企画展示
企画展示室1
黒田家名宝展示ふたたび ―書跡・絵画・文芸編―
令和6年4月2日(火)~6月2日(日)
この展示は約過去5年の間に黒田家名宝展示で公開した資料の中で、福岡藩主の書跡・絵画・文芸関係のものをあらためて紹介するものです。もとは名宝展示として企画展示室2黒田記念室の一コーナーで、一つのテーマごと、別々で展示したものです。今回企画展示室一部屋を使用し、一堂に集めて展示します。それによって、各時代の藩主の文化活動の移り変わりやつながりなどを、藩政などの背景を含めて、改めてご紹介します。
黒田如水之和歌と文芸
福岡藩祖(ふくおかはんそ)・黒田孝高(よしたか・官兵衛・後の如水・1548~1604)は知勇兼備(ちゆうけんび)の武将として、織田信長(おだのぶなが)や豊臣秀吉(とよとみひでよし)の傘下で活躍(かつやく)します。彼は幼いころから和歌を学び、成長後は当時も盛んだった連歌(れんが)にも親しみました。慶長(けいちょう)5(1600)年の筑前(ちくぜん)入国(にゅうこく)後は、息子の長政(ながまさ)(1568~1623)や家族と、大宰府(だざいふ)の連歌師(れんがし)を交えた連歌会を催しました。ただ現在黒田家に残る如水の和歌は、古典的な文芸作品というより、大名として家臣の上に立つ者が、心得ておくべき教訓(きょうくん)を読み込んだものが多くのこされています。
福岡藩主の奉納・興行連歌
如水は一時大宰府に隠棲(いんせい)し、大宰府の連歌屋を復興しました。有名なのは、如水の「松むめ(梅)や」で始まり、「福岡」という地名が最初に現れる「如水夢想之連歌(じょすいこうむそうれんが)」で、初代藩主長政一族の連歌です。如水死後も福岡城内での正月の連歌会は年中行事となり、連歌好きの二代藩主忠之(ただゆき)(1602~54)の時代には連歌会が年3回も催(もよお)され、連歌会に忠之自らも一人の読み手として登場しますが、次第に連歌師に代作させ、会も儀式的なものになります。忠之を継いだ3代藩主光之(みつゆき)(1628~1707)は、年1回の公式連歌会「松の連歌」を定めました。
黒田主光之の二つの肖像
3代藩主光之には、衣冠束帯(いかんそくたい)の大名・藩主の正装(せいそう)姿と、頭巾(ずきん)をかぶり、白餅紋(しろもちもん)の羽織着の膝立でくつろいだ姿の、二つの肖像があります。光之は息子の綱政(つなまさ)(1659~1711)に元禄(げんろく)元(1688)年、家督(かとく)を譲(ゆず)ります。福岡で死去する際には江戸にいる綱政へ、福岡藩の名誉である長崎の警備の役を怠らず、孫の吉之を藩主として厳しく教育するように遺言する一方で、お互いに立場が違うため、縁遠(えんどお)くなった父子の間を回復しようと願う手紙も残されています。また四男長清(ながきよ)にも、いままでの孝行を謝(しゃ)する後の別れの手紙を残しました。
貝原益軒と東軒夫人の書跡
黒田資料には、元禄文化の時代の福岡藩の儒学者で、様々な学問にも精通した貝原益軒(かいばらえきけん)(1630~1714)の著作や、その夫人・東軒(とうけん)(江崎氏)の書跡が残されています。益軒の作品は、上に立つ武士の道を説いたもので、綱政時代に藩に呈されています。綱政は支藩(しはん)直方(のおがた)藩主でしたが兄・綱之(つなゆき)廃嫡(はいちゃく)後に後継ぎとなった人物です。益軒夫人は、楷書に優れ、益軒の著作も清書しています。
黒田綱政の蕪・山水・鶺鴒図
4代藩主の綱政は、若いころから、絵画を狩野派(かのうは)に学び、その絵は現在、手本に忠実、真面目(まじめ)な画風と評されます。彼の作品には、藩主として、京都の福岡藩の御用商人と互いの絆(きずな)を強めるべく下賜(かし)したものが残されています。一方で自作の鶺鴒(せきれい)図には、普通は、他に明かさない自分の諱(いみな)「綱政」を大書した豪快(ごうかい)なものもあります。なお、彼は江戸で活躍した狩野派(かのうは)の絵師・狩野昌運(しょううん)を招き、御用絵師(ごようえし)として活躍させました。
黒田継政の肖像と自筆和歌
6代藩主継高(つぐだか)(1703~75)は直方藩主・長清の子で、従兄(いとこ)の5代藩主宣政(のぶまさ)(1685~1744)が病気となったため、養子に迎えられ、従兄(吉之)(よしゆき)の娘・幸(こう)(1708~78)を夫人に迎え、50年にわたり藩主の座にありました。文化面では和歌を好み、京都の公家(くげ)・烏丸光胤(からすまるみつたね)に歌道を本格的に学びました。自作自筆の和歌も多く残され、中には自画した箱崎松原の絵に、筑前の繁栄(はんえい)の和歌を読み込んだ「箱崎松図」があります。没後は家臣が歌集をまとめました。
黒田継高夫人・圭光院の和歌と書
継高の息子重政(しげまさ)は藩主に就つく前に死去し、一橋(ひとつばし)家から治之(はるゆき)(1752~81)が養子に迎えられました。夫・継高死後に圭光院(けいこういん)となった幸ですが、母としては治之に福岡藩主として如水・長政を敬(うやま)うよう教育し、家存続のため血脈(けつみゃく)を守るよう紙で願いました。家老(かろう)たちへは継高の意志として領内に生子(うぶこ)(赤子)養育を助ける制度を作るよう遺言しました。
黒田治高の書と肖像
8代藩主治高(はるたか)(1754~82)は四国の大名京極(きょうごく)家から養子となりましたが、藩主となってわずか半年で死去しました。後の明治時代に、京極家時代の治高に仕えた医家の子孫が、彼の書跡を黒田家に寄贈しました。雪は豊年になる贈り物(来年も水が豊富で豊年となる)、という意味の書は、幼いころから領民の生活に関心があったことがうかがえます。治高が江戸屋敷に夜中に非常招集(ひじょうしょうしゅう)をかけた際に、集まるのを渋(しぶ)った藩士たちを諭した逸話(いつわ)も記されています。
博多湾の風景、志賀島の金印発見
9代藩主斉隆(なりたか)(1777~95)は11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり)の弟で、一橋家から養子に入った人物です。学問を好み、成長し筑前に帰ると何度も領内を巡検(じゅんけん)しました。現在、彼が藩主だった頃の福岡城下が描かれた図巻(ずかん)が残されています。さて、天明(てんめい)4(1784)年に志賀島(しかのしま)で金印(きんいん)が発見されています。斉隆の時代は、修猷館(しゅうゆうかん)・甘棠館(かんとうかん)の二つの藩校ができ、金印発見は、学問隆盛の時代の幕明けの象徴としても、記憶されました。
黒田斉清と本草正画譜
10代藩主斉清(なりきよ)(1795~1851)は、父・斉隆の死により、僅わずか1歳で藩主となり、幼いころ江戸に移り成長しました。早くから蘭学(らんがく)など西洋の学問を好み、とくに植物学や鳥類学を専門とし、長崎警備のため長崎に出向いた時に、オランダ出島商館(でじましょうかん)の医師シーボルトと学術問答をかわし、その博学(はくがく)ぶりに驚かれています。斉清は薩摩(さつま)藩主島津重豪(しまづしげひで)とも学問の上で交流があり、その縁で重豪の子・長溥(ながひろ)(1811~87)を養子に迎え、家督を天保(てんぽう)5(1834)年に譲りました。
黒田長溥の書画と本草図
長溥も蘭学などを好み、幕末から明治時代初めの自作のスケッチ「本草図(ほんぞうず)」には、チューリップなど西洋風の球根類の他,ジャガイモ、豆まめ類など欧米から渡来した植物が描かれています。一方で竹図など水墨画に優れ、明治(めいじ)2(1869)年の隠居後も、漢詩や書跡の作品を残しています。
黒田長知と夫人の和歌
長溥は養子に迎えた12代長知(ながとも)(1838~1902)とともに、幕末・維新(いしん)期の全国的政治や藩政に活躍することとなります。長知は和歌を好み、養父(ようふ)長溥とともに、幕末に亡くなった支藩秋月(あきづき)藩主黒田長元(ながもと)を悼(しの)んだ作品が残っています。長知夫人も和歌を好み和歌や古典風文芸を残しています。
(又野誠)【展示資料一覧】
(作品保護のため一部展示替えをします)
- 黒田如水和歌短冊 1冊
- 如水夢想之連歌 1帖
- 忠之公御奉納二千句 1帖
- 光之公興行山河連歌 1巻
- 黒田光之像 1幅
- 宗真大居士像 1幅
- 黒田光之遺言覚 1通
- 黒田光之遺言 2通
- 始好佛者論 1巻
- 事天地説 1巻
- 日省編・為善説 2巻
- 黒田綱政山水図 1幅
- 黒田綱政鶺鴒図 1幅
- 黒田綱政蕪図 1幅
- 筥﨑八幡夢想 1通
- 箱崎松図 1幅
- 黒田継高和歌「里紅葉」 1幅
- 黒田継高和歌「寄水祝」 1幅
- 先君遺草 8冊の内
- 圭光院自筆和歌・紙細工 2点
- 黒田幸書状 1通
- 圭光院遺言 1通
- 黒田治高像 1幅
- 江戸幕府老中書付 1通
- 黒田治高書 1幅
- 黒田斉隆像 1幅
- 福岡図巻 1巻
- 志賀島金印之詩 1幅
- 黒田清譜・同事蹟 2冊
- 本草正画譜 1冊
- 黒田斉溥竹図 1幅
- 本草図 3枚
- 黒田長溥書 1幅
- 黒田長溥臨写帖 1冊
- 黒田長溥・長知御寄合書 1幅
- 黒田長知書 1幅
- 黒田長知和歌 1点
- 黒田長知夫人文芸作品 1点
展示資料はすべて本館所蔵の黒田資料です。
(ご協力いただいた方)黒田長高
(参考文献)福岡市博物館特別展図録『福岡城築城400年記念 黒田家・その歴史と名宝展』(平成14年 福岡市博物館)、同『特別展 黒田長政没後400年 黒田侯爵家の名品 知らざれる黒田家「家宝」の近代史』(令和5年 福岡市博物館)