企画展示
企画展示室2
黒田家名宝展示ふたたび ―甲冑・武芸書編―
令和6年4月9日(火)~6月9日(日)

この展示は約過去5年の間に黒田家名宝展示で公開した資料の中で、福岡藩主の甲冑や武芸書関係のものを、あらためて紹介するものです。これらは企画展示室2黒田記念室の一コーナーで、一つのテーマごとに、別々で展示したものです。今回企画展示室一部屋を使用し、一堂に集め紹介します。各時代の藩主の甲冑や武具、武芸書をじっくりご覧いただくだけでなく、それらの移り変わりや相互のつながり、合わせて藩政などの時代背景などを改めてご紹介します。
黒田家御旗御幕之図と御旗書
黒田家は孝高(よしたか・官兵衛、後の如水 じょすい・1546~1604)の時に織田信長(おだのぶなが)の傘下(さんか)に入り、以後は、羽柴秀吉(はしばひでよし)の配下として中国攻めに参加しました。天正8(1580)年、戦功により独自の軍旗制定を許された孝高は、上下を黒色、名かを白色とした旗を六流仕立てました。孝高は豊臣秀吉から豊前中津(ぶぜんなかつ)六郡を拝領した後、旗の数を12流としました。孝高から家督を継いだ長政(ながまさ)(1568~1623)は関ヶ原合戦の戦功で筑前(ちくぜん)国ほぼ一国を拝領した後、軍旗を20流に増やすなど、その数は黒田家の発展を象徴(しょうちょう)しています。
道ト居士像と帽子形兜
筑前国の領主(りょうしゅ)となった長政は、如水と親しかった京都大徳寺(だいとくじ)の禅僧(ぜんそう)・春屋宗円(しゅんおくそうえん)を師と仰(あお)ぎました。長政が春屋に参禅する姿は、道卜居士像(どうぼくこじぞう)として残されました。 また長政は春屋が被った僧の帽子を模した兜を作っています。帽子形(もうすなり)兜と呼ばれ、黒田家の名宝を記した「黒田家御重宝故実(くろだけごじゅうほうこじつ)」にも記されました。ただ元和(げんな)元(1615)年大坂夏の陣以降にできたため、合戦で使ったことはないと記されます。この兜は重さが3.2キロもあり、実戦(じっせん)向きとは言えません。むしろ長政はこの兜を、師に学んだ禅の境地(きょうち)を忘れないために造ったのでしょうか。
黒田長政の遺言と大判・印子金

元和9年長政は死去しますが、息子たちに福岡城内の本丸(ほんまる)に収められていた莫大な軍資金(ぐんしきん)を残したことが遺言に記されています。そのうち大判(おおばん)は主に軍資金や贈答品に使われた世界最大の金貨で、ほかに船の形をした金塊(きんかい)・印子金(いんすきん)がありました。今も一枚だけ残る天正大判には、豊臣氏の滅んだ元和元年という年号と長政の名前と花押(かおう)(サイン)が書かれるなど貴重です。
黒田忠之の肖像と一の谷形兜
2代藩主忠之(ただゆき)(1602~54)は若いころは、家臣と対立し御家騒動(おいえそうどう)を起こすなど気性が激しかったと伝えられますが、晩年は威厳があったとされます。彼は父・長政の一谷形(いちのたになり)兜を模(も)した兜を2頭使ったとされます。そして1頭は忠之所用(しょよう)の桶側胴具足(おけがわどうぐそく)とともに、残りの1頭は幕末の藩主長溥(ながひろ)(1811~87)の具足とともに伝わっています。3代藩主光之(1628~1707)も一の谷形兜の写しを造ったと「黒田家御重宝故実」には記されます。このように一の谷形兜は黒田家にとって初代長政の関ケ原合戦での武功と徳川幕府への忠節(ちゅうせつ)の証でした。
黒田忠之の鯰尾形兜と鶉巻五枚胴具足
忠之には、もう1領、甲冑が残されます。兜は縦長で横鰭(よこひれ)のある独特の造形(ぞうけい)の鯰尾形兜(なまずおなりかぶと)です。この兜はじつは明治時代ごろは、5代藩主宣政(のぶまさ)(1685~1744)の兜として扱われていました。しかし鶉巻(うずらまき)五枚胴具足が納められた櫃(ひつ)の中の記載から、忠之が原城攻めで着用したことがわかりました。胴の鶉巻とは鳥の鶉の羽に似た皺(しわ)模様のことです。籠手(こて)はその色合いから御虎手(おんとらて)といわれました。
黒田宣政の甲冑と新続家譜の事績
5代宣政(のぶまさ)の時代は、天下泰平(てんかたいへい)の世であり、現在残る彼の所用甲冑の兜は、室町(むろまち)時代風の復古調(ふっこちょう)タイプの筋兜です。鉢の眉(ま)びさしに獅子噛(しかみ)の浮彫があり、前立(まえたて)を装着する金具も残っています。かつては父・綱政(つなまさ)の兜に倣ならった豪華な金泥塗の前立があったのでしょうか。一方、胴は初代黒田長政の所用した桶側胴(おけがわどう)にあやかった造りです。この彼の短い藩主在任中の事績は、「黒田(くろだ)新続家譜(ぞくかふ)」に記されています。
黒田治之の甲冑と肖像
7代藩主治之(はるゆき)(1752~81)は、11歳のときに徳川将軍家の一門・一橋家(ひとつばしけ)から6代藩主継高(つぐたか)の養子に迎えられた人物で、治之所用の少年用の甲冑が残されています。筋兜(すじかぶと)で鍬形(くわがた)の古風(こふう)な筋前立がつき、胴は萌黄(もえぎ)色の素掛威(すかけおどし)で、杏葉(ぎょうよう)という胸飾りも古風なものです。実家の一橋家から持参したことが、櫃の中に記されていました。いかにも少年用の明るい色合いの甲冑で、兜の吹返(ふきかえし)、前立、籠手など、いろいろなところに黒田家の白餅紋(しろもちもん)が付いています。この紋は黒田家の表紋で、旗指物や船印につくられます。一橋家が武功の家・黒田家へ養子に出す際に、張り切って作った様子がうかがえます。
黒田長政の砲術相伝書
黒田長政は若いころ、個人的に剣術や砲術を学んだことで知られ、特に鉄砲の射撃に優れていました。かれが学んだのは細川忠興(ほそかわただおき)や徳川家康(とくがわいえやす)に仕えた稲富一夢(いなとみいちむ)という砲術家でした。一夢が長政に出した相伝書(そうでんしょ)「御鉄砲之書(おんてっぽうのしょ)」が残っています。長政は、個人の技術だけでなく、数多くの合戦に参加した実戦の経験から、軍団(ぐんだん)としての鉄砲の運用に優れていました。関ヶ原合戦の時には、石田三成(いしだみつなり)麾下(きか)の猛将(もうしょう)・島左近(しまさこん)の攻撃を、側面にひそかに回した鉄砲隊の一斉射撃(いっせいしゃげき)で止め、撃退(げきたい)したことからもうかがえます。その場面は黒田家に残された関ケ原戦陣図屏風にも描かれています。
福岡藩主の馬術書
また長政は、若槻流(わかつきりゅう)馬術を学びその相伝書も残りますが、それらには馬の乗り方だけではなく、馬の医術(いじゅつ)や飼育方法(しいくほうほう)なども記され、大名として、軍事に必要な、馬についての総合的な研究をしていたことがうかがえます。18世紀の8代藩主の治高(はるたか)(1754~82)は、若い頃に大坪流(おおつぼりゅう)馬術をまなんで免許を得ています。治高は、四国の大名京極家(きょうごくけ)から養子に入り、藩主就任後すぐに亡くなった人物のため、残された資料は少なく、この馬術書は黒田家にとって貴重です。また11代藩主長溥が、養子にきて間もないころ、家臣の馬術師範(ばじゅつしはん)・福山(ふくやま)氏から学んだことがわかる馬術書も残されています。平和な時代でも、大名にはその地位に相応(ふさわ)しい乗馬技術を学ぶことが必須だったことがうかがえます。
黒田家伝来の武芸書
3代藩主光之の時代の武芸書として、彼の息子の誰かが家臣高田氏から受けた豪華(ごうか)な十文字鑓(じゅうもんじやり)の相伝書が伝わっています。光之夫人は、当時幕府から九州の抑(おさ)えと重視(じゅうし)された小倉藩小笠原(こくらおがさわら)家から輿入(こしい)れしており、同藩には当時、幕府にまで名前の聞こえた槍術の名人高田又兵衛(たかだまたべえ)がいました。同時代の剣術書では、光之の四男の長清(ながきよ)が、若いころに家臣・有地(ありち)氏から贈られた新陰流(しんかげりゅう)の絵入りの豪華な免許が残されています。剣技の型を絵で表したもので、全部で10巻の豪華な巻物です。黒田家では藩主や一族は幕府・将軍に認められた武芸を学ぶことが、通例化していたようです。
(又野誠)【展示資料一覧】

(作品保護のため一部展示替えをします)
- 御旗御幕之図 2枚
- 御旗書 2巻
- 黒田家譜・首巻 1冊
- 関ケ原戦陣図屏風(左隻) 1隻
- 黒漆塗帽子形兜 1頭
- 道卜居士像 1幅
- 黒田家御重宝故実 1冊
- 黒田家譜(長政省吾) 1冊
- 本丸内倉ニ入分覚 1通
- 金銀道具之帳控 1通
- 印子金 5顆
- 天正大判 1枚
- 黒田忠之像 1幅
- 銀泥塗一の谷形兜・茶糸威五枚胴具足 1領
- 銀泥塗一の谷形兜 1頭
- 鯰尾形兜・鶉巻紺糸威五枚胴具足 1領
- 鉄錆地六十二間筋兜・紺糸威二枚胴具足 1領
- 黒田宣政像 1幅
- 黒田新続家譜(宣政記) 4冊
- 黒田治之像 1幅
- 鍬形前立十六間筋兜・萌黄糸素掛威桶側 胴具足 1領
- 御鉄砲之書 15冊2巻の内
- 若槻流馬術書 10点の内
- 大坪流馬術書 7冊の内
- 大坪本流常馭手綱目録 1巻
- 兵法御書物 9巻の内
- 十鎌法 3巻の内
- 大山兼元 1口
- 鑓 当麻 1口
展示資料はすべて本館所蔵の黒田資料です。
(ご協力者)黒田長高
(参考文献)『福岡市博物館所蔵 黒田家の甲冑と刀剣』(平成13年)、福岡市博物館特別展図録『福岡城築城400年記念 黒田家・その歴史と名宝展』(平成14年福岡市博物館)