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  • No.502 木簡が見つかってから

企画展示

企画展示室4
木簡が見つかってから

平成29年10月17日(火)~12月17日(日)

はじめに
高畑遺跡(博多区)出土木簡
高畑遺跡(博多区)出土木簡

 「もっかん」と聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。

 墨で文字が書かれた木片のことを「木簡(もっかん)」といいます。歴史の教科書に出てくる木簡は、1000年ほどの時を経て、水分の多い土の中から見つかったものです。出土文字資料として、考古学と文献史学をつなげ、新たな歴史の展望を示してくれます。

 福岡市内ではこれまでに10箇所以上の遺跡で、合わせて100点を超える木簡が発掘されました。木簡が見つかるということ、それ自体が、そこでの文字文化の受容を示しています。それでは、木簡からどのようにして情報を引き出していくのか、発見後の様子をたどりながら色々な角度で木簡を見ていきたいと思います。

一 木簡の発見

 遺跡から木片が見つかっても、それが直ちに木簡の発見とはなりません。長い間地中にあった木製品にとって紫外線や酸化、乾燥は大敵です。文字が読めそうな場合でも、まずは速やかに水に漬けて屋内へ運びます。そして洗浄作業で土を落とし、ほとんどはこの段階で墨の跡の有無を確認することになります。この時、泥の中に紛れた薄い木の削屑から鮮やかに墨書文字が現れることもあります。これも立派な木簡です。

 汚れか文字か、より鮮明に見たいときに活躍するのが赤外線撮影です。赤外線を使うことで、木に染みこんだ墨の黒を際立たせて見ることができます。博多遺跡群(博多区)で出土した、全面に薄く黒漆がかけられた桧の桶は、赤外線撮影をした際に漆の下にも文字が書かれていることが確認されました。細かな調査を重ねることで、木簡は見つかっていきます。

二 文字からみる木簡の役割
金武青木遺跡(西区)出土「物部嶋足」木簡(画像3点は『金武青木』報告書より)
金武青木遺跡(西区)出土「物部嶋足」木簡
(画像3点は『金武青木』報告書より)

 展示室に並ぶ木簡を見ると、文字がはっきりと読めないものが非常に多いことがわかります。出土後、劣化が進み見えにくくなっていく文字は、初期の記録・調査が肝要です。発掘担当者だけではなく、他の分野の研究者と協力をして釈読(しゃくどく)(文字読み)をしていきます。今回の展示でも出土後すぐの赤外線写真や実測図、そして釈文(しゃくもん)を参考にして、それぞれ書かれた文字を紹介しています。

 さて、木簡はその記載内容によって、大きく文書(もんじょ)木簡、付札(つけふだ)木簡、その他に分けることができます。

 元岡・桑原遺跡群(西区)で見つかった「里長」の文字が見える木簡は、文書木簡です。8世紀の国郡里制において、郡の役所が里の長に出したものだと考えられます。このように文書木簡は、役人の勤務評定や、呼び出しなど、主に役所で用いられました。紙が普及する前の行政文書として、古代の特徴的な文書のあり方といえます。

 付札木簡は物を分類・整理するためのものです。運搬される物資に付けた荷札、巻物の見出しであった題簽軸(だいせんじく)など、国名や品目、日付が書かれたものが福岡市内から見つかっています。

 その他に分類される木簡の役割は様々です。呪符(じゅふ)木簡は雨乞(あまごい)などの信仰・呪術行為で使われました。習書(しゅうしょ)木簡は、字の練習がされたものです。そこには同じ文字が繰り返し書かれたり、脈絡なく文字が続いたりしています。表面を刀子(とうす)(小刀)で削ることで繰り返し使用ができた木の札は、筆の運びを練習するにはうってつけでした。

三 形からみる木簡
香椎B遺跡(東区)出土「寛治七年」木簡(赤外線写真)(画像は『香椎B遺跡』-図版編-報告書より)
香椎B遺跡(東区)出土
「寛治七年」木簡(赤外線写真)
(画像は『香椎B遺跡』-図版編-報告書より)
元暦元年乙訓郡往生院文書(題簽軸部分)
元暦元年乙訓郡
往生院文書
(題簽軸部分)

 木簡の形を観察してみると、その使われ方を推測することができます。

 数多く発見される木簡の形に、短冊型で上下に切り込みを入れたり、先を尖らせたりしているものがあります。これは、物にひもでくくりつけたり、差し立てたりするための形で、荷札木簡によく見られます。題簽軸木簡と呼ばれるものの形も特徴的で、巻物の軸に文字を書き込めるようになっています。香椎B遺跡(東区)で発見されたものは年号が書かれた部分のみが残っていますが、それには軸が続いていたと考えられます。

 更に木簡に顔を近づけて、その加工方法に注目してみましょう。下月隈C遺跡(博多区)から見つかった「皇后宮職」と書かれた文書木簡の下端部は、表裏両面から刃を入れて丁寧に整形されたことがわかります。

四 形からみる木簡のその後
下月隈C遺跡(博多区)出土「皇后宮職」木簡下端部
下月隈C遺跡(博多区)出土「皇后宮職」木簡下端部

 文書や荷札としてその役目を果たした木簡は、ゴミとして捨てられました。元岡・桑原遺跡群(西区)の「建部根足」木簡は下部に内容が続いていたと思われますが、途中で斜めに切れています。廃棄の際に意図的に折っていたようです。荷札木簡は、そのままの形で見つかることが多く、食料などの物資が最終的に消費される場所で、荷解きをされ、捨てられていたと考えられます。

 再利用ののちに廃棄されるものもあります。先だけが黒く焦げている木簡は、燃料として再利用された可能性があります。鴻臚館跡(中央区)ではトイレ遺構から十数点の木簡が見つかりました。一緒に多く出土したのは、今のトイレットペーパーにあたる、木を細長く整形した籌木と呼ばれるものです。使用済みの木簡もトイレで使用し、廃棄されたのかもしれません。

 こうした木片を丸木からどのように切り出したのか、その大きさに規格はあったのか、そしてどのように廃棄されていったのか、発掘された木簡の形を見ると、その木簡がたどった道のりに迫ることができます。

おわりに

 発掘された木簡は、一通りの調査を終えると保存処理を行います。水漬け状態では定期的な水替えが必要ですし、展示や長期保存に適しません。福岡市埋蔵文化財センターでは木簡それぞれの状態に適した科学的処置を施し、木材として安定した状態にしています。

 1961年、40点の木簡が奈良の平城宮跡で見つかり、古代史の史料として注目されました。それから半世紀、その木簡を含む「平城宮跡出土木簡」が今年、木簡として初めて国宝に指定されました。また近年、国内で出土する木簡は文字資料として一元的なデータベース化が進み、より複合的な研究の進展、新たな発見が期待されます。

 土の中から見つかった木簡は、様々な過程を経て、文化財として広く公開され、また歴史資料としてこれからも役立っていくことになります。日本各地で発掘・報告がされる木簡から今後も目が離せません。
(佐藤祐花)

《参考文献》

佐藤信『出土史料の古代史』東京大学出版会、2002年
平川南『古代地方木簡の研究』吉川弘文館、2003年
三上喜孝『日本古代の文字と地方社会』吉川弘文館、2013年

《主な展示資料》

・高畑遺跡8次出土木簡
「和佐」・「荒権下米」(8世紀後半~9世紀前半/博多区)
・井相田C遺跡2次出土木簡
「月十四」・「十六日」・「押勝」(8世紀/博多区)
・博多遺跡群築港線3次出土木製品
曲物(12世紀/博多区)
・鴻臚館跡5次出土木製品
題簽軸木簡・「天寒」木簡・籌木(8世紀/中央区)
・香椎B遺跡出土木簡
「岐嶋雑掌」・「寛治七年」・「みな一夕」・「卅土龍」(10世紀~12世紀/東区)
・元岡・桑原遺跡群7次出土木簡
「里長」(7~8世紀/西区)
・同20次出土木簡
「計帳」・「嶋郡赤敷里」・「大宝元年」・「建部根足」・「道塞」・「献上」・「登志郷」(8世紀)・ 「南無千手陀羅尼」(9世紀?/西区)
・下月隈C7次遺跡出土品
「皇后宮職」木簡(8世紀)・「里長」墨書土師器(9世紀/博多区)
・金武青木A遺跡1次出土木簡
「物部嶋足」・「公浄足」・「月七日」・「足」・「七月十九日」・「延暦十年」(8世紀/西区)
以上、福岡市埋蔵文化財センター蔵(括弧内は、出土品が使用されたおよその年代/遺跡所在の福岡市内の区を示す)
・元暦元年乙訓郡往生院文書(12世紀)
・大宰府出土木簡複製(7~8世紀)
以上、館蔵(括弧内、複製品は原品の年代を示す)

本展の開催にあたり、福岡市埋蔵文化財センターのご協力をいただきました。ここに記して感謝いたします。

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