企画展示
企画展示室3
館蔵仏教美術展 ―信仰の美―
令和5年6月27日(火)~9月3日(日)
福岡市博物館は、平成2年(1990)の開館以来、様々な資料を収集してきました。その中には仏教に関係する美術資料も含まれます。
紀元前6世紀頃にインドで始まった仏教は、6世紀に中国・朝鮮半島を経て日本に伝わりました。今日、私たちが礼拝し、同時に仏教美術と呼ぶ仏像も、朝鮮半島の百済(くだら)からもたらされた銅製の釈迦如来像に始まります。『日本書紀(にほんしょき)』は、当時の人々がその姿の厳(おごそ)かさに衝撃を受けた様子を伝えています。以後、我が国の人々は、時々の大陸仏教文化の影響を受けながらも、自身の感性に合った、様々な造形を生み出してきました。
本展では寄贈や寄託資料の中から、仏像や仏具などの立体作品を中心にご紹介します。信仰が生み出した、深遠なる造形の美をご覧ください。
◇ 中国・朝鮮の仏像
〈菩薩頭(ぼさつとう)〉(1)は、石造の菩薩像の頭部です。螺髻(らけい)(渦巻形の髻(もとどり))や唐草(からくさ)状の宝冠(ほうかん)、面長で眼球の丸みを立体的にあらわす顔立ちなどから、中国の元(げん)または明(みん)時代の制作と考えられます。各部に緑や赤、金などの彩色が残り、制作当初の鮮やかな姿が偲ばれます。
〈釈迦如来(しゃかにょらい)及び両脇侍像(りょうきょうじぞう)〉(2)は、釈迦如来と獅子に乗る文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、象に乗る普賢菩薩(ふげんぼさつ)を表した三尊像で、様式から明時代の制作と考えられます。いずれも木造で、仏像本体の表面は金色に塗られています。獅子と象には異国風の御者(ぎょしゃ)があらわされ、仏教発祥の地であるインドが意識されているようです。

〈菩薩形坐像(ぼさつぎょうざぞう)〉(3)は、童子を抱き両脚を交差して坐(すわ)る珍しい姿の木彫像です。光背(こうはい)と台座を含めて一材から彫り出し、背面には納入品を入れたと思われる四角い孔があります。交脚(こうきゃく)の姿勢は中国の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像に見られますが、光背の上部に十字架(じゅうじか)を彫ることから、明時代以降にキリスト教と仏教が融合した環境の中で造られたのかもしれません。
福岡県糸島市一貴山(いきさん)に伝来した〈菩薩坐像(ぼさつざぞう)〉(4)は、朝鮮・高麗(こうらい)時代の銅製の仏像です。中世のある時期に船でもたらされたものでしょう。よく見ると、表面には鍍金(ときん)(金メッキ)の痕跡や鎖状の飾りを取りつけた釘孔が残ります。長崎県壱岐市の金谷寺(きんこくじ)には、この像とそっくりの像が伝来しており、本来は三尊像の両脇侍像であったと思われます。
◇ 日本の仏像

福岡市東区箱崎の天満宮大師堂に伝来した〈誕生釈迦仏立像(たんじょうしゃかぶつりゅうぞう)〉(5)は、像高わずか7㎝余りの銅製の仏像で、様式から奈良時代の制作と考えられます。右手を上げ、左手を下げて立つ姿勢は、お釈迦様が誕生した時の姿とされ、4月8日の仏生会(ぶっしょうえ)で用いられました。
奈良時代には銅像と共に、人型の木に土を盛り付けて表面を仕上げる木心塑像(もくしんそぞう)も多く造られました。〈塑像心木(そぞうしんぎ)〉(6)は塑像の心木だけが残ったもので、明治時代以前は大分県杵築市の若宮八幡宮に安置されていたと伝えられています。
平安時代になると、日本の仏像の素材は銅や土などから木が主体になり、前期は1本の木材から頭・体の幹部を彫る一木造(いちぼくづく)り、後期になると分業制作や巨像制作に適した、寄木造(よせぎづく)りや割矧造(わりはぎづく)りなどの木彫技法が発達しました。
〈如来像残欠(にょらいぞうざんけつ)〉(7)は、如来坐像の前面部が残ったもので、まるく穏やかな顔立ちなど、典型的な平安時代後期の様式を示しています。裏側から見ると一材を前後に割って内刳(うちぐ)り(乾燥による干割(ひわ)れを防ぐために木芯(もくしん)を取り除く技法)を施す割矧造りの構造がよくわかります。
〈毘沙門天立像(びしゃもんてんりゅうぞう)〉(8)も平安時代後期に造られた割矧造りの仏像で、兜を着けて右手に戟(げき)と呼ぶ武器、左手には宝塔(ほうとう)を捧げ、足元には邪鬼(じゃき)を踏んでいます。甲(よろい)の文様を彩色ではなく彫刻で表しているのが珍しく、こうした表現は平安時代後期の九州地方で造られた四天王像や毘沙門天像などに多く見られます。
◇ 来世への祈り
平安時代後期、日本の貴族社会では末法(まっぽう)(仏法が廃(すた)れ、悟りを得ることができなくなる時代)に入ったという考え方が広がりました。そのため、人々は西方(さいほう)のかなたにあるとされる阿弥陀如来の極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)することを願い、往生につながる様々な仏事(ぶつじ)を催しました。


尊いお経を未来に残すために、銅や石の筒などに納めて地下に埋める埋経(まいきょう)もそのひとつです。佐賀県の脊振山(せふりさん)経塚(きょうづか)から出土したと推定される〈経筒(きょうづつ)〉(9)には康治(こうじ)元年(1142)の銘文が刻まれています。福岡市東区の筥崎宮の境内から出土した〈瓦経(がきょう)〉(10)も埋経遺物の一種で、四角形の粘土板に『仁王般若経(にんのうはんにゃぎょう)』を刻んで焼き固めたものです。福岡市西区金武(かなたけ)の薬師堂に伝来した〈滑石仏(かっせきぶつ)〉(11)は、柔らかい滑石に如来像や毘沙門天像を線刻したもので、うち1点には治承(じしょう)3年(1179)の年号が記されています。
◇ 中世・近世の仏像
福岡藩黒田家の菩提寺(ぼだいじ)であった崇福寺(そうふくじ)の〈獅子(しし)〉( 12 )は、同寺に安置される木造釈迦三尊像のうち文殊菩薩像の台座であったものです。三尊像は南北朝時代の正平(しょうへい)17年(1362)に院什(いんじゅう)という仏師が周防国(すおうのくに)(現・山口県)の永興寺(ようこうじ)の本尊として造ったものですが、記録から江戸時代初期に黒田氏が譲り受け、崇福寺に移されたことがわかります。
〈荼吉尼天騎狐像(だきにてんきこぞう)〉(13)と〈弁才天坐像(べんざいてんざぞう)〉(14)は、技巧的な細かさを見せる江戸時代の木彫像です。どちらも祈願成就の秘法の本尊とされる女神で、2躯セットで制作されたと思われます。荼吉尼天は稲荷神(いなりしん)と同体とされ、狐に乗って空を飛ぶ姿にあらわされています。
福岡市中央区の水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)に伝来した〈渡唐天神立像(ととうてんじんりゅうぞう)〉(15)は、台座の墨書から享保(きょうほう)元年(1716)に京都仏師の正慶(しょうけい)が太宰府戒壇院(かいだんいん)で「飛梅(とびうめ)の木」を用いて彫ったことがわかります。中国風の衣を着けて梅の枝を持ち、バッグを肩からかけた姿は、菅原道真(すがわらのみちざね)(天神様)が禅の修行のために中国(唐)に渡ったという伝説に基づいています。
福岡市博多区の幻住庵(げんじゅうあん)の〈梵鐘(ぼんしょう)〉(16)は、元禄(げんろく)2年(1689)に香椎宮(かしいぐう)(福岡市東区)の梵鐘として、博多鋳物師(いもじ)の磯野慶貞(いそのけいてい)らによって鋳造され、明治2年(1869)に幻住庵に移されたことが銘文からわかります。その形は朝鮮半島の梵鐘のデザインを取り入れた「和韓混交鐘(わかんこんこうしょう)」と呼ばれるもので、袈裟襷(けさだすき)と呼ばれる縦横の線がなく、龍頭(りゅうず)が単頭であるなどの特徴をもっています。
〈弘法大師坐像(こうぼうだいしざぞう)〉(17)は、像内の墨書から大正2年(1913)に福岡呉服町の仏師・高田又四郎(たかだまたしろう)良慶(りょうけい)が67歳の時に造ったことがわかります。又四郎は江戸時代の福岡仏師に連なる人物で、福岡出身の近代彫刻家・山崎朝雲(やまさきちょううん)の最初の師であったことでも知られています。その作品の特徴は、江戸時代以来の伝統と西洋の写実表現をみごとに融合した点にあり、本像のきりりとした顔にもそうした彼の作風がよくあらわれています。
(末吉武史)◇ 出品一覧
- 菩薩頭 石造・彩色 中国・元~明時代 1点
- 釈迦如来及び両脇侍像 木造・漆箔 中国・明時代 3躯
- 菩薩形坐像 木造・彩色 中国・明時代か 1躯
- 菩薩坐像 銅造・鍍金 朝鮮・高麗時代 個人蔵 1躯
- 誕生釈迦仏立像 銅造・鍍金 奈良時代 天満宮蔵 1躯
- 塑像心木 木造 奈良時代 3点
- 如来像残欠 木造・漆箔 平安時代後期 1点
- 毘沙門天立像 木造・彩色 平安時代後期 個人蔵 1躯
- 経筒 銅製 康治元年(1142) 2口
- 瓦経 土製・焼成 平安時代後期 筥崎宮蔵 一括
- 滑石仏 滑石製 治承3年(1179)ほか 一括
- 獅子 木造・彩色 南北朝時代 崇福寺蔵 1躯
- 荼吉尼天騎狐像 木造・彩色 江戸時代 1躯
- 弁才天坐像 木造・彩色 江戸時代 1躯
- 渡唐天神立像 木造・素地 享保元年(1716) 水鏡神社蔵 1躯
- 梵鐘 銅製・鋳造 元禄2年(1689) 幻住庵蔵 1口
- 弘法大師坐像 木造・彩色 大正2年(1913) 瀧光徳寺蔵 1躯