企画展示
企画展示室4
ユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」登録記念 博多祇園山笠展16
平成29年6月13日(火)~8月20日(日)
はじめに

平成28(2016)年、福岡を代表する夏の祭礼、博多祇園山笠がユネスコ無形文化遺産に登録されました。これは、平成21年にユネスコ無形文化遺産となった京都祇園祭(きょうとぎおんまつり)の山鉾(やまほこ)行事、茨城県の日立風流物(ひたちふりゅうもの)に、国の重要無形民俗文化財である博多祇園山笠など31件の行事を追加し、計33件の「山・鉾・屋台行事」として拡張登録されたものです。
福岡市博物館では、開館以来、山笠の時期にあわせて「博多祇園山笠展」を開催してきました。16回目の今回は、「山・鉾・屋台行事」の原型である京都祇園祭が成立し、展開していく一方で、独自の「山笠」文化を築いた博多祇園山笠が、時代をこえて、どのように描かれ、記されてきたかを紹介します。
(1)「山・鉾・屋台行事」の源流 ―祇園祭の成り立ちと展開―
「山・鉾・屋台行事」とは、地域の安泰や厄災防除を願い、神霊の依り代(よりしろ)として華やかに飾り立てた山・鉾・屋台といった造形物をつくり、巡行することを特徴とする祭礼行事です。全国で執り行われる1500件あまりの同行事は、系譜をたどると京都の祇園祭(かつての祇園御霊会(ごりょうえ))にいきつきます。
祇園祭は、春から夏にかけて都市に蔓延(まんえん)する疫病の原因を祟(たた)り神(御霊)に求め、荒ぶる神仏(牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと))を祀ることで厄災から逃れようとする信仰と結びついた祭りです。そのなかで、生命を脅かす疫神(えきじん)(疫病をもたらすとされる存在)を寄せ付け、囃(はや)し慰(なぐさ)め、生活圏の外に鎮め送るための造り物が仕立てられるようになり、次第に風流的要素を含んだ豪奢(ごうしゃ)なものへと変化していきました。江戸時代に描かれた「祇園祭礼絵巻」(写真2)には、車輪付きの山車(だし)(鉾)や、人形や松を据えた山が見られます。博多では、この山の部分を選び取り、山笠として発展させ、さらには北部九州1帯に山笠文化圏を形成したと考えられています。

(2)九州の都市博多と山笠
博多祇園山笠は、7月1日から15日まで行われる櫛田(くしだ)神社の祇園例大祭における奉納行事です。
起源については諸説あり、江戸時代に編纂された『筑前国続風土記』(貝原益軒(かいばらえきけん)著)には、『九州軍記(きゅうしゅうぐんき)』(慶長(けいちょう)12年成立)に基づいた永享(えいきょう)4(1432)年説のほか、仁治(にんじ)2(1241)年に疫病が流行した折、承天寺(じょうてんじ)の開祖である聖一国師(しょういちこくし)が施餓鬼棚(せがきだな)に乗り祈祷(きとう)水(甘露水)を撒いたという、近代に成立したとされる伝承などがあります。
博多祇園山笠は、木や竹などを用いて組みあげた素山(すやま)に、背景となる岩、館、川を据えて山笠人形を配し、能や歌舞伎などの場面を表す山笠飾りに特徴があります。毎年新造される飾りは、祭りが終了すれば惜しみなく破壊されます。勇壮かつ豪華絢爛(ごうかけいらん)な山笠は、博多と交流のある地域を中心に「ハカタウツシ」の言葉とともに伝播していきました。

(3)描き、写された山笠の姿
都市の賑わいを象徴する博多祇園山笠は、いつの時代も人びとを魅了する存在でした。山笠を見たり、舁いたりした人は、その時々の様子をさまざまな形で記録していました。
「博多祇園山笠巡行図屏風」(写真3)は、追い山がはじまる前年、貞享(じょうきょう)3(1686)年の山笠の姿を描いた最古の屏風です。観察してみると、10メートルをこえる高さで、舁き棒は長く、4本となっています。ゆっくりとした巡行だったようで、男衆は笑っているような、余裕のある表情をみせています。飾りの部分に目を向けると、文様入りの布地を垂らし、人形や旗などを据えるのが当時の山笠スタイルだったようです。
「追い山図絵馬」は、早良区脇山(わきやま)の横山神社に、文政(ぶんせい)13(1830)年に奉納されたものです。絵馬には、山笠のクライマックス行事「追い山」の「櫛田入り」が描かれています。人で埋め尽くされた境内は、舁く側、見る側両者の熱気に包まれています。幼子を肩に乗せる男性や塀に座り込み、「特等席」から眺める姿も確認できます。山笠に加勢にいったムラでは、往時の山笠の様子を絵馬をとおして残したのです。
『旧稀集(きゅうきしゅう)』は、博多中島町(現博多区中洲)の庄林半助(しょうばやしはんすけ)が著した江戸時代後期から幕末にかけての福岡・博多の見聞集です。半助は、文化3(1806)年の市小路(いちしょうじ)下の山笠が、『三国志』の赤壁の戦いを標題にしたもので、中央の部分に穴があいており、向こうがみえる造りで(しかも抵抗を受けず速く走れるため)珍しいと、挿絵を交えながら記しました。
『追懐松山遺事(ついかいしょうざんいじ)』は、江戸時代最後の年行司(ねんぎょうじ)(博多の町全体の取りまとめを担う役職)を務めた山崎藤四郎(やまざきとうしろう)が明治43(1910)年に執筆したものです。明治時代に様変わりした山笠や松囃子(まつばやし)の江戸時代の姿を残しておこうと、山笠の構造についても記載しています。今日まで受け継がれてきた山笠ですが、その過程には、大小の変化をともなっていたことがわかります。
写真「明治三年の一番山」は、現存する最古の山笠写真です。16メートルにもなる山笠に乗り、ポーズをとる男衆の出で立ちや表情までも読みとれます。この頃は、揃いの法被も着用されていないことがわかります(揃いの法被の着用は明治20年代頃と考えられる)。明治以降の山笠の記録は、絵や文字だけでなく写真でも残されるようになります。さらに後年には、動画も登場します。昭和初期の映像には、現在と同じ、飾り山と舁き山に分かれた山笠(明治43年の路面電車の開通以降に分離)が登場し、櫛田神社に山笠を舁き入れる様子や、山小屋に据えられた飾り山を見上げる人びとが映されています。無音ながらも躍動感あふれる「オイサッ、オイサッ」の声が聞こえてくるようです。
(河口綾香)
おもな展示資料
・祇園祭礼絵巻 江戸時代 1巻 吉田稔資料
・『筑前国続風土記』宝永6年成立、江戸~明治時代写 1冊 館蔵
・博多祇園山笠巡行図屏風 江戸時代前期6曲1隻 石橋源一郎資料
・山笠図屏風 天明8年 6曲1隻 館蔵
・横山神社追い山図絵馬(複製) 原資料は文政13年 1点 館蔵
・『旧稀集』江戸時代成立、明治20年改写1冊 館蔵
・「明治三年の山笠写真」明治3年 1枚 石橋源一郎資料
・『追懐松山遺事(完)』明治43年6月30日発行 1冊 安川巌収集資料
・昭和初期の博多祇園山笠映像 昭和3年1本 館蔵
※資料保護のため会期中一部展示替をします。
参考図書・参考ホームページ
・『博多祇園山笠大全』西日本新聞社・福岡市博物館編 2013
・『山・鉾・屋台行事―祭りを飾る民俗造形』植木行宣・福原敏男著 2016
・文化庁ホームページ「無形文化遺産http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/mukei_bunka_isan/
(2017年5月18日現在)