企画展示
企画展示室2 黒田記念室
没後400年 黒田長政
令和5年7月19日(水)~9月10日(日)

関ヶ原(せきがはら)の戦いにおける活躍により、筑前国(ちくぜんのくに)(福岡県)のほぼ一国を与えられ、福岡藩初代藩主となった黒田長政(くろだながまさ)は、元和(げんな)9年(1623)8月4日、56歳(数え年、以下同)で波乱に満ちた生涯を閉じました。本年は黒田長政が没して400年となる節目の年にあたります。本展では、長政ゆかりの遺品を通し、戦国の世を生き抜いた長政の足跡をたどります。
◆播磨(はりま)姫路(ひめじ)で誕生(1歳)
長政は、黒田孝高(よしたか)(如水(じょすい))と照福院(しょうふくいん)(櫛橋伊定(くしはしこれさだ)娘)の嫡男として永禄(えいろく)11年(1568)12月3日、姫路城(兵庫県姫路市)で誕生し、松寿(しょうじゅ)と名づけられます。父孝高は、御着(ごちゃく)城(兵庫県姫路市)を拠点に播磨国中央部に勢力を張った小寺政職(こでらまさもと)に仕え、小寺姓を付与された一門格の重臣として姫路城を預かっていました。
◆織田(おだ)方への人質となる(10歳)
天正(てんしょう)5年(1577)10月、織田信長(のぶなが)が中国攻めの大将として羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉(ひでよし)を播磨に派遣し、織田方と毛利(もうり)方との戦いが本格化します。父孝高は秀吉に属し中国攻めを助けます。

秀吉の播磨出陣に先立ち、当時、10歳であった松寿は、織田信長に人質として送られ、秀吉の長浜(ながはま)城(滋賀県長浜市)で養育されます。翌6年、信長に謀反(むほん)をおこした荒木村重(あらきむらしげ)を翻意(ほんい)させるため、孝高が有岡(ありおか)城(兵庫県伊丹(いたみ)市)に乗り込み幽閉された際には、黒田家の家臣団は「松寿殿様、長浜に御座候(ござそうろう)上は、疎略に存ぜず、勿論(もちろん)御奉公仕(つかまつ)るべき事」と、一致団結して松寿を守り立てることを誓っています(図3)。『黒田家譜(かふ)』では、信長は孝高の謀反を疑い、松寿の処刑を命じますが、竹中重治(たけなかしげはる)の機転により匿(かくま)われ、一命を取りとめたとされます。
◆初陣(ういじん)(15歳)
元服後は吉兵衛尉(きちびょうえのじょう)長政と名乗ります。天正10年(1582)3月、長政は15歳で初陣を遂げます。秀吉の中国攻めに従軍し、備中(びっちゅう)巣雲塚(すくもつか)城(場所不詳)で敵を討ち取り高名をあげます。これを皮切りに、長政は賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い(16歳)、九州攻め(19〜20歳)、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役(えき)(25〜31歳)、関ヶ原の戦い(33歳)等、戦乱の世から天下統一に向けた数々の合戦で大きな戦功をあげていきます。
◆黒田家の当主となる(22歳)
天正15年(1587)6月、豊臣秀吉の九州国分(くにわけ)により、父孝高が豊前(ぶぜん)国8郡のうち6郡を与えられ、翌16年、中津(なかつ)城(大分県中津市)を築きます。新たに九州の大名となった黒田家は、当初、領内の領主の反発を受け統治に苦慮しました。長政は自ら出陣し鎮圧に努め、城井鎮房(きいしげふさ)を中津城で誘殺します。この時、長政が用いた刀が名物「城井兼光(きいかねみつ)」(史料7)です。同17年には孝高の譲りを受け、黒田家の当主となり、甲斐守(かいのかみ)を名乗ります。
◆朝鮮に出兵(25歳)

文禄元年(1592)から始まる文禄・慶長の役では、黒田家の軍勢5千人を率いて朝鮮に渡海します。当時、長政は水牛(すいぎゅう)の兜(かぶと)(図2)を愛用し、河中での戦闘ではその角先(つのさき)が見え隠れして目印(めじるし)になったと、長政の奮戦ぶりが伝えられています。
◆関ヶ原の戦いで大活躍(33歳)
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、徳川家康(とくがわいえやす)の天下取りに大きく貢献します。6月、出陣する直前に家康の養女栄姫(えいひめ)(家康の姪(めい)、保科正直(ほしなまさなお)娘、忠之(ただゆき)母)を娶(めと)り、家康と強い絆を結びます。本戦では西軍の主力であった石田三成(いしだみつなり)の軍勢を撃破しますが、合戦前には、西軍の大将に担がれた毛利輝元(てるもと)の従弟吉川広家(きっかわひろいえ)に通じ、毛利軍の動きを封じます。また、当時、名島(なじま)(福岡市東区)城主であった小早川秀秋(こばやかわひであき)には東軍への寝返りを促す等、調略でも活躍しました。合戦終了後には、福島正則(ふくしままさのり)とともに毛利軍を大坂(おおさか)城から退去させ、大坂城を接収します。家康に勝利をもたらした長政は、この多大な活躍によって筑前の大半を与えられ、江戸時代260年余続く福岡藩の初代藩主となりました。
長政が死の2日前に残した遺言状(ゆいごんじょう)(図4)では、関ヶ原の戦いにおける黒田家の功績を重臣の栗山利章(くりやまとしあき)・小河正直(おごうまさなお)に詳しく語り聞かせます。関ヶ原の戦いで家康が勝利し、天下人になれたことは父如水(孝高)と自身の活躍によるものだと明言しています。関ヶ原合戦で東軍を勝利に導いたという自負心を人生最期に吐露し、後事を託しました。

◆父を慕い、子を案ずる
長政が晩年嗣子忠之に宛てた手紙(史料16)では、父如水に対する思いが垣間見えます。「如水のよき事を似せ申さるる儀は成り難く候べし。あしき事を似せざる様に心持ち有るべく候」と、如水の優れた点をまねようとしても難しい、悪い点をしないようにすることが肝要だと若い忠之に諭し、父への評価と、息子の行く末を案ずる長政の人柄が偲(しの)ばれます。
(堀本一繁)出品史料一覧
史料名 | 時代 | 所蔵・史料群名 | |
---|---|---|---|
1 | 黒田長政像(複製) | 寛永元年(1624)8月 | 館蔵・黒田家資料 |
2 | 黒田氏家臣連署起請文 | 天正6年(1578)12月吉日付 | 館蔵・黒田家資料 |
3 | 羽柴秀吉知行充行状 | 天正11年(1583)8月朔日付 | 館蔵・黒田家資料 |
4 | 羽柴秀吉朱印状 | (天正12年・1584)3月26日付 | 館蔵・黒田家資料 |
5 | 羽柴秀吉知行充行状 | 天正12年(1584)4月12日付 | 館蔵・黒田家資料 |
〇6 | 黒漆塗桃形大水牛脇立兜 | 桃山時代 | 館蔵・黒田家資料 |
7 | 刀 名物「城井兼光」 | 鎌倉時代末期〜南北朝時代 | 館蔵・黒田家資料 |
8 | 浅野長吉書状 | (天正16年・1588ヵ)8月12日付 | 館蔵・黒田家資料 |
9 | 黒田長政書状 | (天正16年・1588ヵ)正月26日付 | 館蔵・田隅タネ資料 |
10 | 黒田長政知行充行状 | 天正16年(1588)11月5日付 | 館蔵・黒田家資料 先君遺墨(野口家文書) |
11 | 長政公御剱術御巻物 | 慶長5年(1600)3月・5月13日付 | 館蔵・黒田家資料 |
12 | 長政公御鉄砲之書 | 慶長2年(1597)2月・同5年6月付 | 館蔵・黒田家資料 |
13 | 黒田長政覚書(本丸内倉ニ入分覚) | 元和7年(1621)8月6日・同9年7月27日追筆 | 館蔵・黒田家資料 |
14 | 印子金 | 江戸時代初期 | 館蔵・黒田家資料 |
15 | 天正大判 | 桃山時代 | 館蔵・黒田家資料 |
16 | 黒田長政自筆書状 | (元和3年・1617頃)12月11日付 | 館蔵・黒田家資料 |
17 | 大身鎗 名物「一国長吉」 | 戦国時代 | 館蔵・黒田家資料 |
18 | 黒田長政遺言覚 | 元和9年(1623)8月2日付 | 館蔵・黒田家資料 |
〇は国指定重要文化財