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企画展示

企画展示室4
アジアの激動と福岡ゆかりの人びと2

令和7年9月9日(火)~11月9日(日)

孫文
孫文

 2025年は、1911年の辛亥革命(しんがいかくめい)で知られる孫文(そんぶん)(1866~1925)没後100年にあたります。孫文は20代で革命運動に身を投じ、遺書に「革命尚ホ未ダ成功スルニ至ラズ」とのこして世を去るまで活動を続けた人物です。
彼の活動を支えた日本人の中には、福岡ゆかりの人びともいました。

アジアの激動

 19世紀半ばからの100年は、アジア諸国の国家体制は変わり、古代以来の中国を中心とする国際秩序も変化します。
 中国では、清朝が、アヘン戦争(1840~42)でイギリスに敗れ、アロー戦争(1856~60)ではイギリスとフランスの連合軍に敗れました。インドでは、1858年にムガル帝国が滅び、イギリスによる統治が始まります。
東南アジアでは、欧米列強による植民地化がすすみました。清仏戦争(1884~85)に清が敗れたことによりベトナムはフランスの保護国になりました。
 日本では、江戸幕府は、1854年に日米和親条約を結び開国、幕末の動乱をへて明治維新政府が成立しました。日本は、清と対等な条約(1871年、日清修好条規)を結んだ一方、軍事力を背景に朝鮮に不利な不平等条約(1876年、日朝修好条規)を結びました。以降、宗主権を主張する清と、朝鮮をめぐって対立していくことになります。朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)がおきると、日清両国が出兵、日清戦争(1894~95)へとつながりました。
日露戦争(1904~05)をへて、1910年、日本は韓国(1897年、朝鮮は国号を大韓帝国と改めた)を併合しました。
また、台湾は、清朝の統治下におかれていましたが、日清戦争の結果、1895年、日本は台湾総督府を設置しました。 辛亥革命で清朝は倒れ、中華民国が成立。1945年、アジア太平洋戦争が日本の降伏で終結したのち、1949年、中華人民共和国が成立しました。

辛亥革命と孫文

 アヘン戦争やアロー戦争をへて、欧米列強の中国進出がすすみました。そうした中、中国では民衆の排外運動がおこります。1900年、山東省で義和団が蜂起し、北京の在留外国人が脅かされたため、欧米列強と日本は共同出兵しました。
 清朝は、義和団事件以降、軍隊や産業の近代化をめざして欧米の技術の導入をはかります(洋務運動)。しかし、華僑や留学生などの間で革命運動が活発になっていきました。孫文の少年期・青年期は、まさに清朝の支配が揺らぎ、列強が中国に押し寄せてきた時期でした。

大正2年の孫文来日

 孫文はその生涯で亡命も含め何度も来日しています。その中で、1913(大正2)年2月13日から3月23日までの訪日は、ただ一度の政財界の要人からも歓迎された公式来日でした。上海から長崎に上陸した孫文一行、まずは東京へ向かいます。当時、孫文は来日の目的を①商工業の視察、②鉄道業調査、③旧友との交歓、の3つであると語っています【読売新聞 大正2・2・15朝刊】。
 東京では、まず、近衛篤麿(このえあつまろ)公爵、児玉源太郎(こだまげんたろう)陸軍大将、神鞭知常(こうむちともつね)の墓参りをしています。いずれも生前、孫文の革命運動を支援した人物です。
 また、東京滞在中、多くの政治家や官僚、財界関係者に会っています。
山本権兵衛(やまもとごんべえ)(1852~1933)首相、
牧野伸顕(まきののぶあき)(1861~1949)外務大臣、
桂太郎(かつらたろう)(1848~1913)前首相、
犬養毅(いぬかいつよし)(1855~1932)、
後藤新平(ごとうしんぺい)(1857~1929)前逓信大臣、
山座円次郎(やまざえんじろう)(1866~1914)外務参事官
 2月16日の芝公園紅葉館での「旧知の孫氏歓迎会」【読売新聞 大正2・2・16朝刊】では犬養のほか、頭山満(とうやまみつる)や寺尾亨(とうやまみつる)ら35名から歓迎を受けました。
 福岡県内での孫文一行の旅程は次のようなものでした。福岡に滞在中の孫文は、旧友との交流に多くの時間を割いていたことが分かります。
3月16日(日)
09:00 明治専門学校(現・九州工業大学)を訪問安川敬一郎邸(やすかわけいいちろう)(北九州市戸畑区)へ
3月17日(月)
09:00 八幡製鉄所(北九州市八幡東区)を視察
16:00 常盤館(ときわかん)(水茶屋、福岡市博多区千代3丁目) へ移動
17:00 孫文の代理が福岡日日新聞社(須崎土手町、福岡市中央区天神四丁目)を訪問
18:00 安川ら主催の晩餐会
3月18日(火)
聖福寺(しょうふくじ)(福岡市博多区御供所(ごくしょ)町)
平岡浩太郎(ひろおかこうたろう)の墓参り
平岡良助(りょうすけ)邸(天神町、福岡市中央区天神2丁目)を訪問
中野徳次郎(なかのとくじろう)別邸(大名町、福岡市中央区大名2丁目)を訪問
玄洋社(西職人町、福岡市中央区舞鶴2丁目)を訪問
13:00 常盤館で旧友会
15:00 崇福寺(そうふくじ)(福岡市博多区千代4丁目)
安永東之助(やすながとうのすけ)の墓参り
九州帝国大学医学部(現・九州大学医学部)を参観
17:00 九州帝国大学で講演会
18:00 公会堂(現・旧福岡県公会堂貴賓館、福岡市中央区西中洲)で歓迎会
3月19日(水)
10:58 大牟田着、三池築港へ
11:10 四ツ山発電所着
11:40 三井港倶楽部(大牟田市)着、昼食会
宮崎滔天(みやざきとうてん)邸(熊本県荒尾市)へ
15:30 万田炭坑(荒尾市)へ
17:00 三井工業学校(現・福岡県三池工業高校)へ
19:00 三井港倶楽部で晩餐会
 孫文一行が降り立った博多駅は、現在の出来町公園(博多区博多駅前1丁目)付近にあった2代目駅舎(1909~63)です。市内には路面電車が走っていました。福岡城の堀を埋め立てて会場にした明治43年の博覧会閉幕後、その跡地(中央区天神1丁目)で、福岡県庁(1915~81)が建設中でした。福岡市役所は水鏡天満宮(中央区天神1丁目)近くの木造二階建ての建物で、西鉄天神大牟田線となる電車の路線や百貨店もまだなく、現在は西日本有数の繁華街である天神地区はまだ人びとが集まるような街ではありませんでした。
 孫文が参観し講演をおこなった九州帝国大学は、1911年に四番目の帝国大学として発足したばかりでした。墓参りで訪れた聖福寺や崇福寺のほかは、孫文が大正2年の公式来日の際に福岡で目にしたもので現在も残っているものとしては、旧日本生命九州支社と県公会堂くらいでしょう。

現在革命未成功

 清朝打倒後、袁世凱の独裁化を阻もうとして敗れた国民党の孫文らは、1913年8月、日本に亡命します。
1925年3月12日、孫文は北京の病院で死去します。孫文の遺体は、いったん北京郊外に埋葬されましたが、1929年、南京の中山陵にあらためて葬られました。

(太田暁子)
孫文関係年表
西暦 年齢 孫文年譜 東アジアでの出来事
1840 6/28 アヘン戦争が本格化
1842 8/29 南京条約締結
1853 7/8 ペリーが浦賀に来航
1854 3/31 日米和親条約調印
1856 10/23 アロー戦争が起こる
1858 6/13 天津条約調印
7/29 日米修好通商条約調印
1860 10/24 北京条約調印
1863 6/25 長州藩外国船砲撃事件
8/15 薩英戦争
1864 9/5 四国艦隊下関砲撃事件
1866 1 11/12 広東省香山県で生まれる
1871 6 9/13 日清修好条規調印
1874 9 2/6 台湾出兵が閣議決定
1875 10 5/7 樺太・千島交換条約調印
9/20 江華島事件
1876 11 2/26 日朝修好条規調印
1878 13 ハワイへ
1882 17 7/23 壬午軍乱
8/30 済物浦条約調印
1883 18 ハワイ→帰国
1884 19 6/23 清仏戦争
12/4 甲申政変
1885 20 1/9 漢城条約調印
4/18 日清天津条約調印
1886 21 10/24 ノルマントン号事件
1887 22 西医書院に入学
1892 27 マカオで開業
1894 29 ハワイに渡り、興中会を創設 3/29 甲午農民戦争
8/1 日清戦争はじまる
1895 30 広州で蜂起に失敗 日本に亡命
アメリカからイギリスに渡りロンドンで清国公使館に抑留される
4/17 下関条約調印
5/10 台湾総督府設置
10/8 閔妃殺害事件
1897 32 来日
1899 34 興漢会を創立
1900 35 恵州三州田の蜂起に失敗 日本→ハノイ日本と亡命生活
1901 36 2/ 南方熊楠を訪ねる
1904 39 2/10 日露戦争はじまる
1905 40 日本で中国革命同盟会を結成し「民報」を発刊 5/27 日本海海戦
9/5 ポーツマス条約調印
1910 45 8/22 韓国併合
1911 46 武昌蜂起 10/10 辛亥革命おこる
1912 47 1/1 中華民国臨時大総統に就任
8/25 国民党結成
2/12 清朝滅亡
1913 48 8/ 袁世凱に敗れ日本に亡命 
1914 49 7/ 中華革命党を結成 7/28 第一次世界大戦はじまる
1915 50 11/ 宋慶齢と結婚披露宴
1916 51 袁世凱死去 4/ 日本から上海へ帰国
1917 52 広州を占領、軍政府を組織 3/12 ロシア革命はじまる
1918 53 上海に逃れる 8/2 シベリア出兵
1919 54 革命党を中国国民党と改める
1920 55 1/10 国際連盟発足
1921 56 中華民国広東政府をたて大総統に就任
1923 58 孫文・ヤッフェ共同宣言 9/1 関東大震災
1924 59 11/28「大アジア主義」の講演
1925 60 3/12 北京協和医院で死去
主な展示資料 名称/時代/作者/寄贈者・寄託者
  • 聖徳記念絵画館壁画集/昭和7年/明治神宮奉賛会/井島良雄資料(寄贈)
  • 清仏戦争実記/明治17年/綿喜発兌
  • 大韓帝国皇帝勅諭/隆煕4(1910)年/印刷者不詳/都島直来資料(寄贈)
  • 井田紅旗/1910年ヵ/製作者不明/末永賢次資料(寄贈)
  • 複写写真(孫文)/1910年代ヵ/撮影者不明/玄洋社記念館資料(寄託)
  • 書「明道」/明治時代後期~大正時代/孫文/玄洋社記念館資料(寄託)
  • 書「博愛」/明治時代後期~大正時代/孫文/玄洋社記念館資料(寄託)
  • 書「至誠即是神」/明治時代後期~昭和時代前期/頭山満/玄洋社記念館資料(寄託)
  • 扇面/大正二年/山座円次郎/玄洋社記念館資料(寄託)
  • 図面(玄洋社平面図)/昭和時代戦後/玄洋社記念館製図/玄洋社記念館資料(寄託)
  • 書「柔以制剛」/明治時代後期~大正時代/進藤喜平太/玄洋社記念館資料(寄託)
  • 最新実測福岡市街大地図/大正2年/博文社
参考図書

深町英夫『孫文』(岩波新書 2016年)/石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』(海鳥社 2010年)/吉澤誠一郎『シリーズ中国近現代史① 清朝と近代世界』(岩波新書 2010年)/川島真『シリーズ中国近現代史② 近代国家への模索』(岩波新書 2010年)/野沢豊『辛亥革命』(岩波新書 1972年)/『日本外交文書 大正十四年第二冊上巻』(外務省 1983年)/外務省調査部『明治百年史叢書 孫文全集』(原書房 1967年)

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