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  • No.508 市美×市博 黒田資料名品展Ⅶ 黒田如水の文芸

企画展示

企画展示室2
市美×市博 黒田資料名品展Ⅶ 黒田如水の文芸

平成30年3月6日(火)~4月30日(月・祝)

1、はじめに
黒田如水像(部分)
1 黒田如水像(部分)

 福岡市美術館と当館がそれぞれ所蔵する、福岡藩主ゆかりの「黒田資料」を併せて活用するシリーズ展示の7回目は、豊臣秀吉




2、若い頃は和歌の道を志していた
黒田如水墓所(崇福寺)
黒田如水墓所(崇福寺)

 福岡市博多(はかた)区千代(ちよ)にある黒田家の菩提所(ぼたいしょ)・崇福寺(そうふくじ)の裏手には黒田家歴代の墓所があります。その中でもひときわ目立つのが黒田如水のお墓です。ぎっしりと刻まれた文字は外交僧として活躍した景轍玄蘇(けいてつげんそ)(1537~1611)によるもので、如水の経歴が詳しく書かれています(資料2)。その中に17・8歳の頃のこととして「専愛和歌之道(もっぱらわかのみちをあいし)、上自三代集(かみはさんだいしゅうより)、下至八代集(しもははちだいしゅうにいたる)、此外更及源氏物語(このほかさらにげんじものがたり)、伊勢物語(いせものがたり)、諸家歌集等(しょかかしゅうなどにおよびて)、有欲通習之志(つうしゅうせんとほっするのこころざしあり)」という記述が出てきます。大まかな意味としては、若い頃に如水は和歌の道を愛し、勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)(天皇や上皇≪じょうこう≫の命令で編まれた和歌集)を学び、さらに源氏物語などの古典をも学んでいこうという志があったという内容になります。しかし、戦乱の時代に兵書(へいしょ)ではなく歌を学ぶことが果たして世の中の役に立つことなのかと圓満坊(えんまんぼう)という僧に諭され、道半ばにして、和歌の道をあきらめたと墓碑の記述は続きます。

 また、江戸時代中期に成立した黒田家の歴史書「黒田家譜(くろだかふ)」(資料3)にも、墓碑と同じく如水が若い頃から風雅の道に心を寄せていたことが記されており、さらに、当代随一の文化人である細川藤孝(ほそかわふじたか)(幽斎≪ゆうさい≫、1534~1610)から「新古今集聞書(しんこきんしゅうききがき)」(資料10)を贈られたこと、晩年には連歌の神として崇敬を集めた天神(てんじん)を祀(まつ)る太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)で連歌(れんが)興行を行なったことなどが記されており、文雅の道にも通じていた人物として知られていたことが分かります。

3、如水の文芸活動

豊前国中津(ぶせんのくになかつ)(大分県中津市)の領主であった如水が家督(かとく)を息子の長政(ながまさ)(1568~1623)に譲るのは天正(てんしょう)17(1589)年の四四歳の時です。しかし、その後も小田原(おだわら)攻めや朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)に従軍しており、忙しい日々を過ごしています。如水の文芸活動が具体的に見えてくるのは慶長(けいちょう)3(1598)年、53歳以降のことで、特に上方(かみがた)などで連歌会に参加していることが各地に残る連歌資料から明らかになっています。如水は主に京都において、桃山(ももやま)時代の連歌の第一人者である里村紹巴(さとむらじょうは)(1525~1602)や「寛永(かんえい)の三筆(さんぴつ)」の一人に数えられる近衛信尹(このえのぶただ)(1565~1614)ら公家衆(くげしゅう)と交流し、連歌の腕を磨いていきました。ちなみに、近衛信尹は黒田家が筑前国(ちくぜんのくに)の領主となった際に如水に宛てた書状(太宰府天満宮所蔵)で「宰府之天神(さいふのてんじん)よき仕合(しあわせ)にあはれ候(そうら)はんと珍重候(ちんちょうにそうろう)」として、連歌の神にゆかりのある地を領したことを祝福しています。

4、如水が参考とした作品
黒田如水自筆書状 里村昌琢(しょうたく)(1574~1636、
紹巴の孫)に連歌の添削を依頼したもの
6 黒田如水自筆書状 里村昌琢(しょうたく)(1574~1636、 紹巴の孫)に連歌の添削を依頼したもの

 和歌や連歌の技法の一つに「本歌取(ほんかどり)」というものがあります。昔のすぐれた歌から語句・発想・趣向を引用して、複雑な内容を表現し余情や余韻(よいん)を残す技法です。如水が残した連歌の中にもそうした表現をいくつか見出すことができます。

 例えば、「福岡」という地名が初めて使われたとされる「如水公夢想連歌(じょすいこうむそうれんが)」(資料7)の中の「松・梅や末長かれと緑立つ山より続く里は福岡」という冒頭の歌についてですが、実は細川幽斎の紀行文「九州道之記(きゅうしゅうみちのき)」(資料8)の中に似た歌が登場します。それは「浪荒き 潮干(しおひ)の松の桂潟(かつらがた)島より続く海(うみ)の中道(なかみち)」というもので、志賀海(しかうみ)神社(福岡市東区)に伝わっていた歌とされています。下(しも)の句(く)の「山より続く」と「島より続く」が対をなしていることが分かります。

 他にもこの「夢想連歌」の中には本歌取りと思われる句が散見されます。「野寺(のでら)のかねのちかくきこゆる」は室町時代を代表する連歌師・宗祇(そうぎ)(1421~1502)が連歌書「老(おい)のすさみ」で紹介している「野寺の鐘の遠き秋の夜」という句を意識していると思われ、「槿(あさがお)のはなさくかきね色ふかみ」は鎌倉時代の謡曲集(ようきょくしゅう)「宴曲集(えんきょくしゅう)」に収録された「槿のはなさく垣穂(かきほ)の朝露(あさつゆ)、朝置霜(あさおきしも)の朝湿(あさじめ)り」によく似ています。さらに「たてならへてはかへる小車(おぐるま)」は、鎌倉時代の日記文学「弁内侍日記(べんのないしにっき)」に登場する「道憂(みちう)き程(ほど)に帰る小車」と、「野分(のわき)の後やなひく草むら」と「行かひもしけくなりぬる関(せき)むかへ」はそれぞれ「源氏物語」の野分と関屋(せきや)との関連性をうかがうことができます。

 如水が一人で百韻(ひゃくいん)(五七五の長句(ちょうく)と七七の短句(たんく)を交互に連ねて百句で一巻としたもの)をまとめた「如水公独吟(じょすいこうどくぎん)」(資料5)には里村昌叱(しょうしつ)(1539~1603、紹巴の娘婿≪むすめむこ≫)による添削(てんさく)が加えられていますが、その中の昌叱のコメントも本歌取りを意識したものとなっています。そこには「長恨歌(ちょうごんか)の心珍重候(こころちんちょうにそうろう)」とか「住吉の物語(ものがたり)の心哉(こころかな)、尤候(もっともにそうろう)」とあって、古歌や古典を参考にしていることが評価のポイントとなっていることが分かります。

5、文芸三昧の日々
12 辞世和歌短冊
12 辞世和歌短冊

晩年の如水は太宰府に住み、連歌屋(れんがや)を再興して、連歌師の木山紹印(きやまじょういん)を屋主(やぬし)に迎えて、天満宮の神職や家臣らと頻繁に連歌会を催しています。50代半ばを過ぎ、ようやく若い頃の願いが叶ったわけですが、幸せな日々もつかの間、慶長九(1604)年3月20日に59歳でこの世を去ります。

 おもひをく言の葉なくてつゐに行道はまよはしなるにまかせて

 歌の世界を満喫出来たのは最後の数年 過ぎませんが、思い残すことは何もない、という辞世の句に如水の達成感、満足感を読み取ることが出来るのではないでしょうか。
(宮野弘樹)

展示資料一覧(資料名/時代/作者等/員数/所蔵・資料群名)

1、黒田如水像/江戸時代後期(19世紀)写/原本宗儒賛/一幅/館蔵・黒田資料
2、龍光院殿如水円清大居士碑幷序/慶長9(1604)年/景轍玄蘇/一幅/館蔵・黒田資料
3、黒田家譜/宝永元(1704)年成立/貝原篤信他編/二冊/館蔵・黒田資料
4、黒田如水和歌短冊/桃山時代(16世紀)/黒田如水/一幅/館蔵・黒田資料
5、如水公独吟/慶長5(1600)年3月17日/黒田如水/一巻/館蔵・黒田資料
6、黒田如水自筆書状/年未詳(16~17世紀)2日/昌琢宛/一通/館蔵・黒田資料
7、如水公夢想連歌/慶長7(1602)年正月16日/黒田円清ほか/一帖/館蔵・黒田資料
8、幽斎道之記/天正15(1587)年成立、寛文9(1669)年版/一冊/館蔵・昭和60年度購入資料
9、六家抄(重要美術品)/永正2(1505)年成立、天正4(1576)年3月5日写/牡丹 花肖柏撰、細川幽斎筆/一冊/福岡市美術館蔵・黒田資料
10、新古今集聞書(重要美術品)/文禄4(1595)年写、慶長2(1597)年贈/東常縁著、細川幽斎筆/一冊/福岡市美術館蔵・黒田資料
11、黒田如水書状/(慶長8・1603年)7月28日/如水より古庵・真斎宛/一幅/館蔵・平成25年度購入資料
12、黒田如水辞世和歌短冊/慶長9(1604)年/黒田如水/一帖/館蔵・黒田資料
13、懐旧之連歌/慶長9(1604)年7月6日興行、貞享元(1684)年写/吉川広家他/一巻/館蔵・黒田資料

【主要参考文献】

川添昭二・棚町知彌・島津忠夫編著『太宰府天満宮連歌史 資料と研究』
Ⅰ~Ⅳ(財団法人太宰府顕彰会、1980・1981・1986・1987)/西日本文化協会編『福岡県史 通史編 福岡藩 文化(上・下)』(福岡県、1993・1994年)/特別展図録『黒田家 その歴史と名宝展』(福岡市博物館、2002)/特別展図録『2014年NHK大河ドラマ特別展 軍師官兵衛』(NHK・NHKプロモーション、2014)

福岡市博物館
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