企画展示

企画展示室4
弔いのすがた

平成30年8月28日(火)~12月16日(日)

はじめに
古墳に供えられた須恵器とサザエ(クエゾノ5号墳)
古墳に供えられた須恵器とサザエ(クエゾノ5号墳)

 死者の弔い(とむらい)には、時代や地域ごとの死生観が反映されるとともに、死者と弔う人々や社会との関係も埋め込まれています。埋葬(まいそう)や葬送儀礼(そうそうぎれい)などにみられる弔いの方法は時代とともに変化しますが、その歴史は当時の社会を解明するための鍵になると考えられます。

 葬式や埋葬の方法を伝える文書や絵図などの歴史的な記録のほか、墓の遺跡の発掘調査からも、埋葬に関わる儀礼などの実態が明らかになってきました。本展示では発掘調査で出土した「お供えもの」など、考古学的な資料から弔いのあり方と歴史的な変化について考えます。

縄文時代の埋葬(桑原飛櫛貝塚)
縄文時代の埋葬(桑原飛櫛貝塚)

 福岡では旧石器時代から人々が暮らしていましたが、弔いや埋葬のあり方が遺跡から確認できるのは縄文時代からです。縄文時代後期の貝塚である桑原飛櫛貝塚(くわばらひぐしかいづか)(西区)からは貝の腕輪(うでわ)を14個身に付けた女性と、子供を一緒に埋葬して土器を供えたお墓がみつかっています。この貝塚からは他にも多くの埋葬人骨がみつかっています。

歌舞飲酒(かぶいんしゅ)
副葬された青銅器や鉄器など(東入部遺跡)
副葬された青銅器や鉄器など(東入部遺跡)

 福岡で墓の遺跡が増加するのは弥生時代からです。有力者の埋葬には武器、装飾品、銅鏡などが副葬されますが、その社会的地位や役割などに応じて、組み合わせや数量が異なります。死者の遺体を保護する意味を込めて置かれた器物や手厚い埋葬方法もみられます。

 早良平野(さわらへいや)の東入部(ひがしいるべ)遺跡では弥生時代中期前後の墓域がほぼ全面的に発掘調査され、約1800m2の範囲に甕棺(かめかん)を主とする約200基の埋葬がありました。有力者の埋葬などには前述のような特徴がみられます。 墓域は溝で概ね4つに区画されていますが、その区画溝には弥生土器などが多量に遺棄(いき)されていました。黒や赤い顔料で塗られた特別な土器が多く、故意に穴が開けられた土器もあります。

廃棄された葬送儀礼の土器(東入部遺跡 墳丘墓の区画溝) 廃棄された葬送儀礼の土器(東入部遺跡 墳丘墓の区画溝)
廃棄された葬送儀礼の土器(東入部遺跡 墳丘墓の区画溝)

 3世紀の中国の歴史書『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)には「歌舞飲酒」と表現される、葬儀に参加した人々の飲食儀礼(いんしょくぎれい)の様子が記されています。埋葬後のみそぎなどについても記され、死の穢(けが)れの意識もあったことがうかがえます。

 東入部遺跡など、弥生時代の墓の遺跡から出土する土器の多くは、このような葬送儀礼(そうそうぎれい)の歌舞飲酒に使用された容器と考えられます。祭祀(さいし)に使用した土器をこわす行為や、墓地に遺棄する行為には、穢(けが)れを打ち払う意味があったと考えられます。

黄泉戸喫(よもつへぐい)
石室に副葬された土器(クエゾノ5号墳)
石室に副葬された土器
(クエゾノ5号墳)
古墳に供えられた須恵器と魚骨(羽根戸E8号墳)
古墳に供えられた須恵器と魚骨(羽根戸E8号墳)

 『古事記』などに記されているイザナギが死んだ妻イザナミを追って黄泉(よみ)の国に行く説話には黄泉戸喫(よもつへぐい)という言葉が出てきますが、これは黄泉国の食物を口にすることを意味します。古代には、あの世の食物を口にした者はこの世に戻ることができないという観念があったようです。古墳時代の後半から日本列島では横穴式石室(よこあなしきせきしつ)が普及するようになり、石室の中や入口などに須恵器(すえき)を並べ置く風習も広がっていきます。このような埋葬に際して供えられた土器のなかには 動植物が遺(のこ)っているものがあり、死者に食物を供献(きょうけん)していたことがうかがえます。この供えられた食物は黄泉戸喫、すなわち、死者が黄泉の国の住人となる食事を象徴するものであり、そこには死者がこの世に戻って死の穢れや災いを生者におよぼすのを防ぎたいという気持ちが込められていたと考えられています。

 福岡でも5世紀後半頃のクエゾノ5号墳(早良区)の時代からこのような風習が定着しはじめ、羽根戸(はねど)E8号墳(西区)など小規模古墳が増加する6世紀後半から7世紀に普及します。

 羽根戸古墳群では馬具(ばぐ)や刀装具(とうそうぐ)などを須恵器の杯(つき)にいれて供献した特殊な事例もあるほか、鍛冶(かじ)や製鉄にともなって排出される鉄滓(てっさい)を石室の入口などに供える「鉄滓供献(てっさいきょうけん)」 がいくつかの古墳でみつかっています。鍛治の火を神聖視する信仰があるように、鉄生産に関わった集団にとって、その生産過程で生じた物は残滓であっても特別に扱うべきものであったのでしょうか。

 北部九州はこのような鉄滓供献古墳が多い地域の一つですが、中でも油山(あぶらやま)から早良平野の山麓にかけて分布する古墳群に集中しています。古墳時代の後期、当地域は鉄や鉄器の一大生産地であり、鉄滓供献はその生産に関わった集団の埋葬習俗と考えられます。

極楽往生(ごくらくおうじょう)
石積みの基壇を備える墳墓(香椎B遺跡第8次調査)
石積みの基壇を備える墳墓
(香椎B遺跡第8次調査)

 遺体を火にかけ遺骨を容器に納めて埋葬する火葬墓(かそうぼ)は仏教の経典にもとづく葬法です。日本では8世紀初めから広まりますが、平安時代頃までは限られた貴族や僧侶の埋葬方法でした。

 平安時代後期以降は経典などを埋納する霊場(れいじょう)と墓地が複合する事例がみられるようになります。11世紀から経典を地下に埋納する経塚(きょうづか)が営まれるようになりますが、これは社会不安を背景とする末法思想(まっぽうしそう)や浄土信仰(じょうどしんこう)によるものでした。香椎(かしい)B遺跡(東区)や浦江谷(うらえだに)遺跡(西区)では平安時代後期から鎌倉時代を中心とする上位階層の墓地がみつかっていますが、その一部の埋葬には、経典を埋納する容器と類似する中国陶器を納骨器(のうこつき)とするものや、経塚と共通する構造の施設を構築しているものがみられます。

 極楽往生を願う浄土信仰が弔いのすがたにもあらわれています。 (森本幹彦)

主な展示資料(時代/出土遺跡)

○貝輪・土器
(縄文時代後期 桑原飛櫛貝塚)
○祭祀土器
(弥生時代中〜後期 東入部遺跡)
○銅剣、銅釧、鉄剣、鉄矛、鉄刀
(弥生時代中〜後期 東入部遺跡)
○祭祀土器
(弥生時代終末期 野方塚原遺跡)
○獣帯鏡の破片
(弥生時代終末期 野方塚原遺跡)
○土師器、須恵器、赤色顔料、サザエ、鉗、斧、剣
(古墳時代中期 クエゾノ遺跡)
●吉武K7号墳(装飾古墳)横穴式石室の模型
○須恵器、魚骨、刀装具、鐙金具
(古墳時代後期 羽根戸古墳群E群8号墳)
○鉄滓、轡
(古墳時代後期 羽根戸古墳群E群3号墳)
○火葬墓の須恵器と土師器
(平安時代 徳永A遺跡)
○湖州鏡、鉄刀、陶器、土師器
(平安〜鎌倉時代 香椎B遺跡)
○崇寧通宝、青磁、白磁、青白磁
(平安〜鎌倉時代 浦江谷遺跡)

○は福岡市埋蔵文化財センター、埋蔵文化財課所蔵、●は福岡市博物館所蔵資料です。

福岡市博物館
〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
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