企画展示
企画展示室2
市美×市博 黒田資料名品展Ⅸ 黒田家と禅
平成30年7月3日(火)~ 9月2日(日)
はじめに
本展覧会は来年三月のリニューアルオープンに向けて休館中の福岡市美術館と当館が収蔵する福岡藩主・黒田家伝来の文化財「黒田資料」を紹介する「市美×市博 黒田資料名品展」シリーズの九回目。今回は、黒田如水(くろだじょすい)(孝高<よしたか>、官兵衛<かんべえ>)・長政(ながまさ)父子をはじめとする黒田家の歴代当主の肖像画や、禅僧が書き残した墨跡、禅宗寺院の保護に関係する古文書などから黒田家と禅宗との関わりについて紹介します。
禅僧との交わり
中国から本格的な禅がもたらされた鎌倉時代以降、禅宗は将軍家や地方の在地領主などの武家と強く結び付きながら全国各地に広まっていきました。戦国時代になると、禅宗の僧侶が戦国武将の政治顧問を務めたり、戦場においては参謀役や敵方との交渉役を担うなどのケースも数多く見られるようになりました。
福岡藩の礎を築いた黒田如水と長政父子は、ともに洗礼名を持つキリシタン大名として有名ですが、禅宗のうち臨済宗に帰依したことでも知られています。 如水・長政の事績をまとめた「黒田家譜」によると、二人は京都・大徳寺(京都市北区)などの住持を務めた春屋宗園(しゅんおくそうえん)を師と仰ぎ、禅の修行を行ったことがわかります。
慶長五年(一六〇〇)十二月、長政は関ヶ原合戦の功績により筑前国(ちくぜんのくに)(福岡県北西部)ほぼ一国を与えられ入国しましたが、春屋は長政に対して太宰府・横岳(太宰府市)にあった崇福寺(そうふくじ)の再興を依頼します。 崇福寺は仁治元年(一二四〇)に建立された臨済宗の寺院ですが、天正十四年(一五八六)島津氏が岩屋城(太宰府市)を攻めた際に兵火にかかって数多くの建物が焼失していました。長政は春屋の依頼に応え、崇福寺を横岳から千代松原(福岡市博多区)に移して再興しました。
一方、長政は、慶長九年に亡くなった如水の肖像画の賛文を春屋に依頼しています。 賛文とは、人物や事物を讃える文章のことですが、春屋は長政の依頼を請けて肖像画に賛文を書いています【資料番号1】。また、長政は春屋に対面して禅の教えを受けている自らの姿を描かせていますが、この絵【資料番号2】にも春屋が賛文を寄せており、二人の深い関係性がうかがえます。
春屋は晩年、長政が如水の菩提を弔うために建てた龍光院(りょうこういん)(京都市北区)の住持となりますが、 その後を継いで住持となったのが江月宗玩(こうげつそうかん)でした。江月は堺の豪商で茶人として著名な津田宗及(つだそうぎゅう)の子で春屋の弟子となり大徳寺の住持にもなった臨済宗の僧侶です。
江月は慶長九年以降、崇福寺の再興事業に尽力し、元和七年(一六二一)には同寺の住持となり筑前に赴任してきました。 黒田家には江月が千代松原の景観を詠んだ漢詩【資料番号7】や、如水の三十三回忌に記した偈文【資料番号8】が伝わっています。 また、元和九年に京都で長政が亡くなった後、黒田家および家臣のもとで長政の肖像画が制作されましたが、江月は依頼により、 その多くに賛文を書いておリ、黒田家とのつながりがわかります。
禅宗寺院とのつながり
豊臣秀吉に仕えていた黒田如水は、天正十四年八月、島津攻めの第一陣として九州に派遣されました。臨済宗の寺院で「扶桑最初禅窟(ふそうさいしょのぜんくつ)」 (日本で最初にできた禅寺)として知られる博多・聖福寺(しょうふくじ)(福岡市博多区)は、この時、如水に使者を送り戦乱にあった寺の復興を願い出ました。これに対して如水は博多が復興されるので、寺の再興も間違い無い旨を記した書状を書き送っています【資料番号12】。
また、如水と長政は、慶長五年に筑前に入国して以降、領地を寄進したり、建物を再建したりするなど、領内の主立った寺院の保護に力を尽くしたことが知られています。 禅宗では臨済宗の崇福寺と聖福寺、承天寺(じょうてんじ)(福岡市博多区)、 承福寺(じょうふくじ)(福岡県宗像市)、曹洞宗の太養院(たいよういん)(福岡県飯塚市)、瑞石寺(ずいせきじ)(福岡県宮若市)、宗勝寺(そうしょうじ)(福岡市東区)などに領地や山林が与えられました。二代藩主の黒田忠之(ただゆき)と三代藩主・黒田光之(みつゆき)も新たな寺院に所領を与え保護を加えました。
四代藩主の黒田綱政(つなまさ)は、元禄十六年(一七〇三)十一月に「国中寺社修補定書(くにじゅうじしゃしゅうほのさだめがき)」を発布しました。
この定書は、領地を与えられた神社と寺院の内、藩が費用を負担して修理を行う寺社を定めたもので、藩が保護する範囲を確認し、
財政支出を抑えることを目的としていました。禅宗寺院の中では、黒田家の菩提寺であった崇福寺と同寺塔頭(たっちゅう)の心宗庵(しんしゅうあん)が挙げられ、
享保十四年(一七二九)九月に改められた際に雲心寺(うんしんじ)(福岡県直方市)が加えられています。
(髙山英朗)
【主な参考文献】
廣渡正利「福岡藩の寺社支配の一考察」(『福岡県史』近世研究編福岡藩(三)、福岡県、一九八七年)、森山みどり「黒田家の神仏崇敬と寺社外護について」(上同)、「大応国師七百回忌記念特別展―大応国師と崇福寺」図録(大応国師と崇福寺展実行委員会、二〇〇七年)など
展示資料リスト(名称/年代/作成/品質形状/員数)
1 黒田如水像/慶長十二年(1607)/長谷川派、春屋宗園賛/絹本着色・掛幅装/一幅
2 道卜居士像/慶長十五年/春屋宗園賛/絹本着色・掛幅装/一幅
3 黒田家譜/宝永元年(1704)成立/貝原益軒他編/書冊/一冊
4 黒漆叩塗帽子形兜/江戸時代初期/黒田長政所用/革・漆・金属・布/一頭
5 黒田家御重宝故実/享保元年(1716)写/小横帳/一冊
6 釈迦像/賛:江戸時代初期/伝・貫休筆、春屋宗園賛/絹本墨画・掛幅装/一幅
7 江月宗玩墨跡/元和七年(1621)/江月宗玩/紙本墨書・掛幅装/一幅
8 江月宗玩墨跡/寛永十三年(1636)/江月宗玩/紙本墨書・掛幅装/一幅
9 黒田忠之像/江戸時代初期/狩野探幽筆、沢庵宗彭賛/紙本着色・掛幅装/一幅
10 黒田光之像/宝永4年/狩野友元(小方守房)筆・月潭道澂賛/紙本着色・掛幅装/一幅
11 黒田綱政像/享保4年/天庵宗篤賛/絹本着色・掛幅装/ 一 幅
12 黒田孝高書状写/原本:(天正14年〈1586〉)10月13日/黒田孝高より聖福寺宛て/書冊 /一冊
13 黒田如水書状写/原本:(慶長5年)11月22日/黒田如水より承天寺宛て/書冊/一冊
14 宗像郡上八村承福寺御寄附御証文写/天保15年(弘化元年・1844)正月写/大野貞正写/ 書冊/一冊
15 黒田長政禁制写/原本:慶長6年4月3日/黒田長政より瑞石寺宛て/継紙/一通
16 井上之房・吉田長利連署書状写/原本:(慶長5年)12月2日/井上之房・吉田長利より瑞石 寺宛て/折紙/一通
17 黒田長政黒印覚書/慶長20年(元和元年)閏6月2日/黒田長政より栗山利安ら三名宛て/継 紙・巻子装/一通
18 黒田長政書状/(江戸時代)9月3日/黒田長政より庄野半太夫宛て/切紙(元折紙)/一通
19 黒田長政書状/(江戸時代)7月20日/黒田長政より庄野半太夫宛て/切紙(元折紙)/一通
20 万心持遺言之帳控/元和九年7月27日/黒田長政より黒田忠之宛て/書冊/一冊
21 崇福寺御塔所之図/元治元年(1864)/高畠由寿写/紙本着色・めくり/一鋪
22 寺社御造営之定/江戸時代/小横帳/一冊
23 寺院帳(領内寺院の本末一覧)/江戸時代/横帳/一冊
24 寺社領帳(領内寺院の寺領一覧)/江戸時代/横帳/一冊
※本展の開催にあたり、福岡市美術館(1、6~9、いずれも黒田資料)にご出品、ご協力いただきました。ここに記して深く感謝の意を表します(括弧内は資料番号)。
※2~5、 10 、 11 、 17 、 20 は黒田資料、 13 、 15 、 16 は山崎千泰氏、 22 ~ 24 は周防憲男氏の寄贈です。