企画展示
企画展示室1
戦争とわたしたちのくらし30
令和3年6月15日(火)~9月5日(日)
はじめに

昭和20年(1945)6月19日深夜から翌日未明にかけて、アメリカ軍の長距離爆撃機B -29の大編隊から投下された焼夷弾(しょういだん)により、福岡市の中心部は焼け野原になりました。特に、博多部は甚大な被害をうけました。福岡市は、この日を「福岡大空襲の日」としています。福岡市博物館でも、平成3年から6月19日前後に企画展示「戦争とわたしたちのくらし」を開催し、戦時期における人びとのくらしのあり方を、さまざまな観点から紹介してきました。
30回目となる今回は、戦時期の「モノ不足」を紹介します。日中戦争の開始と長期化は、物資・資源の輸入を減少させました。限られた物資・資源を軍事関係に配分するため、政府は直接戦闘に参加しない「銃後」の国民に、金属回収やエネルギー資源の節約、代用品の利用をすすめました。
戦時期の人びとが体験した生活用品の変化やモノ不足について知ることが、戦争と平和について考える機会になれば幸いです。
軍需物資の確保

昭和12年(1937)7月、盧溝橋(ろこうきょう)での日中両軍の武力衝突をきっかけに日中戦争がはじまりました。
戦争には大量の物資、資源が必要となります。具体的には、兵士が着用する軍服、軍帽などの繊維、ベルトや軍靴に使用される皮革、大砲、銃弾から飯盒(はんごう)、水筒までさまざまなものに使用される諸金属、航空機や船舶、自動車の動力となる石油などです。軍需品の需要増加により物価は上がりました。
日本政府は、同年9月19日に輸出入品等臨時措置法を公布し、国際貿易の収支を維持するために貿易品の輸出・輸入を制限します。政府は、輸入可能な物資、資源の量を限定しつつ、軍需目的での使用を優先させました。衣服に関してみると、衣料品の原料となる綿花や羊毛の不足が問題となり、軍需品・輸出品以外の綿製品や毛織物製品に人造繊維(ステープル・ファイバー、略してスフ)を3割以上混合するよう定められました。昭和13年5月には陸軍の服制が改正され、従来丈夫な毛織物を用いていた軍服の素材が綿製に変わりました。軍需優先の物資、資源の配分は、銃後の国民の生活にも大きな影響を与えました。
金属とエネルギー資源
日中戦争の長期化と戦線拡大は、日本とイギリス、アメリカをはじめとする欧米諸国との対立を招きました。アメリカは昭和15年(1940)7月、石油・屑鉄・鋼などの重要資源の対日輸出に制限を加えます。8月には航空機用ガソリン、翌月には屑鉄を禁輸とするなど、日本への輸出制限を強めました。昭和16年8月には石油も禁輸としました。戦争に必要な金属・エネルギー資源の輸入が滞る中で、銃後の国民には金属の回収や、エネルギー資源の節約が求められました。
各家庭からの金属の回収は、昭和13年ごろから呼びかけが行われ、自主的に不用な金属製品を供出する動きがありました。昭和16年に金属類回収令が制定され、鉄、銅、黄銅・青銅などの銅合金を組織的に回収するようになりました。回収対象は銅像や梵鐘まで広がり、福岡市では、西公園の平野国臣像、加藤司書像などの銅像や、土居町にあった称名寺(現在は東区に移転)の大仏が供出されました。
金属の確保に向けて、国が発行する貨幣も変化していきます。日中戦争開始時にニッケルや青銅で造られていた硬貨は、アルミニウムに置き換えられました。昭和18年には、航空機の素材としてアルミニウムの需要が高まり、金属回収の対象に加えられます。昭和19年以降に発行された硬貨は錫製に変更されました。

電力やガス、石炭などのエネルギー資源は、軍需産業に必要なものであるため、銃後の国民に節約が求められました。内閣情報部(のち情報局)が発行した国策を周知するための写真誌である『写真週報』には、エネルギー資源の節約に関する記事がたびたび掲載されます。また、雑誌やポスターなどで、航空機の潤滑油として使用するヒマシ油を採取するため、各家庭でヒマ(トウゴマ)を栽培することがすすめられました。
代用品の奨励
戦争の勃発と貿易の縮小、物資、資源の軍需産業への優先的配分によって、生活に必要な物資の入手が困難になると、代用品の使用が呼びかけられるようになりました。戦時期の代用品は、戦争の影響で利用が難しい素材を、それに代わる素材に置き換えたものを指します。国全体の資源や人員を総動員して行う戦争となった第一次世界大戦(1914~1918)の際、ドイツが資源節約のため代用品を用いたことは、日本でも知られていました。

日中戦争が始まって以降、綿花・羊毛などの繊維資源、鉄・銅などの金属資源が不足することが予想され、これに対応する代用品の使用が呼びかけられました。繊維資源については、スフの積極的利用がすすめられます。金属資源の節約のため、陶器や木材、竹による代用がはじまりました。釜、アイロン、湯たんぽ、金ボタンなどが陶器で代用され、缶詰に代わって陶製の「防衛食」容器も考案されました。金属の代わりに竹で作られたヘルメットも残されています。
代用品利用の呼びかけは、日中戦争開始から太平洋戦争開始前後まで盛んになされていましたが、戦局が悪化し、モノ不足が深刻化するにつれて少なくなります。銃後の人びとは、代用品で作られた既製品に代わり、身の回りの品物などを再利用して必要なものを手作りするようになったのです。
戦後のモノ不足
太平洋戦争末期の昭和20年(1945)は、モノ不足が深刻化していました。6月19日の福岡大空襲の後に、投下された焼夷弾の部品を貴重な金属資源として持ち帰った人もいました。同年9月2日に日本政府は降伏文書に調印し、戦争は終わりました。終戦後もモノ不足は続きます。人びとはヘルメットを鍋に改造したり、落下傘の紐を再利用したりするなど、比較的物資が残存していた軍用品を生活に使用しました。

令和2年度、博物館に終戦後の福岡の様子を記録した写真が新たに寄贈されました。昭和20年末から22年にかけて板付基地(現 福岡空港)に駐屯した米軍兵士が撮影したものです。基地内外の写真の中には、基地内の廃材を抱えて帰る人びとの写真があります。また、雑餉隈(ざっしょのくま)にあった九州飛行機の工場の写真からは、軍用航空機の部品が数多く残されていたことがわかります。昭和21年2月に撮影された福岡市街地の写真は、空襲で建物が焼失した場所が空き地のままになっている様子がうかがえます。被害を受けた街や人びとのくらしの復興には、なお多くの時間が必要でした。 (野島義敬)
【主な展示資料】
(名称・年代・作者など)
軍需物資の確保
- 写真週報255号 昭和17年 内閣情報局/編
- 軍服(上衣) 昭和戦中期 印正司/着用
- 将校用飯盒 昭和戦中期 ニギリ矢製
- 陸軍用毛布 昭和15年 広島陸軍被服支廠/検定
金属とエネルギー資源
- ポスター「応召だ戦地へ送れ銅と鉄」 昭和15~20年 長崎県・大政翼賛会長崎県支部
- 紙芝居「オモチャの出征」 昭和16年 堀尾勉/脚本 篭宮歌二/画
- 10銭錫貨 昭和19年 造幣局/製造
- ポスター「ヒマを捧げよ」 昭和18年頃 陸軍省・海軍省・文部省・大政翼賛会
代用品の奨励
- 陶製ボタン(福岡県) 昭和戦中期 製作者不明
- 陶製おろし 昭和時代 製作者不明
- 防衛食容器 昭和戦中期 大日本防空食糧株式会社社長小沢専七郎/制作
- 天井板で作った弁当箱 昭和20年 製作者不明
- 竹製ヘルメット 昭和戦中期 製作者不明
戦後のモノ不足
- 焼夷弾部品 昭和20年 アメリカ軍/製造
- 写真(福岡市街地空撮) 昭和21年 W.H.Krueger/撮影
- 写真(九州飛行機の資材置場) 昭和20年 W.H.Krueger/撮影
- 写真(廃材を運ぶ女性) 昭和20年 W.H.Krueger/撮影
《参考文献》
臨時軍事調査委員編『国家総動員に関する意見』(陸軍省、1920年)、大蔵省・商工省編『非常時財政経済に関する国民の協力に就て』(国防思想会、1937年)、『福岡市史』第8巻昭和編後編(4)(福岡市、1978年)、川口勝彦・首藤卓茂『福岡の戦争遺跡を歩く』(海鳥社、2010年)、筒井清忠編『昭和史講義』(筑摩書房、2015年)、吉田裕『日本軍兵士』(中央公論新社、2017年)