企画展示
企画展示室1
福岡城下で暮らす
令和元年12月24日(火)~令和2年2月24日(月・振休)
福岡城下の範囲
福岡城下を描いた絵図は範囲や種類が多様で城下の定義を難しくしています。数が多いのは那珂川(なかがわ)の西の福岡側しか描いていない絵図です【1】。広さは東西約2,700メートル、南北約4〜600メートルの範囲です。これらは堀や門で囲まれた防御空間として城下町を捉えているものが多いように思われます。
しかし、都市空間として城下を見た場合、家屋が連続して建っている場所は門や堀の外側にもあり、こうした場所も含めると、東西約7,000メートル、南北約2,500メートルの広さになります。
この広い意味での福岡城下に暮らしていた人の数は、明治初年のデータになりますが、53,878人という数字が出てきます(「福岡県地理全誌」)。「士族」と分類された戸数からかつて武士だった人の数を割り出したところ、およそ18,000人になります。
支配制度の面から見ると、5万人を超える人口を抱えていた福岡城下は様々な役人が分割管理していました。例えば町人地は町奉行が、武家地は普請奉行や大目付(おおめつけ)が、寺社地は寺社奉行がというように、その土地がどのような場所として藩が把握しているのかにより支配のルールが異なっていました。
武士の暮らし
武士の多くはいわゆる福岡側に暮らしていました。家格が高く家老などを務める家臣の多くは堀で囲まれた城内に屋敷がありました。おおむね城への距離が家格を反映しており、家格の低い武士は城下の周縁部に暮らしていました。
屋敷図を見ると上級家臣の屋敷は数十メートル四方はある広い敷地を持ち、自分が抱える家来が暮らす長屋、厩(うまや)、馬場、射撃場、多数の蔵、武道場、能舞台、整えられた庭園等を備えた立派なものでした【4】。それに対して中級以下の家臣の屋敷は上級家臣のものと比べると半分から数分の一以下の広さで、中には庭を可能な限り畑にして、様々な野菜や果樹を植えていた家臣もいました【5】。庭の畑については海の近くの砂地が多い場所で野菜を育てるノウハウを記した「砂畠菜伝記」という本が下級家臣によって著されています【6】。また、「老の回想録」という、幕末生まれの武士が大正時代に江戸時代のことを回想した記録には、地行の足軽屋敷について「間数は大抵6畳一間、23畳一間に便所位にて、現今にて云えは鉱山の鉱夫納屋と大差なきものか」と表現しています(『近世福岡博多史料』第一集)。
これらの家臣の屋敷は藩主から与えられる「拝領屋敷」と自費で入手した「自分屋敷」とにおおまかに分けられます【9、10】。拝領屋敷は家賃がかからず災害等で壊れた場合も藩が補助してくれることもありました。しかし、部屋や敷地の改修には藩の許可が要りました【11】。また、屋敷を移る際には建具一つ一つを細かくチェックして原状回復しなければなりませんでした【7、8】。一方、自分屋敷は城下周縁部や町の中に武士が自分で手に入れた屋敷です。武士は農民から屋敷を手に入れる際にはその土地に賦課されている年貢を納めることを約束しました【12】。町人から屋敷を入手する際も町に賦課されていた税金などを納めることが証文で確認されました。その場合、表向きは町人の名義で町に登録していたようです【13】。
町人の暮らし

(14、「旧稀集」より)
18世紀半ばの福岡城下を海側から描いた「福岡図巻」には博多の町家のほとんどが板葺(いたぶ)きで瓦屋根の建物は土蔵などに限られているように見えます【2】。また、「旧稀集」という19世紀の見聞集には雨風が吹き込む所で寝て寝床が雪で覆われてしまった人物が描かれています【14】。明治5年の博多の街角を撮影した写真でも、屋根が歪んで柱も斜めになっていて、整った町並みという感じではありません(『新修福岡市史 資料編近世3』口絵)。時代劇のセットで見るような様子とは違っていたようです。
こうした町人地の基礎的な情報について分かる資料に「券帳」とそれに付属する町絵図があり、博多や福岡の一部の町のものが伝わっています。券帳は屋敷地の台帳で間口・奥行と登録者名がまとめられています。江戸時代初めの内容とされる博多の券帳には出身情報も書かれていますが、「高麗(こうらい)人」がいたり、新しく出来た町では色々な場所から人が集まってきていたり、住民の多様性も読み取れます【18】。
しかし、江戸時代中期以降、城下の町人地では富裕な者による土地の集積が進み、借家が増加します。文化3(1806)年の統計では福岡側の町家の数は1,629軒ですが、その内借家は622軒に達します(福岡城下・博多・近隣古図、九州大学蔵、三奈木(みなぎ)黒田家文書423)。福岡の本町(中央区赤坂付近)で酒造業などを営んでいた有力町人・佐藤家にはこうした借家の経営実態を示す家賃帳が残っています【20】。そこからは多様な家賃支払方法が確認できるとともに、敷金の存在や部屋の状態による家賃の値引きなど、現代とも共通するような事象が読み取れます。
町絵図を読み解く
唐人町(とうじんまち)の絵図には作成した経緯が書かれています【21】。そこには、券帳だけでは混乱が生じていたので対応する絵図を作成したとあります。絵図には基本的に間口・奥行と券帳への登録者名が「券帳前誰々」と書かれています。しかし、実際には人に貸している場合もあり、登録上の人物と居住者が一致しないことがよくありました【22】。
また、絵図をよく見ると面積が書いてある区画があります。これらは「地主地(じぬしち)」という、多くは海岸や川岸等に新たに造成された土地で、郡地(ぐんち)(年貢が賦課される土地)として藩が把握していた場所です。使い方としては必ずしも農地ではなく、荷上場や網干(あぼし)場など多様な用途に使われていました。
この他、居住者の書き方を見ると名前の下に「様」や「殿」が入った人物、つまり武士もおり、支配の面から考えると非常に複雑な状況になっていました。
明治維新と福岡城下
唐津(からつ)街道沿いの荒戸通(あらととお)り丁(ちょう)(中央区荒戸2・3丁目付近)の明治初年の地図には、間口が狭く奥に細長い町家のような敷地が多数見られます【23】。実はこの場所は江戸時代は上級武士の屋敷が建ち並んでいた場所でした。版籍奉還(はんせきほうかん)(明治2年)、廃藩置県(はいはんちけん)(同4年)という大変革の中、かつて武士だった人びとは屋敷をどんどん手離していきました。「維新雑誌」という記録の明治4年の記事には「侍小路ニテハ東牢屋ノ町、西通り町ハ過半町家ニ変ジ、御堀端ヨリ以東、大名町・天神ノ町等美々シカリシ大組以上ノ邸宅モ、所々解除ケ売却シ間バラ町家ト変シ」とあり、東西を結ぶ通りに面した武家屋敷の多くが町家に変じたことを伝えています(『新修福岡市史 資料編近現代1』)。武家屋敷は他にも学校や役所といった公共機関の敷地に転用されていきました【25】。こうした動きは武士が多く暮らしていた福岡側の方がより顕著でした。
このようにして、武家地・町人地・郡地がモザイク状に存在する複雑な支配の形態はリセットされ、福岡の都市生活は新たな段階を迎えることになりました。(宮野弘樹)
展示資料一覧(番号、名称/時代/作成/員数/所蔵)
1、福岡城石垣修復普請伺絵図/明和2(1765)年/福岡藩/一幅/館蔵・黒田資料
2、福岡図巻/江戸中期/作者不詳/一巻/館蔵・黒田資料
3、筑前国続風土記/元禄16(1703)年成立/貝原篤信/全30巻の内/館蔵
4、武部家屋敷図/江戸後期/作者不詳/一鋪/館蔵・武部自一資料
5、桐山家屋敷図/江戸後期/作者不詳/一枚/館蔵・桐山家文書
6、砂畠菜伝記/天保2(1831)年/作者不詳/一冊/館蔵・田隅タネ資料
7、拝領屋敷絵図/文久元(1861)年/帆足弥次兵衛他/一鋪/館蔵・帆足高明資料
8、屋敷帳控/天保12(1841)年/廣羽敏/一冊/館蔵・広羽家文書
9、明細書控/文政9(1826)年/井手勘助/一通/館蔵・井手道子資料
10 、明細書控/慶応2(1866)年/森信近/一通/館蔵・屏山文庫旧蔵資料
11、口上之覚/江戸後期/井手左膳/一通/館蔵・井手道子資料
12、永代売渡申上証拠之事/文化7(1810)年/薬院村/一通/館蔵・伊藤達也資料
13、名代証文之事/寛政11(1799)年/新大工町平市/一通/館蔵・塚本家資料
14、旧稀集/明治20(1887)年改写/一冊/庄林半助/館蔵
15、筑前名所図会/文政4(1821)年/奥村玉蘭/10冊の内/館蔵・奥村資料
16、筑前国孝子良民伝/寛保3(1743)年/竹田定直他/4冊の内/館蔵・安川巌資料
17、筑紫遺愛集/慶応3(1867)年自序/伊藤道保他/14冊の内/館蔵
18、博多津中券帳/明治6(1873)年写/祝部利永/一冊/福岡市総合図書館蔵
19、券帳/江戸後期/佐藤家/3冊/個人蔵
20、家賃銀覚帳/江戸後期/佐藤家/一冊/個人蔵
21、唐人町絵図/宝暦9(1759)年/年寄上原七郎兵衛/一鋪/館蔵・森幸次資料
22、福岡湊町券帳絵図/江戸後期〜明治/湊町年寄他/11点の内/福岡市総合図書館
23、明治六年荒戸町・湊町地籍図/明治6(1873)年/6鋪の内/館蔵
24、加瀬家居宅差図/嘉永3(1850)年/加瀬元将/一鋪/個人寄託
25、改正福博詳見全図/明治13(1880)年/高須徳七他/一鋪/館蔵
開催にあたり次の方々に資料や情報提供のご協力をいただきました。末筆ながら記して謝意を表します。井手道子氏、伊藤達也氏、奥村武氏、黒田長高氏、榊原啓子氏、
佐藤淑子氏、鈴木文氏、武部自一氏、田隅タネ氏、塚本潔氏、塚本哲也氏、野口文氏、
帆足高明氏、細木朗子氏、森幸次氏、安川巌氏、福岡市総合図書館、両市中委員会
(箕浦永子氏、重久幸子氏、八嶋義之氏)
主要参考文献又野誠「近世中期福岡・博多の町方における役負担と切銭」(『福岡市博物館研究紀要』第3号、1993年)、西田博「武家屋敷の支配について」(『福岡地方史研究』第36号、1998年)、重久幸子「福岡藩の地所台帳「券帳」について」(『福岡市総合図書館研究紀要』第17号、2017年)