火管制の実施をはじめ、空襲時の消防、防毒、救助活動などが求められました。福岡市では、「国民防空」のための組織として昭和9年(1934)に防護団が結成されます。防護団は本部とエリア毎の分団で構成され、現役を離れた軍人、青年団員、消防組員と住民が団員となりました。防護団は防空訓練を通じて空襲に備えるとともに、他の住民への指導も行いました。防護団は昭和14年に自治的消防組織である消防組と統合され、新たな「国民防空」組織として警防団が発足します。
昭和13年(1938)、5~15戸単位の住民による防空組織として、家庭防空組合が編成されます。家庭防空組合は、防護団と連携し「国民防空」の末端組織として機能しました。昭和15年に地方行政の補助機関として町内会などが作られ、その下部組織として10戸前後毎に隣組(となりぐみ)が編成されると、家庭防空組合の機能は隣組に移行します。太平洋戦争中の「国民防空」は、警防団と町内会・隣組によって担われました。
空襲に備える

場所は東公園(現 博多区)
防空に関する訓練や指導で取り扱われたものを紹介します。
《警報》防空警報には、警戒警報・警戒警報解除・空襲警報・空襲警報解除の4種がありました。警報の発令は、その地域の防衛を担当する軍司令官、または軍司令官が指定する者に限られました。警報に応じて適切な対応をとるためには、サイレンやラジオから発される警報を素早く正確に把握する必要がありました。
《灯火管制》灯火管制は、飛来する敵機の目印となるような地上の灯りを制限するものです。防空法では、灯火管制は空襲の危険度に応じて警戒管制と空襲管制に分けられます。警戒管制の前段階として準備管制があり、日没後は商店の看板や電飾の照明を消さなければなりませんでした。訓練では、警戒管制時の減光(照明の明るさを落とす)と空襲管制時の遮光(しゃこう)(光が外に漏れないようにする)を行いました。一般家庭では、照明に黒い布で覆いをかけたり、市販の灯火管制用カバーを購入したりしました。
《防火・消火》「消火」は初期消火の重要性を確認するにとどめ、火災発生時の延焼を防止する「防火」に重点が置かれました。空襲前の天井板の取り外し、火災発生時の隣家への注水が行われました。訓練では、火災に備えて家庭防空組合や隣組でバケツリレーを実践しています。
《防毒》毒ガスは種類によって窒息(ちっそく)、皮膚のただれ、催涙、くしゃみ等の効果を持ちます。第一次世界大戦の際にドイツ軍によって使用されたのを機に、英仏米の連合国側でも使用され、多大な死傷者を出したことが知られていました。大正14年(1925)に国際条約で使用が禁止されていましたが、日本では毒ガス弾が投下されることを想定し、外気を遮断した防毒室の設置や、防毒マスクの着用が呼びかけられました。
福岡大空襲
昭和20年(1945)6月19日、マリアナ諸島を出発したB―29爆撃機の編隊は、宮崎県日向市付近から九州上空に進入しました。長崎県の島原市付近で進路を北にとり、脊振(せふり)山系を越えて午後11時過ぎ福岡市上空に達すると、翌日未明にかけて中心部に大量の焼夷弾を投下しました。これにより、福岡市の中心部の3割以上が焼失、死者数や詳細な被災地域については、現在に至っても未確定のままです。
昭和戦前から戦中期を通して構想され、組織化された防空対策は、大規模空襲の前で有効に機能することはありませんでした。福岡市の中心部は焼け野原のまま終戦を迎えます。戦災からの復興は、戦後の大きな課題となりました。
(野島義敬)
【主な展示資料】
防空の必要性
・関門及北九州防空演習記念写真帖 昭和6年 八幡製鉄所/作成 印刷
・パンフレット「国民防空に就て」 昭和9年 福岡市防護団/作成 印刷・書冊
・ポスター「国民防空展」 昭和時代 内務省/主催 色刷
・防空ゲーム 昭和13年 小学館/作成 紙製・色刷
・紙芝居「クウシウ」 昭和18年 全甲社紙芝居刊行会/発行
「国民防空」
・絵葉書「松屋防空展記念」190糎最大照空灯 昭和時代 発行者不明 印刷
・昭和9年度防空演習規定 昭和9年 福岡市防護団本部/発行 ガリ版刷・書綴
・雑誌「家庭防空」第1輯 昭和13年 国防思想普及会/作成 印刷・書冊
・銅鑼 製作年不明 第8隣組加藤隆信/使用 真鍮製
空襲に備える
・16ミリフィルム「福株防護団」 昭和13年 前田良三/撮影
・防空日誌 昭和15年 西門町/作成 墨書・ペン書・書冊
・灯火管制カバー 昭和戦中期 大阪防空カバー製造業組合/製造 紙製・印刷
・写真(消火訓練) 昭和16~20年 撮影者不明 白黒写真
・写真(野外での救助訓練) 昭和16~20年 撮影者不明 白黒写真
福岡大空襲
・電探妨害用テープ 昭和20年 米軍/使用 錫箔
・高射砲弾破片 昭和20年 日本製 金属製
・写真(空襲後の福岡市) 昭和20年 米軍/撮影 白黒写真
《参考文献》 『福岡市史』第3巻昭和前編(上)(福岡市役所、1965年)、福岡空襲を記録する会編発『火の雨が降った 6・19福岡大空襲』(1986年)、土田宏成『近代日本の「国民防空」体制』(神田外語大学出版局、2010年)、川口勝彦・首藤卓茂『福岡の戦争遺跡を歩く』(海鳥社、2010年)、工藤洋三・新妻博子・猪原千恵「日本本土空襲における電波妨害片ロープの使用について」(『空襲通信』第15号、2013年)