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企画展示

企画展示室1
石里洞秀(いしざととうしゅう)~江戸の福岡藩御用絵師(ごようえし)~

令和6年8月6日(火)~ 10月6日(日)

■はじめに
(出品1)《梅に鷹図(部分)》72歳の作
(出品1)《梅に鷹図(部分)》72歳の作

 本展では江戸時代後期の絵師、石里洞秀(いしざととうしゅう)について紹介します。石里洞秀は福岡藩御用絵師(ごようえし)でありながら、福岡ではなく江戸で御用を務めた人物です。今では有名と言い難い絵師ですが、当時はその画技が高く評価され、晩年には法橋(ほっきょう)に任じられました。法橋とは優れた僧侶や医師、絵師に与えられる称号です。歴代の福岡藩御用絵師でこれを得たのは、江戸時代初期の狩野昌運(かのうしょううん)と小方守房(おがたもりふさ)に続いて、洞秀が3人目でした。いかに高い評判を得ていたかわかります。

 なお石里洞秀という絵師は、初代と2代の2人いたことがわかっています。しかし初代洞秀の遺作は未だ確認されず、黒田家に仕えたかどうかもわかっていません。本展で主にご紹介するのは、晩年に法橋に叙された2代目洞秀(以下、洞秀)です。

 江戸時代の画人伝では初代と2代が混同されることも多かったのですが、1980~2000年代に研究がすすみ、洞秀について多くのことが明らかになりました。さらに近年、当館が収集した洞秀作品から、新たにわかったことがあります。そこで本展では、「これまでにわかっていること」「今回、新たにわかったこと」、さらに「まだわからないこと」を整理し直します。博物館の資料収集活動の成果と今後の展望について市民の皆さまと共有しながら、改めて福岡ゆかりの絵師を紹介し、その作品を楽しむ機会にできれば幸いです。

■活躍年代と生没年
(出品5)《石里洞秀肖像(部分)》
(出品5)《石里洞秀肖像(部分)》

 石里洞秀は初代洞秀に養子として迎えられ、初代が没した天明5年(1785)から寛政4年(1792)までの間に「洞秀」を名乗りはじめたことがわかっています。晩年の作品にもその署名が残り、文政10年(1827)2月5日に没するまで「洞秀」と称したと考えられています。

 享年および生年は不詳とされてきましたが、行年書(ぎょうねんがき)といって絵に制作時の年齢を記すことがあり、洞秀の場合その最高年齢が72歳(出品1)であることから、これを享年と仮定して、生年を宝暦6年(1756)頃に求める仮説が有力でした。

 近年当館が収集した「石里洞秀肖像」(出品5)は、洞秀を供養するための肖像画で、洞秀の没後20年目に弟子筋の者が描いたようです。画中の墨書をよくみると、没年月日や法号と共に「行年七十四歳」の文字があります。つまり享年は74歳。これを素直に没年から逆算すると、生年は宝暦4年(1754)に求められます。

 もちろん当時の「年齢」に対する感覚は現代と大きく異なります。誕生日ではなく正月に年をとるという「数え年」の考え方もそうですし、人生の節目ごとに年齢加算を行い、自称年齢を上げる人がいたことも知られています。ひとまずわかったことは享年で、洞秀の生年は新仮説としておきましょう。

■名乗りの変遷

 洞秀の名は「美敬→美之→美章」と変化したことがわかっています。少々ややこしいのですが「洞秀」は号です。これは代々受け継ぐこともできる、絵師の表看板のようなもの。これに対し、より個人的かつフォーマルな名乗りが「美」からはじまる名です。「洞」も「美」も、洞秀が入門した駿河台(するがだい)狩野家の通字(とおりじ)で、その門に学んだ絵師の名に用いられます。本展で紹介している絵師では尾形洞谷(とうこく)美淵(1753-1817)が同門です。また洞秀は斎号(さいごう)も用いています。本来はアトリエ名のようなものですが、単に別号として用いる場合も多く、洞秀は若い頃に「芝蘭斎」、後年には「蕙心斎」と称したことがわかっています。

 さて、洞秀の初期の名「美敬」の落款(らっかん)を伴うものは、これまで2例しか報告がありませんでした。本展では近年見つかった「美敬」落款作例2件(出品14・19)を公開します。まだ拙い表現がみられますが、初期画業をひもとく今後の貴重な手がかりといえます。

 なお先行研究では、洞秀は画業の最初期に「洞与」と号した可能性が強いとされ、「洞与美敬」落款作例が1件報告されています。当館および福岡周辺には「洞与」落款作例がなく、その収集や研究は今後の課題です。

■洞秀周辺の人々

 江戸を拠点とした洞秀は、福岡藩主黒田家の御用のみならず、仙台藩主、多度津(たどつ)藩主、社寺などの絵画制作をこなしました。また同じ福岡藩御用絵師の尾形洞谷美淵が江戸詰(えどづめ)を命じられるたびに交流していたらしく、洞谷が洞秀の絵を写した画稿が多く残ります。相馬藩の御用窯でも焼物の下絵に洞秀の絵が用いられていますし、洞秀に学んだ者は土佐藩をはじめ全国に広がりました。さらに洞秀自身が福岡へ下向したことがあるのか、仙厓義梵(せんがいぎぼん)をはじめとする福岡在地の僧侶や儒者が着賛した作例もあります。《鍬鋤図》(出品16)に着賛した湛元等夷(たんげんとうい)は、仙厓の後継者で安国山聖福寺の第124代住職です。ここまでに挙げた御用絵師らしい画作と比べると《色子図》(出品17)は異質ですが、作者である渓斎英泉(けいさいえいせん)は、洞秀が一緒に版本の挿画を手掛けたことのある浮世絵師です。幅広い人脈の影響あってか、洞秀は風俗画に長け、狩野派の中では比較的早く、真景図といって実際の景色に取材した風景を描いたことが知られます。

 これまで洞秀がどんな人物と交流し、どのように受容されたかは、主に近世を中心に語られてきました。《高津皇居図(こうづこうきょず)》(出品22)は、国見(くにみ)をした仁徳(にんとく)天皇が民の窮乏を知り3年間租税(そぜい)を廃止したという伝説を描くものです。実はこの旧蔵者が、近代の書家で玄洋社社員の水野疎梅(みずのそばい)(1864-1921)だとわかりました。また幕末の福岡藩御用絵師・尾形洞眠(とうみん)(1839-1895)による画稿(参考画像7)もみつかりました。洞秀の絵は福岡以外に伝わるものも多いのですが、本図は洞秀が没したあと、近代以降も福岡で愛蔵された一例といえます。

(出品10)《蝦蟇鉄拐図(部分)》
(出品10)《蝦蟇鉄拐図(部分)》

 ほかにも近年当館が収集したいくつかの洞秀作品には、福岡藩御用絵師尾形家に残る画稿類との関連が見つかりました(出品19と参考画像1など)。江戸界隈で幅広い制作活動を行うだけでなく、中央画壇から絵を地方に伝えたという点も、江戸詰の面目躍如といえるでしょう。

 今も不確かなのは、洞秀が実際に福岡の地を踏んだのかどうかです。これは絵と賛の制作時期や洞秀の受容の問題に関わるため、今後の解明がまたれます。初代洞秀の作例も見つかるといいですね。

■おわりに

 今回の調査によっていくつかの新知見が得られたと共に、真景図や風俗画題の収集が手薄であるなど、コレクションの偏りも見つかりました。引き続き当館は地域ゆかりの文化財と向き合い、資料情報を蓄積して皆さまにご活用いただけるよう努めたいと思います。

(佐々木あきつ)
■主な出品資料
  1. 《梅に鷹図》石里洞秀筆 対幅
  2. 《神農図》石里洞秀美章筆 1幅
  3. 《西湖図》石里洞秀美章筆 1幅
  4. 《花鳥図》石里洞秀美章筆 1幅
  5. 《石里洞秀肖像》蕙志斎秀川美純筆 1幅
  6. 《冨士山水図》石里洞秀美章筆 1幅
  7. 《夏冬山水図》石里洞秀美之筆 1幅
  8. 《真山水図》石里洞秀美之筆 1幅
  9. 《三賢人》石里洞秀美章筆 1幅
  10. 《蝦蟇鉄拐図》石里洞秀美之筆 対幅
  11. 《李白観瀑図》石里洞秀筆 1幅
  12. 《竹林七賢図》石里洞秀筆 1幅
  13. 《蛙図》石里洞秀美之筆 1幅
  14. 《雪中の鷹図》石里洞秀美敬筆 1幅
  15. 《山水図》尾形洞谷美淵筆 1幅
  16. 《鍬鋤図》石里洞秀筆・湛元等夷賛 双幅
  17. 《色子図》渓斎英泉筆・為永春水賛 1幅
  18. 《迷府大猛勇顕》河鍋暁斎画 3枚続
  19. 《虎図》石里洞秀美敬筆 1幅
  20. 《富士雲龍図》石里洞秀美章筆 1幅
  21. 《書画貼交屏風》石里洞秀美敬・他筆 6曲1双
  22. 《高津皇居図》石里洞秀美章筆 対幅
  23. 《黒田長政像》伝・石里洞秀筆 一幅

※ 出品資料はすべて当館所蔵(木村和男資料、外林国衛資料、藤井家資料、毎日新聞社幽霊妖怪画コレクションを含む)

■参考画像
  1. 《虎図》ム田嘉助筆 1点
  2. 《富岳越竜図》尾形探香筆 1点
  3. 《鯉図》ム田嘉助筆 1点
  4. 《鯉図》ム田嘉助筆 1点
  5. 《梅に鷹図》ム田嘉助筆 1点
  6. 《梅樹図》作者不詳筆 1点
  7. 《公卿像》尾形洞眠筆 1点
  8. 《江府真乳山祥天の景図》尾形洞眠筆 1点

※参考画像はすべて尾形家絵画資料(福岡県立美術館所蔵・福岡県指定文化財)

■主要参考文献

1『特別展 御用絵師』図録(福岡県立美術館 1987)/2『狩野派と福岡展』図録(福岡市美術館 1998)/3 小林法子『筑前お抱え絵師』(中央公論美術出版 2004)

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