企画展示
企画展示室2 黒田記念室
殿様からの贈り物
令和5年3月21日(火・祝)~5月21日(日)
はじめに

福岡市博物館が所蔵している資料の多くは、福岡市をはじめとする地域の皆さまからの寄贈によって成り立っています。貴重な品物をご提供いただいた皆さまに、改めて御礼申し上げます。
ご寄贈いただいた資料はすべて、後世へ確実に引き継ぎ、展示や研究など館内外で広く活用するため、受け入れの際に整理と調査を行います。江戸時代に福岡藩士だった家や、福岡藩の領内で商売を営んでいた家、村の役人を務めていた家などの資料を整理・調査していると、福岡藩主から贈られたといういわれをもつ品物に出会うことがあります。
このような時、「なぜこの品物を?」「どうしてこの人物に?」「いつ、どんな理由で贈ったのか?」という疑問を、関係する資料などから調査していきます。
今回の展示では、実際に贈られた物を展示し、調査してわかった「殿様からの贈り物」の実像を紹介したいと思います。
武功の証として

江戸時代、筑前国(ちくぜんのくに)(現在の福岡県北西部)ほぼ一国を治めた福岡藩主黒田家は、もとは、播磨国御着城(はりまのくにごちゃくじょう)(兵庫県姫路市)を本拠とした小寺(こでら)氏の家臣でした。小寺政職(まさもと)の家老であった黒田孝高(くろだよしたか)(如水(じょすい))は、天正(てんしょう)3(1575)年、天下統一を目指し毛利(もうり)氏と対決するため中国地方へ進出してきた織田信長(おだのぶなが)に味方するよう政職に進言し、自ら使者として岐阜城(岐阜県岐阜市)の信長を訪ねました。その後、孝高は中国攻めの大将として派遣された羽柴(はしば)(後の豊臣(とよとみ))秀吉(ひでよし)に仕え、天正10年、信長が亡くなった本能寺の変後、織田家の後継争いや天下統一に邁進した秀吉を参謀として支えました。
天正15年、豊前国(ぶぜんのくに)6郡の領主となった孝高は、同17年に家督を息子・黒田長政(ながまさ)に譲りましたが、その後も小田原城攻めや朝鮮出兵などに参陣しました。慶長(けいちょう)3(1598)年8月に豊臣秀吉が亡くなると孝高・長政父子は徳川家康(とくがわいえやす)と関係を深め、同5年9月の関ヶ原合戦では長政の事前工作によって家康を勝利に導きました。この功績により長政は筑前国ほぼ一国を拝領し、国持大名(くにもちだいみょう)となりました。
黒田家が大名となるまで草創期から仕えた家臣、とくに黒田二十四騎に数えられる家臣の家には、黒田孝高や長政から拝領したと伝えられる旗や鞍(くら)、采配(さいはい)、軍扇などが残されている例があります。それらは黒田家の合戦の歴史に加えて、拝領した家臣本人の武功や黒田家との関係性を現在に伝えるものです。
治者としての務めに対して
関ヶ原合戦での勝利により豊臣政権内での地位を固めた徳川家康は、慶長8年の征夷大将軍就任と同10年の徳川秀忠(ひでただ)の2代将軍就任、同19年から翌20(元和(げんな)元)年にかけて行われた大坂の陣を経て、徳川氏と江戸幕府による全国支配を確実なものにしました。
寛永(かんえい)14(1637)年から翌15年にかけて、九州の諸大名も参陣した島原の陣が発生しましたが、その後、幕末期に至るまで国内で大規模な戦いが行われることはなく、武士に求められる役割は次第に変化していきました。諸大名は、自らの領内の統治のために法令や支配機構の整備を行い、家臣たちは、その下で武芸よりも政治的・官僚的な役割を次第に担うようになっていきました。
福岡藩の藩士は、知行高や扶持高に対応した軍団組織に編成され、領内の警備や長崎港の警備など、番方(ばんかた)と呼ばれる軍事的な職務を務める一方で、能力に応じて役方(やくかた)と呼ばれる政治や財務など行政関係の役職を務める者もいました。
また、学問をもって藩に仕える儒学者や藩の医術を担う医師、藩主の命による画業や絵図の作成に携わる御用絵師、船方や大筒役など軍方に関わる家臣など、専門的な技術によって藩に仕える者もいました。彼らは一般の藩士とは区別して「家業(かぎょう)」と呼ばれ、代々家職として専門の役職を担いました。
ここまで述べてきた通り、江戸時代の福岡藩士が担った役職や役割は多岐にわたりましたが、長年にわたって役職を務めてきた者や、秀でた功績や成果を残した者などに対して、藩主から品物が贈られることがありました。また、職務の上で近しい関係にあった家臣にも、殿様から贈り物が贈られる場合がありました。
藩への貢献に対して

城下の福岡・博多をはじめとする領内で商売を営んだ商人や、各村の村政運営や年貢収納の一端を担った大庄屋や庄屋、組頭などの村役人に藩主から品物が贈られることがあります。
福岡湊町(みなとまち)(福岡市中央区港周辺)で酒造業を営んでいた加瀬元春・元将(かせもとはる・もとまさ(ゆき))父子が書き残した記録「加瀬家記録」(展示番号21・22)には、代々の当主が寸志米や御用銀の献上など、福岡藩に対して行った貢献が数多く記載されています。この貢献に対し藩は苗字を名乗ることを許したり、扶持米を与えたりしていることが記述内容から知ることができます。
早良郡姪浜村(さわらぐんめいのはまむら)(福岡市西区)の廻船問屋で酒造業や醸造業なども営んでいた石橋家には、黒田家の家紋である藤巴紋が入った麻裃(かみしも)(展示番号23)が伝えられています。この裃は、収められていた木箱の蓋裏の墨書から、御用銀を献上したことに対する称誉として、文久(ぶんきゅう)3(1863)年に石橋善左衛門(いしばしぜんざえもん)が拝領したものであることが分かります。
このように様々な形で貢献した人びとに対し福岡藩や藩主は、褒め称えるという名目で、実際に品物を贈ったり、格式や名誉を与えたりするなど、色々な形の「贈り物」をすることで応えようとしたのでした。(髙山英朗)
展示資料リスト(名称/年代/作成/品質形状/員数)
- 久野家旗/桃山時代/久野重勝拝領/絹製・紙面貼付/1面
- 采配/桃山時代/久野重勝拝領/竹製・紙製/1本
- 采配/桃山時代/黒田長政より菅正利拝領/竹製・紙製/1本
- 金地日の丸軍扇/桃山時代/黒田長政より菅正利拝領/紙本金地/1本
- 采配/桃山時代~江戸時代/黒田長政より野口一成拝領/竹製・紙製/1本
- 巴紋入唐草文螺鈿鞍/桃山時代/黒田長政より黒田一成拝領/木製・螺鈿/1背
- 羽箭文蒔絵鞍/桃山時代/黒田如水より野村祐直拝領/木製・蒔絵/1背
- 黒田光之書状/(江戸時代前期)12月8日/大音六左衛門宛て/折紙/1通
- 黒田万千代書状/(江戸時代前期)11月19日/長濱四郎右衛門宛て/竪紙/1通
- 黒田万千代書状/(江戸時代前期)8月24日/長濱四郎右衛門/竪紙/1通
- 黒田綱政画巻/江戸時代中期/黒田綱政より平井清七拝領/紙本淡彩・巻子装/1巻
- 梅に鵯図・葭に鷺図/江戸時代中期/黒田綱政・黒田長重/絹本着色・掛幅装/2幅
- 楓図/江戸時代後期/黒田治之/絹本着色・掛幅装/1幅
- 竹図/江戸時代後期~明治時代/黒田長溥/紙本墨画・掛幅装/1幅
- 竹図/江戸時代後期~明治時代/黒田長溥/紙本墨画・掛幅装/1幅
- 舞扇(金地に青波文)/江戸時代後期/黒田長溥より小川昌盛拝領/紙本金地/1本
- 舞扇(銀地に青波文)/江戸時代後期/黒田長溥より小川昌盛拝領/紙本銀地/1本
- 櫛田北渚肖像写真/江戸時代後期/黒田長溥より櫛田北渚拝領/ガラス乾板/1枚
- ル・フォショウ式リボルバー/19世紀中期以降/黒田長溥より帆足久八郎拝領/真鍮・木製/1挺
- ギヤマンコップ/江戸時代後期/黒田長溥より小野有淑拝領/ガラス製/1基
- 記録/文政10(1827)~12年/加瀬元春/書冊/1冊
- 記録/天保11(1840)~12年/加瀬元将/書冊/1冊
- 藤巴紋入麻裃/江戸時代後期/石橋善右衛門拝領/麻・小紋染め/1領
- 舞扇/江戸時代後期~明治時代前期/黒田長溥より小金丸武蔵拝領/紙本金銀地/1本
- 題散楽舞扇/明治7(1874)年6月15日/小林興/竪紙/1通
※1~2、16~17は大多和歌子氏、6、12は黒田一敬、9~10は宮崎和子、13は細木朗子氏・塚本潔氏、14は中江恒生氏、19は帆足高明氏、20は古賀晉氏、23は石橋善弘氏、24~25は小金丸種尚氏の寄贈、3~4は菅素子氏、8は大音重成氏、11は平井嘉樹氏、18は櫛田正浩氏、21~22は榊原啓子氏の寄託、7と15は個人蔵です。