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  • No.548 筑紫でうたを詠んだ人

企画展示

企画展示室2
筑紫でうたを詠んだ人

令和2年1月15日(水)~3月15日(日)

はじめに
遣唐使船模型
遣唐使船模型

  大君(おほきみ)の遠(とほ)の朝廷(みかど)にあり通(かよ)ふ
  島門(しまと)を見れば神代(かみよ)し思(おも)ほゆ
――柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)(『万葉集』巻3-304)

 外交と西海道(さいかいどう)(九州)の内政のかなめであった古代の役所、大宰府(だざいふ)は「遠(とお)の朝廷(みかど)」と言われ、官人・僧・防人(さきもり)など多くの人がやってくるところでした。後世「歌聖(かせい)」とあがめられる宮廷歌人、柿本人麻呂もその一人です。筑紫国(つくしのくに)へ向かう道中の歌が残るほか、遺新羅使(けんしらぎし)が同じ道をたどる中で、人麻呂のものとする古歌を誦詠(しょうえい)していたことも『万葉集』には記録されています。

 奈良時代の『万葉集』に記される「筑紫(つくし)」は、狭くは大宰府とその周辺、広くは西海道をさし、そこには京や故郷から離れた悲しさが多く詠(よ)み込まれています。「天(あま)ざかる鄙(ひな)」に下るとも表現されたこの地で、古代筑紫のうたの詠み人たちはどのように過ごしていたのでしょうか。

一 筑紫で集う
柿本人麻呂像 衣笠守由筆 青柳種信賛
柿本人麻呂像
衣笠守由筆
青柳種信賛

  春(はる)されば先づ咲くやどの梅の花
ひとり見つつや春日(はるひ)暮らさむ
――山上憶良(やまのうえのおくら)(『万葉集』巻5-818)

 「令和」という元号の出典となった天平2年(730)の梅花の宴は、『万葉集』に記録された歌会の中で、最大規模の宴です。大宰帥(だざいのそち)(大宰府の長官)の大伴旅人(おおとものたびと)が主催し、筑前守(ちくぜんのかみ)であった山上憶良など西海道各地の役人が大宰府に集まり、盛大に催されました。『万葉集』の筑紫の歌には、宴席で人々に披露されまとめられたものが多くあり、この地を離れるまでのひと時を宴席を重ね、過ごしていた様子がみえてきます。

 帰京する官人、渡海する遣唐使らの送別の宴では、筑紫の娘子(おとめ)たちとの別れを惜しむ歌が残されています。土地の人と訪れてきた人が歌を交わす中でも、筑紫での歌壇が築かれていったことがうかがわれます。

  大和道(やまとぢ)の吉備の児島(こじま)を過ぎて行かば
  筑紫の児島(こじま)思(おも)ほえむかも
――大伴旅人(『万葉集』巻6-967)

 筑紫の風景には、遠い京や故郷をおもう心情が重ねられました。平安時代末の平家の栄世から没落までが語られる『平家物語』や『源平盛衰記』には、取るものも取り敢えず流れきて、大宰府の安楽寺(あんらくじ)にて歌を詠み、連歌をしていた平家一行の様子が書かれています。

住みなれしふるき都のこひしさは
神もむかしにおもひしるらん
―― 平重衡(たいらのしげひら)(『平家物語』)

二 筑紫に詠んだ女性たち
(奥)地島・鐘岬、(中央右)勝島・神湊、(手前)鼓島・楯崎神社(「宗像郡草稿絵図」より)
(奥)地島・鐘岬
(中央右)勝島・神湊
(手前)鼓島・楯崎神社
(「宗像郡草稿絵図」より)

ちはやぶる金(かね)の岬を過ぎぬとも
我は忘れじ志賀(しか)の皇神(すめかみ)
――作者不明(『万葉集』巻7-1230)

 平安時代の宮廷文学『源氏物語』には少女玉鬘(たまかずら)が筑紫に下向する際に、「金(かね)の岬過ぎて我は忘れずなど、世とともの言種(ことくさ)になりて」という『万葉集』の一首を引用する一文が出てきます。作者である紫式部は、越前での地方生活や、夫の宇佐使(うさのつかい)としての筑紫下向を経験しています。父の転勤で筑紫に越すことを嘆く友人とは、文通をする中で歌も贈りあっていました。京を離れる、筑紫へ行くということは紫式部、ひいては京で暮らす女性にとって、嘆きを伴うものである一方で、身近な事であったのかもしれません。

檜垣嫗(「筑前名所図会」より)
檜垣嫗
(「筑前名所図会」より)

年ふれば我(わ)が黒髪も
白河(しらかは)のみづはくむまで老(おい)にける哉(かな)
――檜垣嫗(ひがきのおうな)(『後撰和歌集』巻17)

 平安時代の10世紀前半、檜垣嫗という女性は、筑紫の役人と邂逅(かいこう)し、往時は若く美しかった自身の姿を詠みます。説話として残る、筑紫の片隅に暮らす風流ぶりで有名であった女性の存在は、大宰府を中心とした筑紫の文化の深さを感じさせてくれます。

三 筑紫でこもる・筑紫をめぐる

都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘声
都府楼は纔(わづ)かに瓦の色を看る 
観音寺はただ鐘の声を聴くのみ
――菅原道真(すがわらのみちざね)(『菅家後集』 「不出門」 頷聯)

 平安時代中期の学者であり政治家であった菅原道真は、延喜3年(903)、非業(ひごう)のうちに大宰府でその一生を終えました。『菅家後集(かんけこうしゅう)』は左遷先の大宰府で道真が詠んだ漢詩集で、非運の嘆き、謫居(たっきょ)の苦しみが込められています。平安時代に流行した詩歌がまとめられた『和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)』には、道真の七言律詩「不出門(ふしゅつもん、もんをいでず)」のうち、頷聯(がんれん)(第3・4句)部分が収められ、京にいる貴族の間でも道真の思いが口ずさまれていたことがわかります。

源重之(「三十六歌仙絵巻」より)
源重之
(「三十六歌仙絵巻」より)

  秋くれば恋するしかのしま人も
  おのが妻をや思(おも)ひいづらん
―― 源重之(みなもとのしげゆき)(『重之集』)

 三十六歌仙の一人、源重之は平安時代中期(10世紀末)に筑紫や陸奥へと知人を頼って旅をした漂泊の歌人です。『重之集』には、竈門山(かまどやま)、筥崎宮(はこざきぐう)の松、生(いき)の松原、志賀島、染川(そめかわ)など筑紫で詠んだ歌が残されています。自ら京を離れて巡った場所は、『万葉集』の頃より度々詠み込まれた歌枕の地であり、先人の歌に官位に恵まれない自身の境遇を重ねていたのかもしれません。

おわりに

 昭和38年(1963)に太宰府天満宮で再興した3月に行われる曲水(きょくすい)の宴は、平安時代中期の天徳2年(958)、大宰大弐(だざいのだいに)の小野好古(おののよしふる)が始めたと伝えられています。平安時代後期には大宰権帥(だざいのごんのそち)、大江匡房(おおえのまさふさ)が道真のあとを継ぐかのように詩歌に遊び、宴を楽しみました。このように年中行事として、恒例に歌を詠む場がつくられていた記録も残ります。古代に旅愁の場であった筑紫はまた、詠み人たちによって賑わいが生まれる詩歌の場でもあったのです。(佐藤祐花)

主な展示資料

順に、名称/(原史料の成立年代/)作成年代/形状等を示す。※は寄託資料。ほか館蔵。

・万葉和歌集 校異/奈良時代/文化2年/木版墨摺 冊子装※
・柿本人麻呂像/文化11年/絹本着色 掛幅装
・遣唐使船模型/昭和56年/木造着色
・日本文徳天皇実録/元慶3年/明治16年/木版墨摺 冊子装※
・湖月抄(源氏物語「玉鬘」)/延宝元年/木版墨摺 冊子装
・宗像郡草稿絵図/江戸時代/墨書淡彩 冊子装
・西都旧跡十二景/江戸時代/木版色摺 冊子装
・筑前名所図会(御笠郡・宗像郡)/文政4年/墨書 冊子装
・筑前国続風土記(御笠郡)/元禄16年/墨書 冊子装
・後撰和歌集/平安時代中期/天暦5年/木版墨摺 冊子装
・和漢朗詠集 下/平安時代後期/天保14年/木版墨摺 冊子装
・渡唐天神立像/江戸時代/梅木着色一木造※
・三十六歌仙絵巻(吉川観方コレクション)/江戸時代前期/紙本着色 巻子装
・三十六歌仙和歌/江戸時代/墨書 懐紙※
・重之集/平安時代/江戸時代/墨書 冊子装

《主な参考文献》
筑紫豊『九州万葉散歩―福岡県とその周辺―』福岡県文化財資料集刊行会、1962年初版・1970年覆刻/川口久雄『大江匡房』吉川弘文館、1968年/目加田さくを『源重之集・子の僧の集・重之女集全釈』風間書房、1988年/西丸妙子『檜垣嫗集全釈』風間書房、1990年/林田正男編『筑紫古典文学の世界 上代・中古』おうふう、1997年/大久保廣行『筑紫文学圏論 大伴旅人』笠間書院、1998年/太宰府市文化ふれあい館『特別展示 大宰府―人と自然の風景』目録、2002年/稲岡耕二『山上憶良』吉川弘文館、2010年/多田一臣『柿本人麻呂』吉川弘文館、2017年

※本文中にひいた和歌、漢詩は主に『日本古典文学大系』、『新 日本古典文学大系』(いずれも岩波書店)を参照し、適宜漢字を仮名にするなどの変更を加えた。また、万葉集歌末尾の番号は『国歌大観』の番号を示している。

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