企画展示

企画展示室3
タイ陶磁器展

令和5年9月5日(火)~ 11月5日(日)

はじめに
写真1 鉄絵魚文盤 底部片群 【15世紀・スコータイ窯】 (Charnvit Kasetsiri 資料)
写真1 鉄絵魚文盤 底部片群
【15世紀・スコータイ窯】
(Charnvit Kasetsiri 資料)

 本展示では、令和2(2020)年度に寄贈を受けたタイ産陶磁器をとりあげ、日本とタイの関係を掘り下げます。

 福岡の歴史とタイがどう関係するのか、不思議に思う方も多いかもしれません。実は、中世に国際貿易都市として栄えた博多からは、貿易により持ち込まれたと考えられる、14世紀後半~17世紀前半(南北朝時代~江戸時代)のタイ産陶磁器が出土しているのです。

 寄贈いただいたのは、タイ王国タマサート大学名誉教授で、第23回 福岡アジア文化賞学術研究賞を受賞された、Charnvit Kasetsiri(チャーンウィット・カセートシリ)氏です。チャーンウィット氏は、アユタヤ史やタイの近現代史を専門とする歴史学者であり、その傑出した研究成果のみならず、それらを教育に取り入れ、活発な啓蒙活動を行ったことが国際的に高く評価されました。同氏は、博多遺跡群の出土品を通じて福岡市とタイとの交流をお知りになり、友好の継続に役立ててほしいと、所有するタイ産陶磁器を寄贈してくださいました。

 本展示では、福岡市美術館が所蔵する本多コレクションおよび博多遺跡群出土の考古資料もあわせて紹介します。タイ産陶磁器の美しさを楽しんでいただくだけでなく、タイと福岡とのつながりを広く知っていただければ幸いです。

陶磁器生産のはじまり
写真2 黒釉盤口長頚 【11〜12世紀】 (福岡市美術館蔵)
写真2 黒釉盤口長頚
【11〜12世紀】
(福岡市美術館蔵)

 タイでは、カンボジアに興(おこ)り、タイやラオスを支配域としたアンコール王朝(クメール王朝)の影響をうけて、10世紀頃から陶器の生産が始まりました。これをクメール陶器といいます。クメール陶器は中国やインドの影響を受けながら発展し、12~13世紀頃に最盛期を迎えました。淡い緑色や黄色に発色する灰釉陶器のほか、黒褐色の釉薬をかけるもの、1つの器に2つの釉薬を用いるものなどがあります。鋭い凸線や刻線により形や文様を表現する特徴は、金属器の模倣と捉えられています。11~12世紀頃につくられた「黒釉盤口長頚瓶」(写真2)はクメール陶器を代表する器の1つです。

タイの主な窯跡ほか
タイの主な窯跡ほか
写真3 シーサッチャナライ窯産陶磁器 ※中央の3点は「モンタイプ」【15〜16世紀】(Charnvit Kasetsiri 資料)
写真3 シーサッチャナライ窯産陶磁器
※中央の3点は「モンタイプ」
【15〜16世紀】
(Charnvit Kasetsiri 資料)

 11世紀頃には、中部タイのシーサッチャナライ窯群においても陶磁器の生産が始まりました。初期には釉薬をかけない焼き締め陶器がつくられましたが、13~14世紀頃には、粗い石粒を含む暗灰色の素地に黒褐色の厚い釉薬をかけた製品がつくられました。クメール陶器の影響が残り、光沢があまりないこれらの一群は、発掘調査の成果をふまえ「モンタイプ」(「Most original nude」)と呼ばれ(写真3中央)、後の時代につくられた鉄絵や青磁などとは区別されています。口縁部同士や底部同士を重ね合わせて窯詰めされ、焼かれたことがわかっており、北部タイの古い窯跡(サンカンペン窯やパヤオ窯など)の製品と特徴が共通することから、技術的な交流があった可能性が指摘されています。

博多への到来

 14世紀以降、タイでは、アンコール朝の支配を脱したスコータイ朝、アユタヤ朝のもと、中部タイを中心に窯業が盛んになり、15~16世紀頃に最盛期を迎えます。スコータイ窯では、白い石粒を含む黒味の強い素地に白化粧土をかけ、鉄絵で魚や草花などの文様を描く盤や皿、瓶や人形などがつくられました(写真1)。一方、シーサッチャナライ窯では、青磁や褐釉、白釉だけでなく、鉄絵や白釉と褐釉のかけわけ等さまざまな技法で、瓶、壺、盤、碗、水注(すいちゅう)、水滴(すいてき)、合子(ごうす)、置物などが生産されました(写真3)。また、15世紀中頃になると、アユタヤ近郊にあるメナム・ノイ窯で、輸出する物産をいれる容器として黒褐釉四耳壺(しじこ)が盛んに生産されました。

 博多遺跡群では、14世紀後半から17世紀前半にかけて、スパンブリ地方の焼き締め陶器、スコータイ窯の鉄絵の盤や瓶、シーサッチャナライ窯の青磁や褐釉の小瓶、メナム・ノイ窯の四耳壺、アユタヤ周辺で焼かれたハンネラ土器などが出土します(写真4)。これらのタイ産陶磁器は、どのように博多にもたらされたのでしょうか。

写真4 博多遺跡群出土タイ陶磁 ※縮尺不同 【15〜16世紀】(福岡市埋蔵文化財センター蔵)
写真4 博多遺跡群出土タイ陶磁
※縮尺不同
【15〜16世紀】
(福岡市埋蔵文化財センター蔵)

 中国では、14世紀後半に、元から明へ王朝が交代します。明は、中央集権や治安の維持を理由に、16世紀中頃まで、明と君臣関係を結んだ国に限定して貿易を行う海禁(かいきん)政策を実施しました。これに応じた琉球(りゅうきゅう)は14世紀後半には明に朝貢を行い、東南アジア各国から交易を通じて入手した胡椒(こしょう)、蘇木(そぼく)などを中国に進貢し、中国から入手した中国陶磁等を東南アジアに転売する中継貿易を始めます。東南アジアや中国からの物産が集積する琉球には、日本の商人も集まったことが記録に残っています。このことから、博多遺跡群から出土するタイ産陶磁器の多くは、博多の商人たちが琉球から入手した可能性があります(※)。

写真5 北部タイ産 壺 ※縮尺不同【15〜16世紀】(Charnvit Kasetsiri 資料)
写真5 北部タイ産 壺
※縮尺不同
【15〜16世紀】
(Charnvit Kasetsiri 資料)

 この頃のタイ産陶磁器は、ベトナム産陶磁器とともに、東アジアでの流通量が増加し、東南アジアとの交易の玄関口であった琉球だけでなく、博多や対馬(つしま)、九州本島各地、さらには15世紀後半以降に日明貿易の中心となる堺などでも出土します。遺跡の出土品をみると、ベトナム産陶磁器には青花や青磁、白磁などの商品としての器がみられるのに対し、タイ産陶磁器には輸送用のコンテナ容器が多い傾向があります。このことから、当時の日本は、ベトナムには商品としての陶磁器を、タイには陶磁器の中の内容物を求めたことが推測されます。

 16世紀後半になると、ヨーロッパ諸勢力の東南アジア進出や明王朝の海禁政策の緩和により、琉球はこれまでどおりの貿易が続けられなくなり、琉球を集積地とした中継貿易は終わりを迎えます。南蛮船は日本にも来航し、鎖国が完成する17世紀前半まで、海外との貿易に関心の高い各地の戦国大名が、直接東南アジア諸国やポルトガルなどとの私貿易にのりだしました。 このようにして日本にもたらされたタイ産陶磁器のうち、シーサッチャナライ窯の鉄絵合子やスコータイ窯の鉢や壺、ハンネラ土器の壺や蓋などの一部は、その後、茶道具の香合(こうごう)や水差し、建水(けんすい)などに転用され、現在まで名品として伝えられているものもあります。記録によると、17世紀初頭には「宋胡禄(すんころく)」(シーサッチャナライ窯の製品が輸出に向けて集積したスワンカローク郡に由来)と呼ばれてもてはやされたことがわかっています。

おわりに

 タイにおける陶磁器生産の歴史はまだ解明の途上にあります。たとえば、タイ北部には発掘調査が及んでいない窯が多く、生産の状況はよくわかっていません。

 消費地の遺跡から出土する貿易陶磁がどこで生産されたものなのかを考えるためには、窯跡などの生産地で発見される資料が重要です。これから調査研究が進展し、タイにおける陶磁器生産の全体像が明らかになれば、国内の遺跡出土資料のなかからタイ産陶磁器が新たに見いだされる可能性もあります。今後の調査研究の深化が楽しみです。

(松尾奈緒子)

※東南アジアと博多の直接交渉があった可能性も想定されています。

展示資料

( )内は所蔵先[「博」福岡市博物館、「美」福岡市美術館、「埋」福岡市埋蔵文化財センター ]

彩色土器 脚台付鉢(博)/黒陶刻線文広口壺(美)/彩陶鉢(美)/黒釉盤口長頚瓶(美)/灰釉蓮の実摘み合子(美)/黒褐双耳瓶(博)/小壺(博)/褐釉壺(博)/褐釉広口壺(美)/印花象文大壺(美・埋)/鉄絵花文瓶(美)/鉄絵魚文盤(美・博・埋)/鉄絵陶磁底部片群(博)/鉄絵魚文碗(埋)/青磁刻花蓮華文双耳瓶(美)/青磁双耳瓶(博・埋)/褐釉陶器瓶(埋)/褐釉瓢形双耳小壺(美)/小瓶(博)/青磁小壺(博)/鉄絵小壺(博)/鉄絵合子(博)/双耳壺(博)/陶器壺(埋)/ハンネラ土器壺蓋(埋)/鉄絵合子(博)/ハンネラ土器壺(埋)/青磁壺(博)/双耳壺(博)/陶器壺(埋)

※館蔵資料については、鶴見大学教授矢島律子先生、田中克子氏に指導いただきました。記して感謝いたします。

福岡市博物館
〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
TEL:092-845-5011 FAX:092-845-5019

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