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企画展示

企画展示室1
戦争とわたしたちのくらし33

令和6年6月4日(火)~8月4日(日)

はじめに
灯火管制カバー
灯火管制カバー

 昭和20年(1945)6月19日深夜から翌日未明にかけて、アメリカ軍の長距離爆撃機B-29の大編隊から投下された焼夷弾により、福岡市の中心部は焼け野原になりました。特に、博多部は甚大な被害をうけました。福岡市は、この日を「福岡大空襲」の日として戦災死者の追悼を行っています。福岡市博物館では、平成3年から6月19日前後に企画展示「戦争とわたしたちのくらし」を開催し、戦時期の人びとのくらしのあり方を、さまざまな観点から紹介してきました。

 33回目となる今回は戦争の時代の防空を紹介します。第一次世界大戦以降注目が高まった空襲への備えとして、直接戦闘に参加しない銃後の国民も、行政機関が作った防空計画をもとに組織化され、日ごろから防空訓練を行っていました。

 空襲という脅威にさらされた時代の資料にふれることで、戦争と平和を考える機会になれば幸いです。

防空への注目

 大正3年(1914)から7年にかけて行われた第一次世界大戦では、航空機を用いた上空から目標への攻撃(空襲)がはじめて行われます。空襲は、軍事拠点だけでなく生産拠点や都市への攻撃を可能とし、直接戦闘に参加しない国民も攻撃の対象とする点において、戦争の継続を難しくさせる有効な手段であると認識されました。第一次世界大戦の終結後は、空襲への対応策である防空の重要性が高まりました。

ポスター(国民防空展)
ポスター(国民防空展)

 空襲の影響は広い範囲に及ぶと考えられたため、防空事業は軍と国民が協力して行う必要がありました。一方で大正12年に発生した関東大震災では東京、京浜地区が火災によって大きな被害を受け、東京府東京市および周辺5郡は軍隊が治安維持を行いました。これをきっかけに陸軍では大規模災害時における軍、行政機関、国民の一体的な防災体制の必要性が高まります。昭和時代になると軍、行政機関、住民共同の防空訓練が大阪、名古屋などの大都市で実施されました。昭和6年(1931)7月の関門及北九州防空演習の際には、福岡市および周辺地域でも演習が行われます。

 昭和6年9月の満州事変の勃発から日中戦争、太平洋戦争と、日本は「15年戦争」の時代に入ります。大都市への空襲が現実味を帯び、防空への関心はいっそう高まりました。

「国民防空」の組織

 防空は軍隊が行う「軍防空」と軍以外の者が行う「国民防空」の二つがあります。「軍防空」は、敵航空機の侵入を防ぎ軍事拠点を防衛することを目的としました。一方で「国民防空」は空襲の被害を最小限に抑えることを主眼とします。

 直接戦闘に参加しない国民は、灯火管制の実施、空襲時の消防、防毒、救助活動などを組織的に行うことが求められました。福岡では、昭和9年(1934)に県と陸軍が協議し、各市町村に「国民防空」のための組織として防護団を編成することになり、福岡市でも同年に防護団が結成されました。福岡市防護団には本部と地域ごとの分団があります。団員は住民のほか現役を離れた軍人、青年団員、消防組員で構成されました。防護団は訓練を通じた防空技術の向上と他の住民への指導を行いました。

 昭和14年に防空を目的とする新たな団体として警防団が設置されました。警防団は、職務が重なる部分があった防護団と消防組を統合したもので、地方長官が設置し、警察が指揮監督する組織です。警防団の成立で、「国民防空」は警察の管轄に置かれることになりました。

 防護団や警防団と連携する、住民による小規模な組織もつくられました。昭和13年に編成された家庭防空組合は、5戸から15戸を一つの組合とするもので、防護団と連携し「国民防空」の末端組織として機能します。昭和15年に地方行政の補助機関として町内会· 部落会が作られ、その下部組織として10~20戸毎に隣組が編成されると、家庭防空組合の機能は隣組に統合されました。

防空訓練

 「国民防空」に関する基本的な法律である防空法は、昭和12年(1937)3月に成立しました。この法律は防空の内容を灯火管制、消防、防毒、避難および救護、監視通信と定めています。太平洋戦争開戦直前の昭和16年11月に改正され、空襲による火災に対する応急防火が義務とされました。さらに、昭和18年10月に再び改正され、火災対策として建物疎開が新たに追加されます。大小さまざまな規模で行われた防空訓練では、敵機の監視から防空警報、灯火管制、防火・消火、防毒、救護など、各種の防空活動を練習しました。

消火訓練(バケツリレー)
消火訓練(バケツリレー)

 飛来する敵機の目印となるような地上の灯りを少なくするのが灯火管制です。灯火管制は空襲の危険度に応じて警戒管制と空襲管制の二種類があります。訓練の際には、空襲の危険度に応じて、警戒管制時の減光と空襲管制時の遮光を行いました。一般家庭では、照明に黒い布で覆いをかけたり、市販の灯火管制用カバーを購入したりして灯火管制に取り組みました。

 防空訓練では空襲によって生じる火災の予防や消火も行います。本格的な消火作業は消防組や警防団の役割であるため、一般国民は初期消火や火災発生時の延焼を防止することを目的とした防火を担当することになりました。実際の訓練では空襲前の天井板や障子の取り外し、バケツリレーなどが行われました。

 毒ガスに対する訓練も実施されます。毒ガスは大正14年(1925)に国際条約で使用が禁止されていましたが、日本では毒ガス弾が投下されることを想定し、外気を遮断した防毒室の設置や、防毒マスクの着用が呼びかけられました。

福岡大空襲と戦後の街

 太平洋戦争末期の昭和20年(1945)には、米軍による日本の都市への空襲が本格化しました。福岡市は九州地方の行政、商業の中心地であることから空襲の目標にされます。6月19日、マリアナ諸島を出発した米軍機220機は、午後11時から未明にかけて、天神地区と博多地区を目標として大量の焼夷弾を投下し、市街地は焼け野原になりました。『福岡市史』によれば、被災面積は3・77㎢、被災人口は6万599人、死者902人、 負傷者1078人、行方不明者244人でした。ただし、これらは判明しているものだけで、被害はより大きかったと考えられます。

写真(大濠公園・福岡城趾空撮)
写真(大濠公園・福岡城趾空撮)

 戦局は終戦に向かっていき、8月15日にポツダム宣言の受諾が国民に伝えられます。9月2日には連合国との降伏文書への調印が行われ、戦争は終わりました。昭和21年1月、福岡市は復興部を設置し、新たな都市計画を決定します。ここから街の復興は本格化しますが、事業は戦後の経済的混乱で規模を縮小せざるを得なくなりました。

 近年、米軍とその関係者が撮影した昭和20年代の写真が博物館に寄贈されました。これらの写真の中には、上空から見た市内各地やがれきが残る市街地を撮影したものがあります。戦後しばらくの間は、街に戦争の影響が残っていたことがうかがえます。街の復興には数年の歳月が必要でした。

(野島義敬)
【主な展示資料】

(名称・年代・作者など)

防空への注目
  • 関門及北九州防空演習記念写真帖 昭和6年 八幡製作所/作成 印刷
  • パンフレット「国民防空に就て」 昭和9年 福岡市防護団/発行 印刷・書冊
  • 雑誌家庭防空 第一輯 昭和13年 国防思想普及会/発行 印刷・書冊
  • ポスター「国民防空展」 昭和時代 内務省/主催 色刷
「国民防空」の組織
  • 昭和9年度防空演習規定 昭和9年 福岡市防護団本部/発行 ガリ版刷・書綴
  • 家庭防空組合の栞 昭和時代 福西防護分団/発行 印刷・書冊
  • 写真(福岡市警防団第九分団) 昭和時代 撮影者不明 白黒写真
  • 写真(家庭防空訓練) 昭和時代 撮影者不明 白黒写真
防空訓練
  • 灯火管制カバー 昭和時代 大阪防空カバー製造業組合/製造 紙製・印刷
  • 防空頭巾 昭和時代 作成者不明 綿製
  • 防毒マスク 昭和時代 昭和化学工業株式会社/製造 ガラス・布製
  • 写真(消火訓練) 昭和時代 撮影者不明 白黒写真
福岡大空襲と戦後の街
  • 焼夷弾部品 昭和20年 米軍/投下 金属製
  • 写真(空襲後の福岡市) 昭和20年 米軍/撮影 白黒写真
  • 写真(大濠公園・福岡城趾空撮) 昭和21年 W.H.Kruger /撮影 白黒写真
  • 写真(九州大学医学部校舎) 昭和21~22年 Gray.Wright Waldorf /撮影 白黒写真

《参考文献》『福岡市史』第3巻昭和前編(上)(福岡市役所、1965年)、『福岡市史』第6巻昭和編 後編(二)(福岡市役所、1971年)、福岡空襲を記録する会編発『火の雨が降った 6・19福岡大空襲』(1986年)、大日方純夫『近代日本の警察と地域社会』(筑摩書房、2000年)、土田宏成『近代日本の「国民防空」体制』(神田外国語大学出版局、2010年)

福岡市博物館
〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
TEL:092-845-5011 FAX:092-845-5019

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