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    福岡の玉せせり

企画展示

企画展示室4
「筥崎宮玉せせり行事」福岡市無形民俗文化財指定記念
福岡の玉せせり

令和7年4月15日(火)~6月29日(日)

はじめに
福岡の玉せせり
【写真1】「筥崎宮玉せせり行事」
(福岡市撮影)

 令和7年3月、福岡市東区箱崎(はこざき)の「筥崎宮(はこざきぐう)玉せせり行事」【写真1】が福岡市の無形民俗文化財に指定されました。
 本展は、「筥崎宮玉せせり行事」の指定を記念して、その歴史や行事の内容に加え、各地で行われてきた玉せせり行事の特徴などについて紹介するものです。
 「玉せせり」は、「玉せり」「玉やれ」などとも呼ばれ、新年の神迎えが特殊なかたちで発展したと考えられる、玄界灘沿岸部に集中して見られる正月行事のひとつです。現在、箱崎、伊崎(中央区福浜)、今宿(いまじゅく)(西区今宿)のほか、新宮(しんぐう)(糟屋(かすや)郡新宮町)、福間(ふくま)(福津(ふくつ)市)で行われています。かつては博多の町々や黒門(くろもん)(中央区黒門)、弘(ひろ)(東区志賀島(しかのしま))、姪浜(めいのはま)(西区姪の浜)、宇美(うみ)(糟屋郡宇美町)などでも行われていました。
 本展を通して、地域の人びとに守り伝えられてきた文化に関心を寄せていただければ幸いです。なお本展では、地域による呼称の違いはありますが、正月に玉に触れながら地域内を移動する行事を総じて「玉せせり」と表現しています。

◆福岡の玉せせり
福岡の玉せせり
【図1】玉せせり行事の分布(国土地理院地図をもとに河口作成)

 「玉せせり」の「せせり」は、「せせる」の名詞形で、「(繰り返し)さわる」を意味する古い言葉です。
 福岡の玉せせりは、【図1・表1】に示す通り、博多湾岸を中心とした玄界灘沿岸部で行われてきました。これらには、玉を奉納先まで争奪し合いながら進む「争奪型」(箱崎など)と、玉を持ち運び家々を巡る「巡回型」(伊崎・今宿など)があり、また行事の主な担い手が子どもの場合(今宿など)と青壮年の場合(箱崎など)に分けられます。

◆恵比須神信仰と玉せせり
玉せせり行事
【表1】玉せせり行事の概要

 玉せせり行事は【表1】でも分かるように、その多くが、恵比須神社に深く関わるのが特徴です。
 博多湾岸において恵比須神社の正月行事は、主に3日、10日を中心に行われています。3日に行われる箱崎や今宿の玉せせりのほか、10日には博多区東公園にある十日恵比須神社の正月大祭で、当年の開運等を祈願して御座(おざ)や福引が行われたり、西区西浦(にしのうら)の恵比須神社の「十日恵比須まつり」のように新人漁師が恵比須神に扮(ふん)するもの(令和5年以降は新人漁師の不在により休止中)など、特徴ある行事が行われてきました。
 これらのうち、いくつかの恵比須神社には、海岸に漂着した(あるいは釣り上げた)木玉や(丸い)石、御像などを恵比須神として祀ったという創建の由来を伝えるところもあります。「漂着」や「海中の石」は恵比須神信仰に関わりの深い事柄であり、玉せせりと恵比須神信仰の関係性がうかがえます。
 また、博多湾岸の恵比須神社には、釣竿を持ち鯛を抱える笑顔の男性恵比須神と共に女性の恵比須神を祀る夫婦(めおと)恵比須がよく見られます。ちなみに、博多を代表する年中行事のひとつ博多松囃子(はかたまつばやし)(国指定重要無形民俗文化財)に登場する恵比須神もまた夫婦恵比須です。
 玉せせりでは、地域により複数の玉を所持していることもありますが、それが2つの場合、「陰陽」や「雄雌」、「男女」など呼び分けがされており、玉そのものに夫婦恵比須の姿を重ねていることがうかがえます。

◆「筥崎宮玉せせり行事」
筥崎宮玉せせり行事
【写真2】「筥崎宮玉せせり行事」の陰珠(左)と陽珠(右)(福岡市撮影)

 毎年1月3日、筥崎宮で行われる玉せせりは、福岡における正月の風物詩のひとつとしてよく知られています。
 陰陽2つの木玉【写真2】のうち、直径26センチメートル、重さ8キログラムの「陽珠(ようじゅ)」を、晒木綿(さらしもめん)の下帯を締めた「競(せ)り子(こ)」と呼ばれる氏子たちが争奪し、社殿への奉納の結果をもって1年の豊饒(ほうじょう)を占います。
 行事ではまず、1月3日の午後1時より、筥崎宮の絵馬殿で玉洗式(たまあらいしき)が行われます。神職(かつては一木(いちき)・山口の二家)により玉に菜種油が注がれ、半紙で拭きあげられます。博多曲物の玉櫃に納められた2つの玉は、境外末社の玉取恵比須神社に運ばれ、そこで神事が行われます。
 陽珠は世話人たちの手を渡り、最初に玉を持てない乳幼児に触れさせます。その後、玉は子どもの競り子の手に渡り、一の鳥居の北に位置する交差点付近まで多くの競り子の手を経て進みます。玉の運び役である「宰領(さいりょう)」がいったん受け取った陽珠は、次に青壮年の競り子の手へ移ります。それから筥崎宮の楼門に待機する神職の手に渡るまで、激しい玉の奪い合いが見られます。その間に陰珠は、世話人により筥崎宮の本殿へ運ばれます。
 この行事の由緒については諸説ありますが、確認できる史料上の初見は江戸時代中期に貝原益軒(かいばらえきけん)が著した『筑前国続風土記』です。「正月三日玉取の祭といふ事あり。那珂(なか)郡東堅粕(かたかす)村に玉田といふ田の字あり。是箱崎の神領なりし時、玉取祭の料なりし所とかや。是は八幡宮祭の市始とて、夷(えびす)社の所より、木珠の径尺余なるを箱崎、馬出(まいだし)、両村の土民ともより集りて取出し、油をぬりて、それより本社の拝殿まて行て、道すから争ひとる事あり。是を取得たる年は、其村の田穀のなりはひ豊饒なりとて、両村の者共争ひぬるさまいとをかし。此祭今に至て絶す」とあり、往時の在り様から緩やかな変化はありつつも、大きな変容がなく今日まで伝わっていることが分かります。

◆描かれた玉せせり
玉競図
【写真3】玉競図(桑原鳳井画・二川相近賛)

 玉せせりは、江戸時代から明治時代に活動した福岡・博多の文化人や絵師たちも関心を寄せた年中行事のひとつだったようです。
 仙厓義梵(せんがいぎぼん)(1750―1837)や奥村玉蘭(おくむらぎょくらん)(1761―1828)、桑原鳳井(くわはらほうせい)(1793―1841)【写真3】、上田鉄耕(うえだてっこう)(1849―1914)、一得斎高清(いっとくさいたかきよ)(不詳・明治時代中期)などによって描かれてきた玉せせりは、挿絵や掛軸、版画などのかたちで人びとに親しまれてきました。
 作例を見ると、一の鳥居と鳥居付近の松と共に、玉を奪い合う大勢の競り子を描くのがある意味お決まりの構図だったようです。少々大きさが誇張された玉を奪い合う競り子たちが、ざんばら髪を振り乱しながら玉に手を伸ばす姿を描いたものもあり、争奪の激しさを物語っています。また、競り子の周囲には扇を手にした裃姿(かみしも)の人物も描かれており、進行役のような役割を担っていたのかもしれません。

河口綾香 (福岡市博物館)
荒川真希 (文化財活用部)

 本展の開催にあたり、調査の段階より黒門東部自治会、玉取恵比須神社、筥崎宮、戸次武史氏(五十音順・敬称略)にご協力を賜りました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。

◆◇ 主な展示資料 ◇◆

・木玉/黒門東部自治会蔵
・『筑前国続風土記』/館蔵
・「官幣中社筥崎宮御由緒調書」/筥崎宮蔵
・陽珠・陰珠/筥崎宮蔵
・色紙「玉せせり 幸運者」/個人蔵
・玉競図/館蔵・古賀晉資料

福岡市博物館
〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
TEL:092-845-5011 FAX:092-845-5019

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