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企画展示

企画展示室3
動く海の中道-消えゆく遺跡-

令和4年7月12日(火)~ 10月23日(日)

はじめに
写真1 海の中道 奈多砂丘B遺跡周辺
写真1 海の中道 奈多砂丘B遺跡周辺

 穏やかな博多湾(はかたわん)は福岡の歴史文化に大きな影響を与えてきました。外海から博多湾を守るバリアとして、重要な役割を果たしてきたのが海(うみ)の中道(なかみち)です。この海の中道が、日々少しずつ動いていることはあまり知られていないのではないでしょうか。

Ⅰ 動く海の中道

 海の中道は、志賀島(しかのしま)と大岳(おおたけ)、新宮(しんぐう)などの岩盤をつなぐ、規模の大きな砂丘です。砂丘は、今の海の中道を形作っている「海(うみ)の中道(なかみち)砂層(さそう)」と、その下に堆積している、氷河時代以前に形成された古い「奈多(なた)砂層(さそう)」の2つの砂層から構成されています。

 海の中道の北側の海岸では、志賀島にぶつかった海流が分かれて志賀島の東側を回り込み、強い波が押し寄せています。この波によって削られた古い奈多砂層の砂は、浜に打ち上げられると乾いて、吹きつける強い北風に運ばれ、新たな砂丘が作られます。このようにして現在も堆積し続けている砂丘が、海の中道砂層です。

図1 海の中道における砂丘の浸食と南進
図1 海の中道における砂丘の浸食と南進

 一方、海の中道の南側の海岸では、博多湾を反時計回りに流れる海流により砂が運ばれ、西戸崎(さいとざき)の東側を中心に海岸に堆積し続けています。このような地形の変化が連綿と繰り返されることにより、海の中道は長い時間をかけて南に動いてきたのです。

 海の中道の南進を端的に表現すると、奈多砂層の浸食による海の中道砂層の堆積とまとめることができます。ではこうした地形の変化はいつ頃から始まったのでしょうか。

図2 奈多砂層の浸食による海の中道砂層の堆積
図2 奈多砂層の浸食による海の中道砂層の堆積

 きっかけは、約1万5千年前から始まった温暖化と考えられています。海面の上昇により、奈多砂層の浸食が始まったのです。最も海面が上昇した約4700年前(縄文(じょうもん)時代中期)の海の中道は、図1に示したように、現在よりも約500メートル北側にあったと推測されています。約3100年前(縄文時代晩期)になり海面がほぼ現在の高さで安定すると、浸食と堆積の繰り返しが本格化してきました。
 

Ⅱ 海の中道と遺跡 

 地元の人々によれば、近年の気候変動の影響のためか、北側の海岸の浸食の速度は増しているといいます。海の中道には、北側の海岸を中心に、複数の遺跡がありますが、強い波と風は、これらにも影響を与えています。

写真2 露出した土器
写真2 露出した土器

 海の中道の北岸の中央部にある奈多(なた)砂丘(さきゅう)B(びー)遺跡(図1参照)では、旧石器(きゅうせっき)時代の遺物を含む古い奈多砂層だけでなく、弥生(やよい)時代の遺物(いぶつ)を含む海の中道砂丘も浸食を受けつつあります。このため、波に洗われて露出した土器(どき)や石器(せっき)などが、付近の人々や考古学者により採集され、また、遺跡の記録保存等を目的として、これまで2回の発掘調査が行われました。

Ⅲ 海とともにあった人々のくらし 
写真3 奈多砂丘B遺跡 採集 弥生土器
写真3 奈多砂丘B遺跡 採集 弥生土器

 奈多砂丘B遺跡では、甕(かめ)や壺(つぼ)、高坏(たかつき)、鉢等の調理や食事に用いる土器や、鉄の道具を研(と)いだ砥石(どいし)が出土しました。ほとんどが弥生時代から古墳(こふん)時代への過渡期(かとき)のものです。あわせて、イイダコを捕るためのタコ壺や、石や粘土でつくったおもり等も見つかっています。このことから、農耕に向かない砂丘で、人々は漁労を中心にくらしていたと推測されます。

 現在の遺跡周辺の海岸は波と風が強く、人が生活するには厳しい環境のように思われます。しかし、当時の人々はこのような波打ち際で生活をしていたわけではありません。弥生時代の海岸線は現在よりも北側(現在は海中)にありました。人々は海岸に最も近い砂丘の裏側の、波風を避けられる場所に生活の拠点をおいていたことが、これまでの発掘調査からわかっています。

写真4 奈多砂丘B遺跡出土の九州南部との関係が想定される土器
写真4 奈多砂丘B遺跡出土 土器

 また、この遺跡からは、朝鮮半島南部や瀬戸内西部、九州南部等から持ち込まれたり、これらの地域の土器の文様(もんよう)や形をまねてつくられたと考えられる土器が複数出土しています。博多湾周辺の遺跡では、弥生時代の後半から古墳時代にかけて、朝鮮半島や瀬戸内、山陰、近畿、東海の各地域の土器が多く出土するようになりますが、奈多砂丘B遺跡の他地域系の土器は類例が少ないものもあり、今後検討が必要な資料といえます。

Ⅳ 草原で活躍した狩人

 奈多砂丘B遺跡の周辺では、縄文時代よりもさらに古い時代の旧石器が採集されています。そのほとんどが槍(やり)の先にとりつけて用いる狩猟の道具です。

写真5 奈多砂丘B遺跡採集 旧石器
写真5 奈多砂丘B遺跡採集 旧石器

 このうち、「ナイフ形石器」は、日本の旧石器時代を代表する石器で、さまざまなタイプのものが見つかっています。また、「剥片尖頭器(はくへんせんとうき)」は、安山岩(あんざんがん)等でつくられることが多い石器ですが、奈多砂丘B遺跡のものは黒曜石(こくようせき)を材料としている点が特徴です。

 奈多砂丘B遺跡では、石器づくりに必要な材料や、石器づくりの過程で生じた欠片がほとんど見つかっていません。このことから、当時の遺跡周辺は、石器をつくったりするような日常生活の場ではなく、一時的に訪れる狩りの場であったのかもしれません。

 遺跡周辺で旧石器時代の狩人が活躍したのは、3万~1万4千年前頃の氷河期でした。最も寒冷であった2万年前頃には、海面は現在よりも100~140メートル低かったとも考えられており、海岸線ははるかかなたにありました。海の中道から北側をのぞむと、広がっているのは玄界灘(げんかいなだ)ではなく、広大な草原だったのです。(松尾奈緒子)

(図版出典)
  • 写真1 木下史雄氏撮影
  • 写真2・3 木下史雄氏撮影(部分切り取り)
  • 図1 下山ほか2012を参考に作成
(主な展示資料)
  • 奈多砂丘B遺跡周辺写真(木下史雄氏撮影・所蔵)
  • 弥生土器甕・壺・高坏・鉢 ※(当館蔵・梅木昭和資料)
  • イイダコ壺・石錘 ※(梅木昭和氏所蔵)
  • 弥生土器甕・壺・鉢および土錘 ☆(福岡市埋蔵文化財センター所蔵)
  • 三韓系瓦質土器壺 ※(当館蔵・梅木昭和資料)
  • ナイフ形石器・細石刃 ※(藤木聡氏所蔵)
  • 剥片尖頭器・台形石器 ※(山下実氏所蔵) 

☆は奈多砂丘B遺跡 発掘調査出土資料。
※は奈多砂丘B遺跡周辺 採集資料。

(参考文献)下山正一ほか2012「奈多砂丘B遺跡の地質調査」『市史研究ふくおか』第7号 福岡市博物館市史編さん室/杉原敏之2019「福岡の旧石器文化-福岡平野とその周辺-」『福岡の旧石器文化』日本旧石器学会2018年度普及講演会/藤木聡2019「福岡県雁ノ巣砂丘遺跡採集の旧石器」『福岡考古』第19号 福岡考古談話会/森本幹彦2015「外来系土器からみた対外交流の様相-弥生時代終焉にむけての北部九州-」『古代文化』第66巻第4号 公益財団法人古代学協会ほか

(謝辞)企画展開催にあたり、梅木昭和氏、木下史雄氏(九州産業大学)、杉原敏之氏(福岡県文化財保護課)、藤木聡氏(宮崎県埋蔵文化財センター)、平ノ内幸治氏、山下実氏および宇美町歴史民俗資料館の皆様には、調査や資料のご出品など、多大なご協力を賜りました。厚く御礼申し上げます。

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