企画展示
企画展示室2(黒田記念室)
古代筑紫の特産品
令和3年9月7日(火)~11月14日(日)

奈良・平安時代、外交と西海道(さいかいどう)(九州)の内政のかなめであった古代の役所、大宰府(だざいふ)には、西海道各地の様々な特産物が集められました。
「筑紫(ちくし)」とは、狭くは大宰府とその周辺、広くは西海道をさします。大宰府を中心とする筑紫には、どのような特産品があったのでしょうか。本展では、残された文字情報と市内の出土品から、古代筑紫の特産品の一端を紹介します。
税として納める―『延喜式』をみる
律令制下の税制で、全国から朝廷に納められたものは、生産物や労働力でした。中でも、調(ちょう/みつき)や庸(よう/ちからしろ)など人頭税として人々に課せられた品目は、各地の特色を反映してその種類は多様です。
10世紀にまとめられた、法律の細則集である『延喜式(えんぎしき)』には、筑前国(ちくぜんのくに)の主な調物として、絹・布・鍬(くわ)・鉄(くろがね)・短鰒(みじかあわび)・薄(うす)鰒・鮨(すし)の鰒・火焼(ほやき)鰒・塩が挙げられます。これらは他の国でもよく挙げられているものですが、繊維製品や鉄製品、海産物と主力品がこれだけ種類に富んでいるのは筑前国の一つの特徴といえるでしょう。

甕の口の内側に書かれる「珂郡乎佐」は、筑前国那珂郡曰佐(おさ)(南区曰佐付近)と考えられます。
調庸物は本来、都に直接納められるべきものですが、筑前国を含む西海道各国の税は大宰府に納められ、多くは大宰府の財政を支えるものとなりました。『延喜式』で筑前国の貢納リストに挙げられている須恵器の「大甕(おおみか)」、「小甕(こみか)」については、貢納を示すヘラ書きのある牛頸須恵器窯跡(うしくびすえきかまあと)(大野城市)の大甕の発見があり、県内では、他にも8世紀のものとされるヘラ書きのある甕が複数見つかっています。都地泉水(とじせんすい)遺跡(西区)の大甕の破片にも、地名が刻まれており(図1)、大宰府貢納品の甕に関連するかもしれません。

径20㎝弱と『延喜式』規定の大宰府盤の寸法と近いものです。同じ遺跡から黒漆が塗られた盤片も出土しています。
大宰府で加工されたのちに、都に運ばれたものもあります。漆塗りの木器は、大宰府が毎年製作して都へ納めるよう『延喜式』に定められたもので、材料となる漆は、西海道内では筑前・筑後・豊前の国々から貢納されました(図2)。西海道で広く栽培されていた紫草(むらさき)などの染料を用いて、大宰府で染めた絹織物などは、天皇の所持品に関わる内蔵寮(くらりょう)にも納められました。
斜ヶ浦瓦窯(ななめがうらかわらがま)跡(西区)で出土する「警固」という文字の叩き目と同じ文様をもつ瓦が、糟屋(かすや)郡新宮町(しんぐうまち)の相島(あいのしま)沖の海底や平安京跡から見つかっています。博多湾岸で焼かれた瓦が船で運ばれ、都の軒の一部を飾っていたと考えられています。記録からはみえない思わぬものも、遠く運ばれ、使用されていたようです。
大規模な鉄の生産地

谷あいで確認できた27基の製鉄炉から、製鉄の際に屑として出る鉄滓が78トンも見つかりました。
筑前国の調のひとつに鉄があります。市内には古代の製鉄遺構が広く分布しており、中でも糸島半島にある元岡(もとおか)・桑原(くわばら)遺跡群(西区)では、国内最大級の奈良時代の製鉄炉群が見つかりました(図3)。遺跡に残る砂鉄などの分析から、製鉄の原料は周辺地域の海岸から採掘した砂鉄だと考えられます。
この遺跡が属した志麻郡には、延暦23年(804)に、「自今以後(じこんいご)、綿の調を停止し、以て鉄を輸(いた)さしめよ」(『日本後紀』)と調の品目を鉄に変更するよう指示が出されていて、平安時代にも、依然として鉄の生産が行われていた様子がうかがえます。
納められた鉄は、武器にも姿を変えたようです。大宰府には戎器(じゅうき)(兵器)を作る役職が常置され、天平5年(733)や貞観11年(869)などの記録には、博多湾警備のために甲冑や武器を備える大宰府の動きが残ります(図4)。


陸の恵み・海の恵み

底に墨書で「厨」と書いてあるように読めます。「津厨」か、鴻臚館での食事を用意する厨に関連するものか、興味深い文字です。
鴻臚館(こうろかん)は、古代の迎賓館(げいひんかん)として設けられ、船で往来する官人や異国の人が滞在する場となっていました。ここで出土する木簡には「米」、「鹿脯乾(ほじし)」(鹿の干し肉)、「魚鮨」などが書かれ、筑紫ほか各地の豊かな食材を用いた食事が滞在した人々にふるまわれたことが考えられます(図5)。
志賀(しか)の海人(あま)の一日(ひとひ)もおちず焼く塩の 辛き恋をも我(あれ)はするかも ――(『万葉集』巻15‐3652)
これは、都から大陸へ向かう遣新羅使(けんしらぎし)が、道中の筑紫館(つくしのむろつみ)(のちの鴻臚館)で詠んだ歌です。『万葉集』には船で釣りをし、製塩のために火を焚き、海藻を刈る志賀の海人の姿が度々あらわれます。
志賀島(しかのしま)に近い海(うみ)の中道(なかみち)遺跡(東区)では、釣り道具や製塩土器など志賀の海人らの生業に重なるような遺物が多く見つかっています。一方で、皇朝十二銭や金の鍍金(めっき)が残る青銅製の釵(かんざし)など、海人の暮らしの場には似つかわしくない、官人に関わるものも出土していて、貞観11年(869)の記録に残る「津厨(つのくりや)」の可能性が指摘されています。津厨とは大宰府の所管でありながら「離れて別処に居」った港に面する料理所です(図6)

筑紫の名が付くブランド品
しらぬひ筑紫の綿(わた)は
身に着けていまだは着ねど暖けく見ゆ
――沙弥満誓(『万葉集』巻3‐336)
歌にも詠まれた西海道の綿(真綿)は、大宰府に留まらず、都から「貢綿使(こうめんし)」が派遣され、直接都へ運ばれる特別な品物でした。その量の規定は他地域と比べても多かったと考えられ、「筑紫綿」の需要がうかがえます。
別るれば心をのみぞつくし櫛
さして逢ふべきほどを知らねば
――天暦御製(『拾遺和歌集』巻6)
10世紀中頃、村上天皇が肥後に下向する女性・肥前に「筑紫櫛」を贈った際の一首です。平安時代に筑紫の櫛が都でもてはやされていたことを今に伝えてくれます。
少し時代は下り、11世紀中頃に成立した『新猿楽記(しんさるがくき)』には、諸国の名産品が列挙される中に「鎮西(ツクシ)米」が挙げられます。14世紀に成立し、江戸時代まで初等教科書として広く読まれた『庭訓往来(ていきんおうらい)』もまた名産品に「筑紫穀(ツクシコメ)」を挙げ、列島の中でも早くから、この地で米づくりが行われてきたことを思い起こさせます。 (佐藤祐花)
主な展示資料
- 万葉和歌集 校異/奈良時代/文化2年/木版墨摺 冊子装※
- 日本後紀/承和7年/明治16年/木版墨摺冊子装
- 庭訓往来/14世紀/江戸時代/木版墨摺冊子装
- 玉勝間 巻七/寛政11年/木版墨摺 冊子装※
- 鎌(玄界島)/現代/木、鉄製
以上、※は寄託資料、ほか館蔵。順に名称/(原資料の成立年代/)作製年代/形状等を示す。
- 海の中道遺跡1次〜3次/釣針・刺突具・鎌・土師器坏 墨書「綿□」・土錘・製塩土器・青銅製釵・魚骨/奈良〜平安時代
- 海の中道遺跡4次/銅銭「承和昌宝」・「延喜通宝」/平安時代
- 鴻臚館跡(福岡城跡)/土師器碗 墨書「厨」ヵ・ 軒丸瓦(135Bb型式 )・丸瓦(5B型式)・平瓦(3Aa3型式)・土錘・鉄製鉸具・鉄鏃・小札・木簡「魚鮨廿九斤」・「京都郡庸米六斗」・「鹿脯乾」・木製櫛/奈良〜平安時代
- 元岡・桑原遺跡群12次/鉄滓/奈良時代
- 元岡・桑原遺跡群31次/平瓦(A1型式)/平安時代
- 井相田C遺跡1次/木皿・漆木皿/奈良時代
- 斜ヶ浦瓦窯跡2・3次/平瓦(3Ab2・3Aa3型式)/平安時代
- 女原笠掛遺跡2次/平瓦(M型)/平安時代
- 都地泉水遺跡1次/須恵器大甕 刻書「珂郡乎佐」/奈良時代
- 三宅廃寺遺跡/木製櫛/奈良時代
以上、福岡市埋蔵文化財センター蔵。順に出土遺跡名/名称/時代を示す。
《主な参考文献》
地方史研究協議会編『日本産業史大系8九州地方篇』東京大学出版会、1960年/梅村喬『日本古代財政組織の研究』吉川弘文館、1989年/『国立歴史民俗博物館研究報告 134集』国立歴史民俗博物館、2007年/虎尾俊哉編『訳注日本史料 延喜式』中・下、集英社、2007・2017年
この他にも、市内出土の資料についてはそれぞれが出土した調査における『福岡市埋蔵文化財調査報告書』を参照している。