企画展示
企画展示室1
筑前の刀工 信国
令和7年4月15日(火)~ 6月15日(日)

◆ 福岡移住以前の信国派

◆ 筑前信国派の祖・吉貞
天正(てんしょう)15年(1587)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)による九州国分(くにわけ)で、黒田孝高(くろだよしたか)(如水(じょすい))が豊前六郡の領主となると、信国吉貞(よしさだ)(前名吉定(よしさだ))は黒田家に仕えました。吉貞は黒田長政(ながまさ)の好みにより袋鎗(ふくろやり)(史料9・10)を作りました。通常は細い茎(なかご)を柄に挿し込みますが袋鎗は茎の部分が筒状となり、その中に柄を挿し込んで固定します。軍陣において穂先だけを携行できる利便性があり、信国派で数多く制作しました。慶長(けいちょう)5年(1600)、関ヶ原(せきがはら)の戦いの戦功により長政が筑前国に移封されると、吉貞も筑前に移住し、筑前信国の祖となりました。
◆ 筑前信国派の刀工
吉貞の3人の子、吉政(よしまさ)・吉次(よしつぐ)・吉助(よしすけ)は三家に分かれそれぞれ作刀に従事し、筑前の刀工の主流となりました。
長男の吉政は、備前(びぜん)で学び別伝を受けたため、次男吉次の系統が信国派の本流を継承しました。嫡流は「国」字を左右反転させた鏡文字(かがみもじ)(図1)で刻みました。三男吉助の系統では吉助の子作左衛門(さくざえもん)吉貞(史料11)が名工として知られ、黒田家の信仰が篤(あつ)い太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)や桜井神社(さくらいじんじゃ)への奉納刀が伝わっています。
吉次の孫重包(しげかね)(正包(まさかね))は、福岡藩のなかでもっとも優れた刀工として知られています。幕府が全国の刀工を調査した享保諸国鍛冶御改(きょうほうしょこくかじおあらため)において、福岡藩は信国派から重包・平四郎重久(へいしろうしげひさ)・包次(かねつぐ)、石堂(いしどう)派から守次(もりつぐ)・守昌(もりまさ)・守勝(もりかつ)の6名を報告しましたが、重包のみ江戸に召し出され、享保6年(1721)、将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)の命により、浜御殿(はまのごてん)において鍛刀を行い、出来映えを賞され、一葉葵(ひとつばあおい)の紋を刀の茎に刻むことを許されました(図6)。重包の孫茂包(しげかね)は、茎に「京信国十七世之孫、筑之前州源茂包造之」(図2)と刻み、江戸時代においても自らの出自が京信国にあるという誇りを持ち続けました。
本展では、館蔵コレクションのなかから、筑前信国派の刀剣とともに福岡移住以前の信国派の刀剣を紹介します。




出店資料一覧
順に、資料名/時代/所蔵・資料群名を示す
- 刀 銘 京信国十七世之孫筑之前州源茂包造之/宝暦十二(1762)季春吉日 館蔵
- 貝原益軒『筑前国続風土記』巻二十九 土産考上 元禄十六年(1703)成立 館蔵/li>
- 脇差 銘 信国 南北朝時代 館蔵・赤羽刀
- 刀 折返銘 信国 室町時代 館蔵・赤羽刀
- 刀 銘 信国/文明十九年(1478)(以下切) 館蔵・赤羽刀
- 刀 銘 信国吉包作/天文九年(1540)十月日 館蔵・赤羽刀
- 脇差 銘 信国吉定作/八月日 戦国~桃山時代 館蔵・赤羽刀
- 薙刀 銘 信国源吉定作 戦国~桃山時代 館蔵・福岡藩士庄野家刀剣資料
- 袋鎗 銘 信国 江戸時代 館蔵・福岡藩士庄野家刀剣資料
- 袋鎗 銘 信国 江戸時代 館蔵・田畑純子資料
- 剣 銘 奉寄進御劒 野北浦久家惣右衛門神職菊池左近橘朝臣友重代/筑前住源信国作左右(ママ)門尉作之 貞享三年(1686)寅八月日 館蔵・赤羽刀
- 薙刀 銘 皇子十一代 筑前住源信国平四郎重宗作/宝永三丙戌年(1706)八月奉納 従五位下別所播磨守源常治之 館蔵
- 脇差 銘 筑州筥崎宮境内住源信国(重包)/正徳五年(1715)三月吉日 館蔵・福岡藩士庄野家刀剣資料
- 脇差 銘 筑州住源信国重包 江戸時代中期 館蔵・長田昌三資料
- 脇差 銘 (一葉葵紋)筑州住信国正包 江戸時代中期 館蔵・加藤明道資料(追加)
- 脇差 銘 筑前国住人信国源行国以本州鉄造/安政五年(1858)二月日 館蔵・赤羽刀
- 短刀 銘 筑前国住源信国義直/慶応弐年(1866)二月日 館蔵・福岡藩士庄野家刀剣資料
- 刀 銘 筑州住源信国重載 江戸時代末~明治初年 館蔵・赤羽刀